ストルゲー(家族愛)
「お母さん、お話終わりました」
「あっ! 良かったです……!」
昇の部屋を出てリビングへと足を運ぶと、女性二人がソファに座ってお喋りをしていた。今度は心底安堵した表情で、綾は貫たちを迎える。手際良く盆を受け取り、同じ部屋にあるキッチンへと片付けていった。フルフラットというやつだ。
「ごめんなさいね、大したお構いもできなくて……」
「バカの相手は疲れたでしょ? 刑事さんも大変ですね」
分厚い参考書を読みながら、うたが話しかけてきた。中学生だというのに、貫がどれほど頭を捻っても解けない問題が並んでいる。日本語で書かれているのが辛うじて分かるだけで、それが何の意味を持つのか不明であった。
「古文……それも古文書付きですか。現文は少し齧りましたが、それはまだでしたね」
「アッシュって、本当に十六歳か……?」
記憶の容量が多すぎて、少年は年齢を疑われるほどだった。そもそもどこで勉強したのかと懐疑的な目で見ていたら、小声で教えてくれる。
「マドカの件で文章を紐解くために、タルバ警部に参考書を手配してもらいました」
それからというもの、参考書の存在を知り、貫にねだるようになったのはまた別の話である。
「そう、か」
痛い名前だ。貫と深い接点がある名を久々に聞いて、複雑な気分になる。アッシュとしては、救えなかった過去を抉ろうとしているわけではなく、ただ単に思い出を述べている感覚だ。顔色ひとつ変わっていない。
「良かったら教えてあげましょうか!? うた、古文は得意なんで!」
中学生らしく得意げに、自分より年長の相手に申し出る。世の中の理不尽さを知らず、すべて自分の思い通りになると確信している態度だ。
アッシュはそれなりに顔もいいし、異国の風も感じられる。それゆえ女人に気に入られる確率は貫よりも上だった。この場合もそうで、うたの瞳はきらきら輝いている。自分と異なる人種は羨望の対象となる。
「いえ、自分で勉強します。それよりいまは情報の時代ですよ。いつか社長になるつもりなら、社会を学ぶことをお勧めします」
「……は? 何それ? それってテストに出るの?」
唇を尖らせて少女は、頭の中で中学必須の教科を思い出す。授業にそのようなものはなかったし、受験にも必要ない項目だ。専攻するならまだしも、経営学に進むことを決められている彼女には、最も遠い存在であると認識した。
「テストに出ないなら、勉強しても意味ないじゃん! それに情報って、パソコンいじってるばっかで何もしないでしょ? バカと一緒にしないでよね? うたは頭いいんだよ!?」
「ちょっと、うたちゃん! 刑事さんに向かって失礼よ」
「ふん!」
洗い物をする間、娘と警部補たちが何やら話し込んでいるのを見守っていた綾だったが、声を荒げているのを聞いて優しく叱る。母の愛の叱咤が届いているにもかかわらず、うたは不満そうにぷい、とそっぽを向いた。
「すみません。偏差値のいい高校に上がれるように受験勉強をしているものですから、不要なお話は避けていただけると……」
「そうですか。勉学が大事なのですね」
「そうよ! ちょっと顔がいいからって、うたの相手ができると思ったら大間違いだからね!」
自分から誘っておいてこの仕打ちである。アッシュは特に気にするでもなく会話を続ける。母が戻ってきたので今度は昇の話だ。果たして貫のことは見えているのだろうか。
「ヒタクのことですが、アヤはどう考えますか?」
「長年見てきていますが、あの子の考えていることは、私には分かりかねます。刑事さんには面倒なことをお願いしてしまって……」
「いえいえ! ボクらがついてますから! でも、一番はお母さんが歩み寄ることが大切ですよ?」
本職の貫がやっと口を挟める場面がやってきたと思ったら、母の不安はますます募ってしまったようだ。こういうとき、明るい性格は火に油を注ぐ可能性もある。母特有の、子育ての重圧から解放されたく、綾は言い訳を探した。
「それは、もうずっとやってます! でも……」
「バカは治らないよ。話すだけムダじゃない? さっさと警察に連れてってほしいんだけど!」
キッ、と次は貫が睨まれる番で、こちらに対しては心を許していないのが丸分かりである。警察は無能だと罵られることにも慣れているし、彼女が何を考えているのかはだいたい分かった。疎ましい兄を、何かにつけて逮捕してほしいのだろう。
「あー、まあそれは……まずは経過観察ということで」
苦笑しながら貫は、うたを宥めてみる。あまり詳しいことを話しても民間人はまともに取り合ってくれないことがあるから、難しい内容はあえて話さない。何より
「それとお兄さんのこと、あんまりバカバカ言わないほうが……」
「話通じないんですよ? 頭おかしいでしょ!? あと、バカは兄じゃないです。お父さん違いますから」
「え、あれ? そうなの?」
つい疑問を口にしてしまったので、誰かが答えなければいけない雰囲気を無意識に作ってしまった。しんとなった室内を、目線だけで貫が見渡す。ややあって気まずそうに母の綾が導いてくれた。
「昇は、元夫の子です。借金を作って失踪しまして……。嶋グループの工場で働いているときにいまの主人に出会い、うたちゃんが産まれました」
好いた女が借金まみれのこぶつきだろうが、召し上げてくれる奇特な男はいる。見た目や器量も悪くなさそうだし、社長の嫁として条件が合ったのだ。
「そうですか、それであのマリアージュ」
ぼそりと呟いたのはアッシュであった。いまの話で合点が行ったのか、謎は解けたと言わんばかりに円い目を眠たげに伏せる。
不思議なセリフを聞き取って、綾は怪訝な表情をした。
「いえ、悪くはなかったです。長居してしまったみたいですから、そろそろ帰りましょう」
決して美味とは伝えない少年は爽やかな嫌味を吐いて、この場を後にする。嶋家の不要な過去を詮索してしまった貫を連れ出して、手っ取り早く空気を換えるべきだった。
「それでは、また」
綾とうたしか聞き取れなかった言葉だが、その目線の先は階段下の個室へと向けられている。その意志は届いている、とアッシュは確信していた。ネズミも虫もない清潔な住処で湧くのは、捻じ曲がった純粋だけである。
すべてに過剰に反応し、それでいて無関心。彼の意思など誰も汲み取れるはずもなく、ただ独居房の中で沈黙を守っている。親が過干渉すべきではなかったからこそ、昇の道は決まってしまった。そう触れ合うのが普通だと思ってしまった。監視するのが愛そのものだと、決定させたのだ。
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