‐理知に富んだ教育‐
気付けば車は書店に着いている。慣れたものだと呆れて、貫はクレジットカードを渡した。無駄遣いはしない。しかし大層な値段の本を、勉学のためと平然と買われそうになることは多々ある。
「いいか? 高いものは、できれば除外してもらってだな――」
「分かっていますよ」
理解はしているのに、本当に必要な場合は金額を度外視してしまう。ひとりで行かせるのは悩ましいが座席を立つのも億劫で、最近は待っていることに専念していた。だからこその言いつけである。
颯爽とカードを奪ってアッシュは何事もないかのように歩いていく。その姿は常連の上客が見せる余裕だった。向かう先が本屋であることを忘れそうになる。
「今回は、何の参考書かねー」
エンジンをふかしながら腕を頭の後ろに組む。
――今回は火が出ているから科学だろうか。それとも恋愛関係の本だったりして。
と、どうでもいい推測をしつつ空を見上げる。五月晴れの今日はそろそろ夕刻で、じんわり暑い昼間の気温をようやく落ち着かせようとしていた。
「そういや今日は、アッシュとそんなに喋ってないな」
捜査らしい捜査は行えたものの、櫻の口が良く回るので彼女中心に話題が動いている。別段、少年との話を楽しみにしているわけでもないのに、いざ口数が少なくなると寂しくなるものであった。
いやいや、警察としての成果は少ないながらもあったと思えるし、変に肩を落とすことではない。状況整理がまだ必要だが、ここまでの情報は評価できるものだろう。会話の有無で調子が狂うことなど、恐らくない。が、このタイミングで思考の共有をしておかねば、双方の思惑が足を引っ張る場合もある。そのことにアッシュはすぐに気付いて、こうして部外者抜きで会議する方針へと促したのであった。
「イズル、戻りました」
「ああ。……って、お前! 言った傍からバカでかい図鑑なんか買ってくるんじゃねーっ!!」
一体いくらしたのだろう。慌ててカードを奪い返すも、明細がそこに乗っていることはない。
「レシートは!? ってか、領収書は!?」
「ここに」
そちらも強引にひったくって、値段を確認する。アッシュが大事そうに抱える植物図鑑は、まさかの五桁だった。
「はああああ!? 一万!? 本に、一万円!?」
「図鑑にしては安いほうかと思いますが。これでも譲歩したのですよ?」
「誰が二人分の食費とか出してると思ってるんだよ!?」
キーキー叫ぶ貫を不思議そうに眺めて、少年は頭の中で道筋を立てる。日常生活の普通は彼には疎い。手続きの流れは承知しているけれど、実際どうしているのかは見たことがなかった。
「経費の件、もしかして拒否されました?」
「……確認中だってさ」
「そうですか。学校には通っていないので、学費の援助は受けられませんしね」
「分かってるなら俺の首を絞めるな!」
はて、いまのいままで教えてはくれなかったので、アッシュはどうにかなっているものだと思っていた。まだまだ理解力が足りない。もっと観察眼を養わなければと己に課題を上乗せしていくのだった。
「それは申し訳ありません」
「ぬ……う、分かれば、いいけど……」
その場しのぎの可能性を捨てきれないけれども、純粋に謝るアッシュには強気に出られない。警官の性、もしくは貫自身の性格なのか、非を認めている相手を責める気にはなれなかった。
「まあ、経費で早く落ちてくれれば、それが一番いいんだけどな。……っておい! 人の話はちゃんと聞いとけ!」
ふと己の思考に立ち戻った隙に助手席の相棒はこちらのことなど全くお構いなしで本の分厚い表紙を開いていた。
「あ、すみません。キスツスのページを確認していました」
「……え? もしかして、今回それだけのために買ったの?」
こくりと肯定を示せば、優しい保護者が頭を抱えてしまった。それきり落ち込んでしまったように見える。その様子にも関わらずアッシュはページを繰って、ただ確認したいことを見定めていた。
「キスツス・アルビドゥス。和名はゴジアオイ、ですね」
「……ゴジアオイ? それが何か関係あるのか?」
「ありますよ、残念ながら。急いで戻ったほうがいいかもしれません」
戻る、とは警視庁のことではない。フレア女子校だ。もう少しでどこかが結び付きそうだった。が、少年は置いてきた櫻の身に何かが迫っている雰囲気を醸し出しているので、貫は急いで車のアクセルを踏んだ。
悲しいかな、アッシュは確認事項が済んでしまえば表情の起伏もぺたりと治まってしまう。窓の外を仰いで、夏に向けて移ろいでいく風景を眺めていた。
「イズル、人体発火の事例は少ないですが、ないこともないです。とても気の長い作業になりますがね。そのすべては事故として処理されていますから、今回の件もそのように言い渡されるのに不信感はさほどありません」
「え、事例、あるの?」
多くのことに気を取られていると、変な箇所に反応してしまう。いま突っ込むべきはそこではないはずだった。しかし、すでに口に出してしまった事柄を引っ込ますことはできない。
「はい。昏睡状態にある被害者は、じわじわと燃えていくのです。皮膚を食い破れば脂肪が剝き出しますからね。ロウソク効果と呼ばれています」
蝋と言葉にすると、少年はあの地下を思い出す。暗く冷たい穴蔵で、命の火を掻き集めていた数ヶ月前の自分が、まさか発火事件に首を突っ込むなど露ほどにも思っていなかった。それともこうして決まっていたからこそ、あの場所で放火を試みたのだろうか。必要な場所に火種はなく、不必要な場所には過剰に存在する。
「は? どういうことだ? ホントにできることなのか?」
「実際に見たことはありませんが、理論上はそうなっていますね。人体で検証するわけにはいかないのでしょう」
「そりゃあ、……そうでしょう」
「試したかったのか、それとも何か理由があるのか。それは分かりかねますが、彼女にとってはそうする必要があったのだと思われます」
それきり、アッシュは再び図鑑に目線を落としてしまった。キスツスのページには目もくれず、次は違う植物の概要を読んでいる。これはあくまでも学びのために購入したものだ。本来の役目を果たすべきときが来たのだろう。アッシュの知識の澱に溜まるべくして、この本は存在する。
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