春宵一刻価千金
「今日が暖かくて良かったです」
気色の悪い生温い風が、ふたりの頬を撫でていく。桜の花びらはすでに散り終わり、ピンクの絨毯は人や車に踏み潰されていた。悲しいかな、花の旬が過ぎれば誰も見向きはしない。事件や事故も同じ。世間やニュースで取り上げることがなくなれば、それは冷たく、地面に落ちて雑踏の中忘れられていく。
「どういう、意味でしょう?」
目の前の一般人は、引き攣った笑顔を貼りつけながら、玄関先で対応する。焦っているのか額にうっすら脂汗をかいていた。失踪事件があってから三日、男はやけに浮ついているように見えた。先日は一瞬たりとも見せなかった微笑みに違和感を覚える。
あの落ち込みようでは、いまだに塞ぎ込んでいるのではと思っていた。貫の感覚では、とても笑えるまでに回復できる時間じゃない。まるでこの前は演技だったと言わんばかりだ。
そのような男の前で、貫はひとつ唾を飲み下すと事実を口にする。
「山中 ヨウさん、以前にも似たような事件が、起こっていますね?」
「え……っ、それは……!?」ヨウは咄嗟に叫びそうになった声を押し殺す。「そう、です……けど……あの」
何か言いたげで、かつ何も話したくない雰囲気だったので貫は続けて質問した。
「同じく失踪事件で、元奥様と娘さんが、でしたよね?」
失踪は七年前。ちょうど貫がアッシュと同い年だった頃だ。心の傷も癒えたのか、心機一転なのか、家族が消失してから約三年経ったときヨウは、裁判で手続きを取り離婚を申し立てた。それにおかしなところはない。国で認められている正式なやり取りだ。
不思議なのはなぜ同じことが二度起こっているのか、ということ。
ヨウは誰かに恨みを買われているのか。いいや、こう言っては何だが、だとしたらもっと効果的なやり方がある。わざわざ妻を娶って子どもを宿して、そこまで待っている義理は他人にはないのだ。直接本人を狙えばいいだけの話なのだから。
「でもそれは」
やましいことがなければ首を縦に振りさえすればいい。けれど男やもめは肯定も否定もせずに言い訳を始めた。それで二人は、悟ってしまったのだ。
「変なことはない、って……当時の刑事さんが――」
「それについて詳しく話したいのですが、ずっと立たせているつもりでしょうか?」
「えっ……?」
言い淀みながら己の無実を宣言するヨウに切り出したのは、いつだって無遠慮な人物だ。以前は快く部屋に招き入れたのに、今回は明らかに目が泳いでいる。夕食の時間ではあるだろう。が、誰かを入れられない理由としては薄い。
何かが家の中にあるのは違いなかった。見られてはいけない、何かが。
「失礼します、山中さん」
「え、えっ、待っ……! 待ってくださいよ!?」
――ここは自分もとことん無礼者になってやろう。
と、貫は心臓に毛を生やして乗り込んでいく。脱ぎ散らかした靴は、アッシュが丁寧に揃えてくれていた。変なところで几帳面である。
リビングに近付くと、どこそこの家庭よろしく香ばしい匂いが漂ってきた。紛れもなく夕食の時間である。羊の風貌には似つかわしくない、肉料理がずらりと並んでいた。腹は減っているけれど、全くもって食欲が沸かない。その物の正体を、本能で感じているからなのだろうか。
「見事なヒト料理ですね」
「っ!!」
貫の肩越しからひょっこり顔を出したアッシュが平然とそう告げる。
そうだ。これは、元は人間の体だった。
「これほど美しかったなら、オレも食えたかもしれませんね。禁じられていますが」
どこをどう禁じられているのかは明確には言わなかったけれども、毒があるとか棘があるとかで元来食うのに適していない生物ではない。逆に言えば、人はか弱い生き物だ。捕食される可能性が低いからこそ生き長らえているが、猛獣の園に解き放たれればたちまち骨になる。
だから食しても人体的には問題はないと言えるだろう。人間が長い間築き上げてきた、倫理の壁を乗り越えることができるなら。
「こうして前妻も食すに至ったのですね?」
いつの間にかアッシュは保護者の横をするりと抜けて、食卓の皿の傍にあったナイフを持っている。丁寧に、あたかも慣れているような手つきで、どこぞの部分の肉片を切り裂いていった。中まで良く火が通っており、本当に、何も知らされていなければ食べてしまいそうだった。
しばらくして現場を荒らされていることに気付いた貫が、少年を制止にかかる。
「あっ、こら! 変なことはするもんじゃない!」
「失礼しました。つい興味本位で」
人の解剖を趣味にはしてほしくない。マッドサイエンティストならぬ、マッドドクター・アッシュの誕生を思い描いて、貫は頭を振った。
「寒い日が続きましたが、本日は少し暖かいです。事件から三日前後、早くしないと肉の鮮度が落ちてしまいますからね」
片方は子どもとはいえ、人ふたりをどこかに仕舞うのは至難の業だろう。冷蔵庫を見ても一般的な核家庭にありがちな大きさ。仕舞い込むには無理がある。例え冬でも食材はすぐ傷んでしまう。
死体を食べ物と認識するのには抵抗があった。けれど、少なくともこの家の主人にとっては食卓に並べるほどの価値がある。
「貴方は、性善説と性悪説、どちらを信じますか?」
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