財布の中身もいい波乗ってんね

「ねえねえ、ちゃんと食べてる? 最近やつれたように見えるんだけど……」


 頭の中で騒音が響く。昼休みに職場の机で突っ伏していたところ、同僚のひとりが声を掛けてきた。心配から来るものだろう。が、正直アナには邪魔な音にしか感じられなかった。聞く音楽は、あの夜のビート音だけで充分である。


 しようがなく身体を起こして、覗き込んでくるキャラメルマキア―ト色の髪を持つ女を軽く睨みつけた。


「食べてるわ。今夜は焼肉なの。心配しないで」

「楽しみなのは分かるけど、少しくらいお昼も食べないと倒れちゃうよ?」

「余計なお世話よ、白井」


 それが彼女、白井 芽衣を認識した初めての出来事だったかもしれない。自分のネオソバージュとは違う、相手の綺麗な巻き髪に視線を這わせて顔を見上げると、潤んだ大きな瞳でこちらを凝視していた。残念ながらそのスキルは女の自分には効力がない。


「アンタは男に媚びるしか能がないんだから、放っといてくれる?」

「ふぇ!? そ、そんなあ……」


 そういうところが嫌いなのだ。可愛さが気持ち悪いというか、あざといというか。歳は近いが趣味が合いそうにもない。アラサーにもなってそのような驚き方をする女は見たくなかった。アナは再び眼を閉じ、休み時間が終わるまで眠ることにする。最近は毎日ホストクラブに顔を覗かせに行っているので眠くてしようがない。このまま眠っていればいつの間にか夜になっていないか、真夜中の時間だけが存在すればいいのに、と切に願う。


 ただし昼がなければ、愛しの彼と夜に会うための先立つものも得られなくなってしまう。いまだって、今日働いた給料分の時間は買えるはずだ。


「――ナ? アナ? どうしたの?」

「……えっ? あ、ごめん、夜叉」


 肉の焼ける匂いが鼻孔を突く。仕事帰り、アナは夜叉を同伴に誘っていた。もちろん食費はこちら持ちだが、美味しそうに食べる彼を見つめることができるなら惜しくはなかった。それをすっぽかしてまでぼうっとしてしまうとは、彼女失格である。


「仕事で嫌なことがあって……」

「え、そうなの!? 大変だね……。あ! アナもたくさん食べなよ!?」

「う、うん、ありがとう」


 だがそれはできない。食べたら食べた分だけ料金は発生する。食べ放題なんて低俗な店に、夜叉は似合わないのだ。入店したときには初めて来たと喜んでくれたけれども、それはそれで腹が立つ。彼の魅力が分からない下品な客から、どうせロクな店を紹介されていないのだと考えたからだ。


「でも、今日はお昼食べ過ぎちゃったから――」

「また? ダイエットもいいけど、俺との時間も楽しんでよね、お姫様?」

「あ……っ」


 その顔は、アナの心臓をきゅっと締め上げた。次いで、早鐘と赤面を産む。初めて会ったときと同じ、ウインクを投げてくれたのだ。これさえあれば少し食事を摂らなくても生きていける。愛は無限大だから。


「んー、もうちょっと頼んでも大丈夫?」


 さらに反則的な上目遣いは、アナの財布のひもを緩くさせる必殺技である。ホストも大変なのだろう。ナンバーワンでも稼いでいるのはごく一部だと良く聞くし、夜に働くのも楽ではないはずだ。日中のデートなど夢のまた夢。しかし、こうして夕方から一緒に過ごせるのは至福であった。


「いいよ、いいよ! じゃんじゃん頼んでね!」

「ありがとう、アナ! さすがは、俺の好みのお姉さんだ!」


 こうしてお金と引き換えに今日を幸せに過ごしていく。明日はどこへ行こうか。とびっきり美味しいお店を予約しなければ。夜叉に喜んでもらうために。


「うー、食べ過ぎたー! お腹重い!」

「大丈夫、夜叉?」

「平気、平気! さ、お店行こうか? ここからは俺がエスコートするからね?」


 腹を抱えてよたよた歩く彼の背中を、優しく擦ってあげる。それでも店が近くに見えるとしゃきっと背筋を伸ばしアナの手を取ってくれた。


 ホストクラブ『命の水』は、仕事に追われる日々の憩いの場となっていく。そうなると多忙な時期も苦ではない。稼いだ分を注ぎ込めば彼との逢瀬の時間が増えるので、損はなかった。

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