八月(サムヌ)

絵に描いた餅

 熱気と、汗の臭い。シーツやシャツが、肌に張り付いて気分が悪い。朝だというのに太陽は、今日も元気に瞼の上から照りつけていた。それとは別に、どこからともなく香ばしい薫りがしていた。


「イズル、そろそろ起きないと、仕事に遅れますよ」

「んうー……」


 こうも暑いと動く気力もなくなる。不定期な仕事だからと、先日買い溜めしておいたペットボトルのアイスコーヒーを飲みながらアッシュが窘めた。彼はすでに真白いワイシャツに着替えており、優雅にテレビを見ている。氷をカラリと鳴らして苦い汁を飲み干せば、顎に指を遣るいつもの癖を披露した。


 その他の食事はアッシュ自身摂るつもりがないので、もちろん作ってくれることもない。鼻孔に届いた馥郁ふくいくはただの安いコーヒーだった。

どうやら連日のニュースに興味津々らしい。眠たいのを我慢して瞼を薄く持ち上げれば、ようやく貫の耳にも話題が入ってくる。


『今回、エヌの作品には、日本円にして過去最高額の二十億円が付けられました!』

「に、二十億!? 金があるところにはあるんだなぁ」


 女子アナウンサーの弾むような声に反応し、安月給の男は呟いた。すかさず少年から、つんけんした檄を飛ばされる。


「警察の職業を選んだのはイズルですから、そこで文句を言うのは間違っていますよ。それにNが作品を送付する対象は世界の実権を握っている人たちです。イズルと比べてはいけません」

「なっ!? ……いや、ま、いいや。どうせ足掻いても、遠い存在だし……」


 加えて核心を突く言葉であった。


 あくびをして、回らない頭で自分も冷蔵庫からコーヒーを取り出す。安物しか手に入れられない生活を送っているので、それで不満や攻撃を発しても意味がない。アッシュと共に暮らしているからもあるのだが、恐らく彼がいなくてもうまく遣り繰りできるとは言い難かった。


 グラスにコーヒーを注ぎ終えると、貫は再度、液晶画面をちらり見る。


 いまメディアで持ち切りのNなる人物は、芸術家である。不定期に描き上げた絵画を世界のセレブに郵送し、気に入ればそれに見合った報酬を児童支援団体に寄付するように要求している。初めはその奇抜さと献身的な要望がウケて、ハリウッド女優や有名企業の経営者に注目されるようになった。現在ではその名前が独り歩きして、作品が手に入ればすぐに金を払う野暮たちが多くなっている。どこそこのオークションにて多額で取引された、との話も聞くし、本人の活動以外の場所で火が撒かれていた。


『実は、Nは日本人なのでは、との見解もあるようですね!』

「え、そうなの? エヌって言うくらいだから……ナ行で始まる名前、とか?」


 少しずつ冴えてきた思考で一般人が考え出しそうな陳腐なことを引き出したが、異国の少年には華麗に無視されてしまった。


「……顔分かんないし、下手なこと言うもんじゃないか」


 彼は、ないしは彼女は、いわゆる匿名画家だった。絵に託された情報は、Nのサインのみ。ただのアルファベット一文字に考察を行えるほど秀才ではない。その他に確認できる情報といえば、Nが筆をふるった絵画である。セピア一色で塗られた線の細いタッチが生み出すのは、幼い子どもの姿や赤子を抱く聖母像であった。児童支援を謳っているだけあって芸が細かい。


 テレビ上に並べられた作品の一部。聖母像を見れば、先月の凄惨な事件を、また今年初めの聖女を思い出す。口の中がまた違った苦みに侵食されてきたので、貫は掻き消すように黒い液体を口に含んだ。

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