アガペー(無償の愛)

 型は古いが機能的には問題はない。要はインターネットの海に潜ることができれば、どこへでも行けるのだ。それに隣に置いてある工具箱で、ある程度の改造はできた。


「電子機器は正確ですから。真実も嘘も、すべては数字で構成されています。こちらから手を加えれば、絶対的なことも捻じ曲げてしまえるところ、好きですよ」

「ぬー、それはあまり、いいことではないと思うんだが……」

「イズルはSNSで真実を語れますか? 個人情報は貴重なものです。インターネット社会では、無知を守る必要もありますからね」


 ふたりの聡明な少年の瞳に射竦められ、貫は言葉を失う。電子関係は専門外でさっぱり分かりはしない。文科系か理数系か訊かれれば、迷いなく体育会系と答える。事務スキルやプログラミングはあまり手を付けていなかった。ただ理科だけは、少し好きだ。


「無論、改ざんを積極的に勧めているわけではありませんが。ヒタクも、警察のファイヤーウォールを突破するのはよろしくはありませんよ」

「書き換えるまでの価値はないから許してください。でも、アッシュくんの情報は見つからなかったし、君には少し興味があります」

「……特に謎などありません。実はオレは警察の人間ではないんです。イズルは保護者で、以前心無い事件に巻き込まれ恐怖心を植え付けられました。救出してくれた彼の傍から離れられなくなったのです」


 表面をなぞっていけばハートフルな内容だが、実際はそこに本心がないことを貫は気付いている。苦虫を噛み潰したような、もしくは若干呆れたような表情を作って、保護者はそれでも何も窘めようとしなかった。


 問題はそこではないのだ。少し前の会話を思い出してみれば、どうやら昇は俗に言うハッキングを行ったらしい。それには気に留めず、アッシュは己の保身に走っていた。


「そう。事件内容も見れなくはないけど、まあいいや。そこまで追求するほどじゃないですよね?」

「旧型ではすぐオーバーヒートしてしまいますから、お気を付けて。それでもよろしければどうぞご自由にハッキングしてください」


 昇は好奇心を抑えつけて鎌を掛けた。どうせは暇潰しにしかするつもりはない。けれど、ここでアッシュが焦ったり戸惑ったりするようであれば、すぐにでもハッキングを開始しようと思っていた。人は、『するな』と言われればしたくなる生き物である。


 アッシュの受け答えは、ある程度予想はしていた。堂々と『してください』と言われてしまえば、やはり興味は失せる一方だった。


「んんん!? それは良くなくないんじゃない!?」


 焼き菓子を口に含みながら貫が食べこぼしを飛ばす。不穏な会話に、油断中だった男が噴き出したのだ。アッシュに厭うようにじっとり見つめられて、先程の発言の真意を自身で疑うことになった。そこまで平常心で相談できるような犯罪内容だっただろうか。


 いや、やはりハッキングはよろしくない。事件のことは検索すれば普通にネットにも出てくるが、それとてヒントがなければ――あったとしてもアッシュには辿り着かない。警察のデータベースの奥底にアクセスしない限りは、アッシュの名は見つからないはずだ。そうでなければ、自分がここまで苦労して生活はしていない。存在を半ば消された少年を扱うのにはそれなりの覚悟がいる。


 ぐるぐると頭を巡る心配に気を取られていると、少年が飛んだ細かいケーキ生地を細い指で摘まんで皿に戻していた。


「イズル、彼のルーティンを壊さないほうが身のためです。ゴミはできるだけ落とさず、汚した場合は綺麗にしてくださいね」

「えっ? あ、……うん、なんかごめん」


 悠長に茶菓子を頬張っていた罰なのか。自分の考えていたところとは別の、変な小さなことで怒られてしまった。こちとら立派に成人している男性だと言うのに、このような小言を並べられるとは。これではどちらが子どもか分からない。


「こちらとしても不潔な行動は避けていただけると。他人に干渉されると、どうしてか苛立って自分でもどうすることもできなくなるときがありますから」

「おや、それはそれは、うちのイズルが失礼を。そろそろお暇しますが、また来ても差し支えないですか?」


 その質問には、答えるまで数秒の時間があった。目を伏せて憂いを感じさせ、右耳に宛てた音響を少し聴く。


「……僕は愛が欲しいだけなんです。母が許すなら、それでもいいですよ」

「分かりました、確認してみます。アヤが変われば、ルーティンは破壊されそうですか?」

「っ!」


 どこに反応したのか定かではないが、アッシュの言葉を聞いて昇が零れんばかりに目を見開いた。対人でのコミュニケーションを多くしていないので、うまく感情を取り繕えない。むき出しの敵意には絶望と怒りを孕む。


「やはり……。イズル、頂き終わったなら退出しましょう」

「ふご!? んっ……!」


 嚥下する音が聞こえるほど豪快に押し込んで、貫は食器盆を持ち上げる。文句を言う暇もなくアッシュはそそくさと扉へと向かっていた。会釈をし最後に、


「急いじゃってごめんね! また来るよ!」


 と、貫は言ってのける。何も考えていないのか、それとも青少年を更生させたい正義感からか、昇やその家族の意見はお構いなしだ。怒りで我を忘れそうになった昇は、その大人の言葉がとても意外で、聞いていたはずなのに理解することができなかった。成年者は場を察する能力が備わっているものだと思っていたのだ。


 ――先程の態度を見ていないのか。


 勘が鈍そうな男だし、うまく表現できない昇の煮え滾る感情には気付いていないのだ。色黒の少年のほうは鋭く、小さいながらも確実に急所を狙える冷たい刃物のようだった。


 そのどちらかに自分はなるのだろうか。思考の糸は複数伸びて絡み合って、何をするにも指が止まる。母親の言うことなら考えすぎずに受け入れられることができるのに。


 アッシュは母を『アヤ』と言い放った。己ですら言ったことはないのに。もちろん数多ある選択肢としては持ち合わせている。『私がお母さんよ』と彼女が言うから、その日から綾は母になったのだ。だから昇は、綾を綾とは呼べない。許されるときが来るなら、綾に従って変化を望む。


「けれど僕は……」


 愛が欲しい。それだけは、残念ながらいつまでも変わらない欲望。嵐のような二人が去ってから、昇はぽつりと呟いた。

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