エロス(情欲的な愛)

「母さん、愛してる」

「ヒッ! 昇!? あなた、どうして出て――!?」


 今夜は、月もない暗闇だった。昼間に警部補の相手をして相当疲れていたらしい。母は風呂にゆっくり浸かるため、遅くにお湯を張っていた。


 物置小屋に鍵は掛かっていなかったのか。急いで記憶を辿るが、それより先に昇が少しずつ迫ってきた。思考など纏まるはずがない。


「ちょっと! 近付かないで!」

「愛しているよ」


 肌に優しい衣服を脱ぎ落して、綾はすでに裸体である。近くにあった上質なバスタオルを引っ手繰って、例え家族でも見られたくない部分を辛うじて隠す。愛を語る息子の言葉に、身体がさらに冷えていくのを感じた。


 ついこの間まで小さな男の子だと思っていたのに。いま目の前に立ちはだかる男は、自分の産んだ息子に思えなかった。


「ま、待ちなさい! 何もいまじゃなくてもいいじゃない!? お風呂? タイミングが一緒になっちゃったなら先を譲ってあげるし、話なら後で聞いてあげるから!」


 とにかくこの場を切り抜ける解決策だけでも考えなければ。暗い瞳の奥では何を考えているのか分からない。これだから話の通じない相手は嫌なのだ。妹に手を出すよりかははるかにマシだけれど、それでもこの状況は最悪である。できるだけ平静を装って、相手の興味を失くすのが先決だ。


「とりあえずお母さん、服を着てもいいかしら? そうそう、お昼に出したお菓子ね、まだ余っているのよ。食べる?」


 きっとお腹でも空いたのだろう。昇の会話は常に支離滅裂だ。空腹の表現を使えなくて、違う言葉に走ったのだと思うことにした。愛、と述べたのも、おそらく茶菓子を貰えなくて悲しかったからなのだと。


「いいよ、どっちでも。僕の頭はいくつも道筋が走っているから、たまにどれが正解なのか分からないときがある」


 しかし返ってきたのは、さらに綾の思考を上回るものだった。困惑する母をよそに、昇はより多くの可能性を導いている。


 ――やっと分かった。


 自分が自分で理解できたのだ。思考回路は電子回路ほど目に見えて明確ではない。それがとても悔しくて、パソコンの基盤を覗く度に羨ましがっていた。いつか己の脳にチップやメモリを埋め込めば、この滞りも解除されるだろうかと思うようになっていた。有意義な事柄と無駄骨の境目を知りたい。どれを選ぶべきかの判別が、顕わになってくれるのだろうか。


 昇は決して愚かではない。人より脳の神経が複雑で、様々な事情が並行的に走っているのみ。それが結果的に的確な判断を鈍らせるだけで、彼は世界中の誰よりも、世界のことを考えている。


 例えば入り組んだ道のように、どこへ進めばいいのか分からなくなるだけ。どの道を辿るのが正解なのか不正解なのか。過程とゴールが数多現れて、最初の一歩を踏み出せなくなる。


 いざ勇気をもって踏み出しても、間違っていることがほとんどだ。特に生物には個別の正解と道筋があって、見極めるのが非常に難しい。ある人にとっては正解でも、さる人にとっては不正解ということが多かった。


 全く愚鈍ではない。選択肢が合っていれば、正鵠を射ることだってできるほど本来は頭が切れる少年だ。


「昇、いいから部屋に戻ってなさい! 変なこと外で言ったら、もう本当に縁を切るからね!?」

「変、か」


 母はどこかで培った主観を押し付ける。彼女は普通に生きてきた、と思い込んでいるのだ。普通とはいったい何であるか、果たして綾自身は理解しているだろうか。その研究結果が喉から手が出るほど欲しい学者もいるというのに。変と罵った行動は、誰かにとっての肯定で――いいや、気を抜けばすぐ話が逸れそうになる。


