家族の団居(まどい)

 蚊の鳴くような声だが不思議とすんなりと、男は屋敷に招き入れてくれた。アッシュの外見に驚きもせずリビングへと通していく。玄関を過ぎればフローリングの廊下が長く伸びており、突き当りが目的地だった。途中、左右に二つずつ扉が付いている。推測するに寝室や子供部屋、それに風呂場とトイレだろうか。


 ドアは固く閉じているが、そのひとつひとつに目を配る。ここには引っ掻き回された形跡も血の跡もなく、何ら変哲のない普通の家だ。


「急いては事を仕損じますよ、イズル」

「っ!」

「きょろきょろと目線を遣ってはいけません。三流のやることです」

「……どーせ俺は三流刑事だよ」


 求めていた答えとは違った反応をしたので、アッシュは小首を傾げている。現場から情報を浚うのは下っ端の役目であるから彼がするべきことではない。それが命じられたことであっても、貫には堂々と闊歩してほしかったのだ。


 それを説いたはずなのに、どうしてか貫の機嫌を損なってしまった。唇を尖らせてそっぽを向いている。


 人の動向には未だ謎な部分がある。


「刑事さん、その……最初から、お話したほうがいいでしょうか?」

「えっ、あ、そう、ですね。お話はお伺いしていますが、改めて気付いたことが出てくるかもしれません。ボクが状況を確認していきますので、何か思い出したことがあれば迷わず仰ってくださいね」

「…………はい、分かりました」


 リビングのソファに腰掛けると、ヨウはさらに元気がなくなったように見えた。こちらに着席を促す言葉もない。


 応接間などない一般の家庭では、ここに通すのが筋だろう。が、ダイニングと一緒くたにされたリビングであり、テレビを見るためのソファ以外に食事を摂るためのテーブルと椅子が置かれている。家主が革張りのそれに座ったから恐らくそちらに座すべきだけれど、選択肢が増えると途端に不安になる。念のため、ちらと困ったようにダイニングチェアを一瞥したが、特に言及はなかった。


 この場所は普通、家族団らんで使われる。家庭の亀裂が垣間見えるリビングで、いつまでも他人である貫は居た堪れなくなった。


「えっと――」

「こちらに掛けさせていただいてもいいですか?」

「あ……どうぞ。すみません、気が利かない上に……何も、お構いできなくて」


 痺れを切らして訊こうとし、しかしアッシュに阻まれた。同じ内容の問いだったので咎めることなく話を続ける。


「とんでもないです! 一緒に奥様とお子さんを見つけましょう!」


 貫はヨウの手を取って、しっかと握る。氷のように冷たくて、ぎょっとするほどだった。旦那はここで待っている。愛する人を失って喪心する気持ちは、貫にはよく理解できた。考えが浅いので頻繁に失言をすることがあり、その度に誰かの心を傷つけていた過去を思い出す。その度に大切な人は去っていった。


 先刻だって本来は根拠のない励ましだ。いいや、これから裏付けていけば問題ない。いままでだって貫は、そうして事実にしてきた。


「イズル、迷惑ですよ。さて、本題へと入らせていただきます」


 感傷に浸る暇もなく、傍から見ても感動的な激励はアッシュに一刀両断される。ただ貫の手も冷たくなってきた頃だったので、これ幸いと掌を解いた。


 失踪届が出ているのは、山中 ヨウの妻、美恵ミエとその男児、夢生人ムウト。事件の前に変わったことはなかったという。夫はもちろん近所の人やママ友などに聞き込んでも、おかしな点はない。人当たりがよく誰とでも仲良くなれる性格で、変な噂すらも言っている人はいなかった。

 息子のほうも活発で親の言うことをよく聞き、問題のある子には見えなかった。


「誰かに恨まれていたりも、なかったんですね?」

「ええ、そのように、見えていましたけど……。いかんせん、仕事が忙しくて、家庭に構う時間はあまり割けなかったもので……。もしかして、そんな僕への当てつけなんじゃないでしょうか……?」

「気をしっかり持ってください! だとしたら、部屋が荒らされていたり、血痕があったことに説明がつきません。奥様とお子さんは、事件に巻き込まれた可能性が高いと踏んでいます」


 事件。


 状況に不可解な点はあるものの恐らくは物取りの犯行ではないか、と警察内部は思っている。防犯カメラを設置している近隣住民にお願いして情報提供を呼び掛けているところだ。怪しい人物がいれば直に見つかるだろう。


 それよりも、今回は現場での話をしよう。血痕は実にこのリビングの四方八方へと飛び散っていた。事件当夜ヨウは仕事を終え、二十二時半頃に帰宅している。システムエンジニアで帰りが遅いのは常だったので、当日も電気が消えていたのを不思議に思わなかった。すでに寝ているものだと気に留めなかったのだ。


 疲労から、先にシャワーを浴び、それから現場へと向かった。どうしてそこで真っ先にリビングに行かなかったのか、と酷く後悔している様子だった。タイミングがずれていればもしかしたら、との一縷の望みが、さらにヨウの悲しみを深くしている。


 しかしながら、部屋の配置的には違和感のない行動だ。貫とて、疲れていなくともその経路を取ることは充分にあり得るだろう。その場しのぎの鼓舞は逆効果だと感じて警察両名は、ただ黙って話を促すことしかできなかった。


「その……」

「あ、す、すみません……。えっと、それから……」


 リビングに入ると部屋の至るところから、むせ返る血の臭いが漂ってくる。異臭の原因が一瞬何か分からず、ヨウは堪らず電気を点けようとした。スイッチを触れば、ぬるりとした触感が掌中に伝わってくる。


「それで少し、腰を、抜かしてしまいまして……」


 電気を点けてその惨状を目の当たりにしてしまえば、しばらくその場から動けなかったと話す。

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