善悪は水波の如し
「倫理……? そりゃテストに出るのか?」
「分かりません。でも、読みたいのです」
やがて戻ってきた少年が大事そうに抱えるのは、一冊の難しそうな本だ。横文字と、漢文で見るような誰かの名前が入り交じっている。
「タダじゃねーんだぞ? 難しいっつって諦めんなよ?」
「分かっています、イズル」
難なく日本語を使える異国人にとっては、もしかしたら軽いものなのかもしれない。元々エリートではない貫では基礎知識すら皆無だ。その内容は未知数だった。
こちらには無関係に等しい本を引っ提げたアッシュを乗せて、再び車は走り出す。それを合図に、助手席の人物はパラパラと悠長にページをめくり出した。その知識欲があれば学業に専念すればいいのに、と貫は常々思う。
――この隣の席をそこまで確保したいのだろうか。
と、呑気に適当なことを考えながら貫は時折アッシュを見遣った。ミラー越しに様子を窺っていたら薄い唇が不意に開かれる。
「イズルは、性善説と性悪説、どちらを信じますか?」
「は? どうした、急に?」
かつて偉人がこぞって説いた話題は、尽きることなく現代まで討論されている。人類にとってよほど的確な問題だったのだろう。証明できないことは、時に雄弁さを語る。あることないこと尾ヒレに付ければもう誰にも否定できなくなる。
一度はぐらかそうと試みたが、黙って続きを待っているようなので、足りない頭なりに答えてみることにした。
「……俺は、善人ばっかならいいと思ってる」
「しかし、悪人もいなければ仕事にはなりませんよ?」
「それも一理ある。が、警官の仕事はそれだけじゃないんだぜ?」
交通整理やパトロール。果てはご近所さんの話し相手までをこなす。いや、だがそれとて、背景を考えれば犯罪の危険が傍に潜んでいるからだ。警察が、社会と親密になることで、守られる平和もある。
「けど俺は、誰も非難しない世界で……いや、認められる世界で? 安全を確保する警察としての仕事は……適度に……ん? これじゃ怒られるか? いやいやだけど何もないに越したことは……じゃなくて」
車を転がしながらのためか論点が少しずつズレていく。黙って見守っているアッシュに耐え切れず、貫は頭を掻いて乱暴に結論を出した。
「あー! 止め止め! とにかく、あんまりプレッシャーかかる仕事は俺向きじゃないの! それこそ本当のエリートに――って、あれ? 何、話してたっけ?」
「人の役割の話ですよ」
「……そうだっけ?」
否定も肯定もせず、アッシュはただ静かに文字を読み耽っていた。見れば、先程話題になった性……何とかのページではなくなっている。人に意見を求めておいてガキはすぐこれだ。結局は自分のことしか考えていない。
貫は軽く長い溜息を吐いて、本庁への道のりを辿る。
監視カメラの解析が終わった。
との報告があり、さっそく会議が開かれた。これで手がかりが掴めるはずと意気揚々と参加した貫だったが、内容は、全くないに等しかった。
正確には『情報がない』ということが分かっただけだ。肩を落として、再び現場を浚う旅に出るか悩みながら一課の席に戻れば、アッシュがコーヒーを差し出してくれる。
「サンキュ。ちょっとは気を使えるようになったじゃねーの」
「あまりにもイズルが可哀想で。何も出なかったでしょう?」
「なっ……!? あ、いや、……俺の態度を見りゃ分かるってか?」
苦笑いで苦い汁に口を付ける。そこまで見て取れる落胆さ加減なのかと、少し自分を戒めようと思った。だがアッシュは軽く首を振る。
「いいえ、憶測通りでした」
「憶測……? 何も映ってないってこと、分かってたってのか?」
焦りから怒りを顕わにしている貫の目の前でただ一言、はいと返事をする。涼しい顔で謝ることもない少年には何を言っても無駄だ。続きは、彼自身がきちんと語ってくれるから。
「それでも確証はありませんでした。恐らくは出ない可能性が高いだろうと考えていたのみでしたが、こうなれば導かれる答えはひとつだけなのです。貫があまりにも熱心に、親身に接するものですから、あえて口は割りませんでしたが」
残念ながら、証拠もないがアリバイもない。やつれた男やもめの姿をふっと思い出して、落胆の色をさらに濃くした。大きな家の中で、あの可哀想な羊のような男。
「そう、か」
捜査は振出しに戻った。ゼロの状態で疑わしいのは、やはり彼しかいない。
「だが、証拠はどうする? このままでは逮捕状すら出せないし――」
「男やもめに蛆がわき、女やもめに花が咲く。本日の晩餐時にでも訪問しましょう。そろそろ食卓に上げなければ、鮮度が落ちてしまいますから」
ぶつぶつと独りで悩んでいた貫に、謎の言葉が振り下ろされる。アッシュはいつもそうだ。肝心なことは喋らない。それでも勘が良く、的確に獲物の行動の先を捉えている。一般人には意味が通らない言葉でも、貫にとっては信じるに足る解答だった。
「しょうがない。不躾でも、警察はそうやって生きてるもんな」
「それは善ですかね、悪ですかね」
「そういうのは自分で決めろ。この世には、どちらともつかない場合がある。主観によって変わるのさ。警察側から見れば善、民衆から見れば悪。だけど安心しな。全員が、お前は悪と決め付けても。少なくとも、俺はお前を見捨てない。……保護者だからな」
アッシュがどの道に進もうが、誰も否定はしない。困るのも助かるのも己自身のみ。ただし親は子のその先に、安寧を望む。
学び、語り、その経験の中で、自分の足で歩むべきなのだ。あまり友人が口を出すことではないだろう。
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