文はやりたし書く手は持たぬ

 時間は一年ほど前に遡る。ベルは故郷のスペインへ戻り、地中海を渡り、ペルシャ湾へと足を運んでいた。中東に新たな奴隷を探しに来たのである。砂埃舞う土地にイライラしながら、聖化された娼婦は隅の隅にひっそりとある闇市場の一角に立ち寄った。


「これは商品?」


 露店の親父に、つっけんどんに話しかける。指を差した先にいたのは牛の皮を乱暴に着せられた――羽織っただけ、が正しいか――細身の少年だった。大事そうに一枚の紙切れを抱えている。


「一億三千万トマーンだよ」


 店主から剣呑な眼差しを向けられてもベルはたじろぎもしなかった。同じように冷ややかな視線で応戦する。


「……奴隷にしては高いわね」


 この土地の年収は五百万トマーン。日本円にして約三十九万円だ。単純計算で一千万円以上の奴隷ということになる。この国なら二十六年は働かなくとも暮らしていける額だった。


「買えないなら余所よそを当たりな」

「…………」


 ベルは黙って少年を品定めする。当の商品は取引だろうが何だろうが構わないという感じで、黙って紙片を見つめている。描かれた何かを真剣に観察しているようだった。眼球すらも動かさず、一切こちらを見ようともしない。


 それをおもむろに摘まみ上げてベルは、無理矢理にでもこちらに視線を向けようとする。やがてゆっくりと、少年は聖女を見上げた。遠い遠い、空の色の瞳をしている。


 抵抗するかと思った。が、奴隷は己の身分を弁えているのか、それとももう希望はないのか、ただ静かにベルを射抜くだけで何にも執着しようとしない。


「ちょっとお客さん、冷やかしでちょっかい掛けると痛い目合うよ」

「……どういうこと?」


 関心薄く親父が言うには、この少年はいくつもの奴隷市場を転々としてきたとのことだった。出生不明、両親不明の子がどうしてここまで市場で生き残り、かつ高値を言い渡されているのか。それは客や商人を言い負かしてきたからだと伝えてくれる。


「これが?」


 どう見ても貧相であどけない子どもにしか感じられない。中東特有の色黒の肌に、黒い髪。目の色は少し変わっている。けれどおだて上げられるまでとは思わない。


「日本人との混血だと。何でもその紙は、父親からのメッセージらしい」

「はぁ」


 ふと、手元の紙っぺらを覗くとそこには、ヘブライ語で『太陽シェメシュ』の文字が綴られている。希望を持たせたものだろう。奴隷として売ってしまったが、せめて息子に親の言葉だけは残るように。


 紙も文字も砂で汚れたのか茶色く変色していた。


「文字は読めるの?」


 聖女は鼻をフンと鳴らし、名も知らぬ商品に直接訊いた。


「読めません。しかし覚えられます。記憶領域にはまだ空きがあるので」


 真っ直ぐな目でいまだベルを貫いている。嘘か誠か、少年ははっきりと答えた。どこで覚えたのか難しい言葉を使う。


「読めないのにこれを見ていたの?」

「読む必要はありません。芸術作品だと思えば美しいものです」


「そう」ベルの心は決まった。「これをちょうだい。持って帰るわ」


 彼女はアッシュの手を取り、母親のように彼を連れて行った。襤褸は捨てさせ真新しい着替えを用意する。驚いたことに少年は食べることも飲むことも、誰からも習っていなかった。

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