素敵なお姫様からいただきました
だが数日後、仕事の効率が悪くなり上司から残業を言い渡されることになった。今日も今日とて夜叉と同伴をお願いしているので最低でも一時間程度で終わらせなければならない。散々予定があると抗議したのだが、上司は取り合ってくれなかった。彼が悲しんでいないか心配で心配で堪らなかった。
「夏目さん、大丈夫?」
「……白井か」
終業後、見兼ねたのか同僚が声を掛けてきた。
うざったい女、白井 芽衣。デスクも近く最近はちらちらとこちらを眺めるものだから、少ししたら席を変えてもらうつもりだった。それが何の用か、自分に話しかけてくるではないか。きっと案ずるのは口だけ。その後はすぐに帰るだろう。
「大丈夫よ」
それだけ言えば彼女は満足して帰路に着くはずだ。心から心配してくれる人はひとり――夜叉だけでいい。残業をするのはすこぶる嫌だったが、よりによって彼女を頼るのは心底嫌だった。
「ホントに? でも夏目さん、体調悪そうよ? それに今日は用事あるって……」
余計に確信を突いてくるので、アナは苛々して嫌味を言うことにした。そう突き放してしまえば相手は嫌悪感を示して去っていくと考えたのだ。
「じゃあ白井は予定ないの? 寂しいアンタが代わりにやってくれるわけ? 残業」
「え、と……」
やはりそうだ。誰だって自分に被害が行くのは避けたい事態だろう。されど彼女の口から飛び出したのは意外な言葉だった。
「うん、いいよ。予定ないのは、そうだし。でも一緒にやればもっと早く終わるんじゃない? もちろん、時間になったら先に帰っていいから」
「……は?」
そうして、地獄の時間が始まった。何をすればいいのか理解が追い付かない。管理された数字を見るだけで頭が割れそうだった。
それでも芽衣は思ったよりてきぱきと仕事に取組み、計画していたより早くに課題を終えることができた。ゆるふわガーリーで男を垂らし込んでいると思っていた――事実、いまもそう思っている――が、予想外の特技だった。
「終わった、終わった! さ、帰ろう?」
実際のところ大半を終わらせたのは彼女だ。栄養が少なくて思考停止していたアナは、そのことに気付いていなかった。何か、えこひいきの裏技を使ったに違いないと踏んで探りを入れようとしたのだが、そうこうしている内に芽衣に連れ出されて会社を出る。
――まあ、いい。
夜叉との約束の時間には何とか間に合うし、急いで化粧を直して待ち合わせ場所へ急ごうとしたそのときだった。
「アナ!? 良かったー! 待ち合わせ場所に来てもいなかったからさ! 来ちゃった!」
「や、夜叉!? ご、ごめん、仕事が立て込んじゃって……」
目当ての人物を見つけた男は、夜景に照らされ笑顔の花が咲く。一方職場に来られたアナは、狼狽えるばかりで何気ない真実を口にしてしまった。夜叉と会うときは必ず三十分前には着いているように心掛けていたのだが、それが裏目に出たようだ。いつ行っても彼女が待っていてくれるはずだったのに、今回は見当たらないので以前聞いていた場所へ足を運んでみたのである。優しくも頼もしい彼は職場まで迎えに来てくれたらしい。
「彼氏さん? お待たせしちゃってすみません。夏目さん、デート楽しんでね」
「えっ!? か、かれ……」
後半、芽衣にそう耳打ちされれば、アナは耳まで真っ赤だ。いつかそうなりたいと思っていたが、彼女や世間の目からはすでにそう見えるのかもしれない。そうやって舞い上がっていると、客の異変に気付きやすい夜叉が地上に引っ張り降ろした。
「彼氏? 違うよ! 俺、そこのホストでナンバーワンやってる夜叉って言うの」
その真実だけが、アナの心にちくりと刺さる。いまはまだ、ホストと客の関係。しかしきっといつかは、店関係なく結ばれる日を夢見ている。
「良かったらお姉さんも来てくれる!?」
「え……?」
「えー、ホスト? う、うーん」
困ったように明るく笑う芽衣。戸惑ってすぐには抗議できず、困惑の声しか上げられなかった。やはりこいつはどこでも男の気を引きたがるのか。排除しなければ。
「待ってよ! 今日はあたしと同伴でしょ!?」
「でも大勢で行ったほうが楽しいじゃん? 俺を助けると思ってさ、姫!」
彼は可愛く、お願いのポーズを取る。おまけにアナが気に入っているウインク付きだ。
確かに新規の客が入れば夜叉の生活はもっと楽になる。ここまで親密な自分でもまだ客だと言ってのける人だ。ここでは外の目があるから自分に対してもそう言ってしまっただけ。他人にも同じように接するはずなので、その文言は強力な盾にもなると考えた。誰が来てもただの客。本当に言葉の真意を見抜けるのは、いつまで経っても己だけだ。
――ここで芽衣を紹介することは、こちらにしかできない。気持ちは絶対にあたしに向いている。
と、根拠のまだない自信をひけらかす。
「夏目さん、なんだか申し訳ないし、わたしはこれで――」
「分かった。夜叉のためだもの」いくら悪い虫が付いても追い払えるし追い払ってくれる。「白井……さん。一緒に行きましょうよ? さっき仕事を手伝ってくれたお礼もしたいし」
こうしてしばらくは、芽衣と一緒に行動するようになった。監視するためもある。ところが話してみると意外と馬が合い、それに夜叉のことについて語れる友ができたのが少し嬉しかった。もちろん本命は自分だと自負しているが、大金を貢ぐことは怠っていない。時計や指輪、ネックレスなどを贈れば、いつだって身に付けてくれる。
この貴金属を贈ってくれた人が俺の彼女なんだぞ。と、ひけらかしてくれているのだ。
「あれ? あたしがあげた、指輪は……?」
しかし今日は、つい先日プレゼントした指輪をつけていなかった。雨に濡れて光るのは、他の女と同じもの。血に浸っているが間違いなく、ペアリング――それも結婚指輪に使われるような上等なものだった。
部外者がいろいろと叫んでいるようだが、アナの耳には何も入ってこない。ホストクラブで使われている音楽だけが、いつまでも脳にこびりついている。
「悲しい、悲しい。あなたも、同じ気持ちよね?」
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