「もう、お母さんの邪魔ばっかりしないでよ!!」


 自分の望んだ結果なのに、そのすべてを息子のせいにしたいと見える。産んだ子が人間だと思いたくない。心無きモンスターを産み落としてしまった、しかしそれは不可抗力だったと。そう、思いたいのだ。出来ない子だからと母は精一杯昇の手を取って導いたのに、これでは手痛い仕打ちである。


 だがそれが示す先を、愛だと昇は取り誤ってしまった。逐一自分の言葉を聞かれて、自分の行動を見られて、母の思い通りに動かされる。いつしかそれは己を縛るルーティンと化し、どこかが乱れていると感じれば無性に腹が立つようになった。脳の奥から指先まで支配されれば、とても心地良くて楽なのだ。底に眠る自らの思考回路さえ見付けなければ、愛でられていて幸せだった。


「母さん、僕はずっと、愛していたんだ」


 ヘッドフォンがなくても母の声が聴ける。待ち焦がれた母との会話。うたとの愚痴り合いも継父との営みも、余すところなく拾っていた電波。愛する声が聞こえてくるだけで、昇の脳は蕩けていくようだった。


 管理は行き届いている。至るところに仕掛けられた盗聴器はビリビリと耳鳴りを起こし、ワイヤーを張っているがごとく人々を絡めとっている。入浴のタイミングだって実は把握済みだった。これからは、自分の愛を証明する番だ。


「ね、気付いてた? 僕の愛」

「来ないでよ! お前なんか、産まれて来なきゃよかったのに!」

「……!」


 少年は唇を戦慄かせて息を呑む。しかしそれは絶望ではない。生死すらも蹂躙するつもりの言葉に酔いしれたのだ。愛する母から、最上級の恍惚を与えられる。


「ぞくぞくする。こんなに嬉しいのは、産まれて初めてだ!」


 傍から見れば狂気の沙汰。それに綾は後退りする。脱衣所では移動できる距離が限られているし、一刻も早く逃げ出したかった。後ろでは適温の湯が沸いているというのに、背中の悪寒が止まらない。


 いつしか大粒の雨が窓を叩く音が聞こえる。変わりやすい夏の天気にはありがちの、驟雨だった。


「な、にを、言っているの?」

「太陽が消える前に、導いてほしいことがあるんだ。母さんは、いまでも僕を愛している?」


 愛は支配すること。


 その擦り合わせを行わなければ、結果は明白だった。綾と昇の能力は、悲しいくらいにかけ離れている。理解しなくとも良い。だた、そこで愛と言う名の指示を出してさえくれればそれでよかったのに。


「愛してなんか、いないわ……っ!」


 残念ながらその答えは、母なる太陽による支配がもうすぐ終わることを示していた。母が、母でなくなってしまうことを悟った息子はもう、口惜しい結果を出すしかなくなっていた。


 愛を壊す者には、これから断罪を与えなければならない。ルーティンを破壊するならば、例え実母でも許さない。綾が作ったレールを彼女手ずから取り外しに来てしまった。手取り足取り、教えてくれなくなってしまった。


「…………そう」


 それには奇しくも絶望の顔を向けて、昇は宙を仰ぐ。力強い光を失った石ころには興味がない。そういえばいつから自分は、本物の太陽を見ていないのだろう。『昇』と名を貰ったその日から、己の太陽は母の綾だった。思えば初めから、天候などには興味はなかったのかもしれない。


 しかし今日は、どうしても天気に関係がある。今夜の雨は、音を邪魔するから。


「なら僕は帰るよ」

「え?」


 侘しい自室にヘッドフォンを取りに行く。息子を突き放したのは果たして良かったことか。希望を失ってふらふらと帰路に着く昇を見ると、綾は憐れむような気持ちになった。


 きっと心と身体が追い付いていないのだ。心は子どものままなのに、いつの間にか大人の男の図体になってしまった。しかし分かってほしい。子どもの面倒は、永遠には見られない。

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