マニア(偏執的な愛)
頭の奥でびりびりと音がする。力が入らない。
「母さん、愛しているよ」
ただ唯一、息子の声だけが不思議と脳幹まで届いている。喋る気力さえも湧かない。唇を少し動かしてみるも、うまい具合にはいかなかった。
「あー……」
「安心して。僕が一緒にいてあげる」
低い音を響かせて、動かない箇所を手取り足取り。まるで赤子になったかのように、意識も混濁し何も考えられない。ただ不快ではないことが救いだった。むしろこちらの要望を手に取るように分かってくれるので、自分から動くより快適だ。
「う、あ」
外に捨て置かれれば、水に沈められれば、そのまま死を受け入れてしまう。思えば、昇が幼い頃も何もできない子だった。きっとそれは違ったのだ。すべての世話をしてくれることが、親の愛を一身に受けることに繋がる。それが分かっていて何もできない子を演じていた。いまとなっては、そのようにも感じられる。
「あ、い……」
愛して欲しかったのね。
そう音にしたいが脳が破壊されてもう長くは伝えられない。それでも昇は心を汲み取って、答えてくれた。これぞ血の繋がった親愛というものだ。
「そうだよ、母さん。僕も愛している」
夜は更け、一晩昇は母を腕に抱いて愛を噛み締めた。意思など持つから不幸になる。そうなれば、愛されることがじわじわとなくなっていく。そのようなことは耐えられない。愛は、水や酸素と同じだから。
「愛している」
朝まで愛を囁きながら、昇は綾にしてもらった同じことを施していく。例え継父や妹から見限られたとしても、自分が絶対に傍にいる。
あのままでは母は、母としての役割を殺されていた。うたも中学生になり手が掛からなくなったので、綾はただの女に戻ってしまう。その前に、手中に収めなければいけなかった。どちらにせよ、彼女はいずれ、死ぬ運命にあったのだ。
「テンペスト」
「あ?」
明朝、眠い目を擦りながら貫とアッシュは、昨日も来ていた場所に来る羽目になってしまった。今度は相談などではない。ついに
アッシュが昨夜も呟いた言葉を放てば、湿った空気が鼻を突く。地面は濡れているがすっかり暴風雨は止み、あっけらかんとした青空が広がっていた。それももうすぐ干上がってしまうと思えば、儚いものである。
ただし今夜の花火は予定通り開催されるらしい。早めに仕事を切り上げたいが、そうも言ってはいられなかった。
「雨はもう止んでるぞ。現場検証だ。殺人じゃないが、今回は俺たちも一枚噛んでるしな」
少年が横を見ると、保護者が苦虫を噛み潰したような表情をして屋敷を睨んでいた。どう話を進めればいいのか。初めてのこと尽くしで夜までに終わる道筋が見えない。せっかくの機会だからアッシュに花火でもと思ったのだが。
トリックはいたって簡単。しかしながら、構造が複雑すぎたのだ。まるで蜘蛛の巣、至るところに張り巡らされた昇のうねりが、一点に向いたのである。
「現在の発言は暴風雨とは関係ありません。漏洩電磁波のことです」
「はいぃ?」
どこかの紅茶好きな刑事ドラマの主人公のごとく、変に粘って返事をしてしまった。いけない、ここは虚構ではなく現実なのだ。全部が円満に解決する希望に、身を委ねてはいけない。
「ヒタクが屋敷の各所に盗聴器を仕掛けていたことは、気付いていたでしょう?」
「えっ!? いや、初耳なんだけど!?」
「おや、てっきり分かってヒタクに会いに来ているのかと」
実のところ凶器に使われたのは、この盗聴器から発せられる怪電波であった。そのようなことが可能なのか、それを確認、現物を回収するために貫たちは徴集させられた。無数の機材は分かりやすいものから分かりにくいものまで存在しているので、闇雲に探すより見知った警察内部の人間に話の相手をさせることで、昇の口を割ろうという魂胆である。
腕に母を抱いたままの少年は、馬鹿ではなかったが愚かであった。愛を得るためにこの方法しか取れなかったからだ。大人を壊すほどの兵器を作り出せるのに、それはとてつもなく純粋で、誰かを傷付けるために――少なくとも昇にとっては――存在させたいわけではない。アンバランスな願いはまさにその歳の子らしさを表していた。
「盗聴器から発せられた電波。それが脳細胞、脳神経に障害をもたらしたのですね。スイッチひとつで電波に寄る加熱。電子レンジと同じ構造です」
淡々と分析するアッシュをよそに、貫は感情薄く悶々と考えを巡らせている。彼の想いを止めることができなかった。もう少し寄り添っていれば、未来は変わったのだろうか。いや恐らくは、彼の行動を制限することはできない。アッシュを通して昇を見れば、双方はとても似通っていることが分かる。
少年たちは、悲しいくらいに自分の世界を生きている。他人に干渉されることもなく、ぱきっとした爽涼な世界を過ごしている。ただ一言、
「電子レンジ、怖っ」
そう言ってしまうしか、昇を救う方法を知らなかった。
母恋慕 編 終幕
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