Separate the sheep from the goats

 男性ふたりからの応えはない。答えられない。時と場所と宗教が違えばあるいは、人とてただの肉になる。ただし現代社会では、法律と倫理と情報が食事の邪魔をする。


 産まれたときから善か、悪か。それとも人か、肉か。


 食むことはもちろん悪いことではない。いやもしやそれすらも、悪と感じるところもあるかもしれない。考えれば考えるほど貫は悶々とした表情になっていった。

 ヨウはもはや考えることをやめたのか、眼を据えて少年を睨んでいる。


「答えは出ませんね。しようのないことです。では、いま我々が下せることに戻りましょう。ヨウ、貴方の神観念について、オレの意見を述べます。贄は、さながら贈り物です。世界各地では神に対して様々な捧げ物を行ってきました。食物、調度品、建造物。そして人身。そのすべてには意味があります。貴方への贄には、何の意味がありますか?」


「意味、だと……? 意味ならある。僕の心も、身体も、満たしてくれる。そこには愛がある。僕のことを知らないヤツが、知った口を叩くな……!」

「なるほど、理由としてはまあまあと言ったところでしょう。神側の意見では、どれほどまで守られているか怪しいものですが。イズル」

「は、え?」


 アッシュが軽く手招きするものだから、貫は素直に従って顔同士を近付ける。招いたほうとは逆の手が、首の後ろに素早く回った。そのまま顔を掴まれ、ぐるりと180度捩じられる。


「ぐっ!?」


 対面するヨウに向けて喉を突き出す形となった。


「贄としての処理は数多あります。宗教柄、アステカ文明は供犠を多く行っておりました。心臓を抜いたり、頭を殴打したり。ただ、でしたら、喉を切るのが一番いいでしょうね」


 晒された首にアッシュの親指が通り過ぎ、若干ながら悪寒が走った。この状況では爪を当てられただけでもショック死しそうである。


「部屋の血痕はそのとき出来たのでしょうか? これは、屠殺とさつのやり方です。心臓がポンプの役割をし、首から無駄な血液が零れ落ちてくれる。肉を口にしたいがための、捌き方ですよ。それにオレは信仰心を微塵も感じません」


「何……だと……!?」


「それ以前に、自身で獲物を狩るのは獣畜のやることです。その行為は快楽や欲求と同じ。貴方に善や悪を説いても、馬の耳に念仏でしたね。失礼しました」


 ヨウは怒り心頭と言った具合で、何を叫ぼうか口を開閉しながら迷っているふうであった。浅はかな少年の戯言だ、気にしたほうが負け。そう心では分かっているが、脳の制限がそろそろ外れそうである。


 そもそも空腹で、聖なる食事を邪魔されて、己が価値観に口を出されて、苛立ちを収めるほうが難しい。

 なおもこの若造は小言を続けている。


「そういえば先程オレは『はっきり言っておく』と言いました。キリスト教では『アーメン』と発言します。エジプトの神話ではアメン神なるものもおりまして、少し語感が似ていますね。彼はしばしば羊の姿で現れるそうですが……残念ながら、貴方は……羊でも狼でもなく、山羊バフォメットなんじゃないですか?」


 バフォメット。悪魔の山羊だ。欲望の象徴であるそれは確かに、食人を行っている逸話もある。神だと思っていた自分を悪魔と罵られて、ついにヨウは居ても立っても居られなくなった。素早く立ち上がってアッシュに掴みかかろうとする。


「黙って聞いてりゃ、いい気になりやがって……! 僕を愚弄するな! この……ッ!!」

「げ」

「おっと、出番ですよ、イズル」


 腕を解かれて背中を強引に押される。激昂した犯罪者と肉弾戦を繰り広げるのはいつも貫の役目だ。無論警察学校を出ている訳だし、アッシュよりかは遥かに力量もある。けれど毎回毎回任されると骨が折れるのも確かだ。


「だああ!」

「がっ、はっ!」


 それでも犯人には容赦なく。何を隠し持っているか分からない以上、確実に捻じ伏せに行く。それが警察官たる信条であるから。


「見直しました、イズル」

「見直した、って……いままで見下してたのか?」


 呆れた風に、柔道技を掛けながら貫は嘯く。アッシュはまた想定していた答えを外して小首を傾げていた。貫と付き合うには、倫理だけでも足りないらしい。





「そういやお前は、どっちを信じるんだよ?」

「はい?」


 やがて車の中で、アッシュと貫は語る。ヨウを玄関先に連れ出すと、待ち構えていたように同僚が彼を取り押さえた。現場検証も兼ねてふたりは聴取を取られていたが、それも終わってやっと一息吐けるタイミングだった。


「性善説と性悪説、だよ」

「ああ」


 アッシュが口酸っぱく申していたので、ついに覚えてしまった。春の夜風の気温はさほど変わっていないはずなのに、今度は心地良く窓の隙間から漂っている。花が腐敗した匂いがこれほど快適だとは思っていなかった。

 今回の件も、いつかは腐敗して、消えてなくなってしまうのだろう。


「オレは、そうきっかり判断できるものではないと思っていますよ」

「は!? それ、ズルくね!?」


 人には散々、どちらを信じると訊いておきながら、自分ははっきり答えを持ち合わせていないなんて。どっちつかずの態度は時に大人を怒らせることを覚えておくといい。そう指摘しようとしたが、アッシュの口は止まらなかった。


「だってそうでしょう? それにイズルも言っていたではありませんか。善も悪も、主観によって決まる、と。確固たるものがあるのなら、すでに論破されていますよ。科学的に証明されていないからこそ、人は議論し続けるのです。ズルくはないですよ。どちらでもあり、どちらでもない。が、オレの答えです」


 逆に論破されてしまった気がする貫では、少年を諭すことはできなかった。苦し紛れに詭弁を漏らす。


「じ、じゃあ……科学的に証明されたら、その考えは間違ってるんじゃねーの!?」

「そうですね。証明されてしまえば、人はもうそれ以上考えることをしません。孟子と荀子は、いわば積年の話題を提供してくれたエンターテイナーと言えるでしょう」

「はい?」


 ――そんな話だったっけ。


 と、ふと思った疑問は、しかし腹の虫に掻き消される。気付けばもう夜の十一時。晩飯を食いそびれている。


「あー、もう止めだ! アッシュ、飯食いに行くぞ。今日は、……野菜にしよう」


 さすがにあの肉塊を間近にした後では、動物性のたんぱく質を摂ろうという気にはなれなかった。


「助かります」


 それだけ告げて、アッシュはシートベルトを締める。動作と相棒家業が板に付いてきたのを見て、貫は鼻を鳴らして車を走らせた。



     し食人 編     終幕

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