六月(ウルル)
これから始まるシャンパンコール!
愛している、愛している。
深く深く、ただひたすらに、あなたを誰よりも想っている。だからしょうがなかった。これでやっと悲しみから解放される。良かった、良かった。
あれはいつからの出来事だったのか。一ヶ月にも満たない目まぐるしい変化は、アナの時間感覚を狂わせた。
「あ、そうだ。あのときも雨が降っていたのよね」
梅雨間近で、しとしとと降る雨が鬱陶しかった。小さい折り畳み傘では足元まで隠れず、ヒールの中までぐずぐずに濡れている。都会では泥はねの心配はそこまでないものの、さすがにここまで酷いと悲しくなってきた。
毎日毎日仕事に明け暮れるだけのアナ。彼と出会った初めての日も疲れて帰るだけのはずだった。薄暗いからいつも通らないが今回ばかりは仕方ないと、近道をするため一本手前の辻に入らなければ、これからの運命はなかった。
緊張しながら暗がりを進んでいくと一カ所だけ希望の光が放たれていた。ささやかながら煌びやかなネオン。外からでも聞こえるビート音と大声。女の笑い声に混じって爽やかさを取り繕った青年たちのコールが漏れていた。
「ホストクラブ、か」
命の水。
と、書かれた看板が目に眩しい。大通りに店を構えることもなく、他の店と比べて荒んで古臭い。恐らく古参なのだろう。ひっそりと埋まった佇まいは良く言えば隠れ家的、悪く言えば湿っぽかった。
男性にあまりいい印象がないのでアナには入店しようとする感情もない。半地下の扉を眺めるだけで、足を速めて帰ろうとしていたそのときだ。
「ありあとっしたー! また来てね! ……あれ、お姉さん、初めて?」
チープなウインドチャイムを鳴らしてドアが開いたのだ。一時の夢を楽しんだであろう女性と、ホストの男が飛び出してくる。商売で培った、客を目敏く見付ける技量を惜しみなく発揮して、金髪のホストはアナに話しかけてくる。
胸元がざっくり開いた黒いシャツに、髪と同じ金のネックレス。両手には金銀の指輪を数個従えて、まさにこの場に相応しい、絵にかいたような男性だった。
「え、あ……。いえ、あたしは――」
「えー? いいじゃん、ちょっとだけ! ご新規さんお安くしとくからさ。これでも俺、この店ナンバーワンなんだぜ?」
軽くウインクを返す男の顔をはっきり見てしまった瞬間、彼女は心を奪われてしまった。声から感じていたよりも童顔で、ちらちらと八重歯が見え隠れしている。人懐っこい犬に似ている、が第一印象だった。
「さっきの女の子で一通り全員帰っちゃってさ。王子たち独り占めだぜ、お姫様」
彼の名は、
「殺人容疑の現行犯で逮捕する!」
たまたま近くで勤務していた貫が、現場に呼び出される形となった。現在、夜中の十一時四十六分。元々は別の事件の張り込みの補助をしていたのだが、悲鳴と出動命令を聞きつけて動ける人員として割かれたのだった。
手に血まみれの包丁を持った被疑者。その正面には、へたり込む男と女の影がある。ホストクラブ『命の水』前で起きた痛烈な殺人事件は、特に謎もなく解決した。雨がざあざあ降っているが、彼女の目からは確かに涙が零れている。自分のしたことを悔いているのか。しかしその瞳の輝きには反省の色が見られないでいた。
「芽衣、芽衣、ごめんね……」
同じく夜叉に熱を上げた親友の名を、上の空で呼んでやる。職場でできた唯一の友だった。仲良くなったのはいつからだったのか。それも今月に入ってからだったような気がしている。
「でもこれで、助かるわ」
自分がした親友への救済を、心から信じている。
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