四月(ドゥムズ)
屠所の羊
その日は、春にしては寒かった。桜が舞う警視庁の入口で、アッシュは車を待つ。相変わらず皺のないワイシャツにスラックスで、出で立ちだけは立派な刑事職員だった。
「待たせたな、乗れよ」
「いいえ、イズル。いつもすみません」
褐色の異国の少年は、ついに慎みを見せてくれるようになった。当たり前だ、もう四月になる。彼と知り合って約四ヶ月。短期間で、濃密な時間を過ごした気がしていた。しかし相変わらず表情は乏しく、本心から
バタンと綺麗な所作で助手席のドアを閉め、慣れた手つきでシートベルトをする。勝手知ったる仲だ。先程会議中にもらった資料も、滞りなくアッシュの手に渡っている。通常なら部外者に機密を漏らすことは断じてない。警察内部も気付いているだろうにも関わらず、貫の行為を黙認する形を取っている。もとより腫物だから、上は何も言ってこない。
少年にとっては好都合、保護者にとっては後ろめたさを感じさせていた。
「また失踪事件ですか?」
「まあな。けど今回は、ちょいと――いやだいぶ、事件性があって。通報したのは被害者の夫、山中 ヨウさん。部屋は荒れているし、その……」
若干言いにくそうに口を噤んだ。いまでは車の運転中でも会話を楽しめる程度に技術も上がっている。おおよそ弾むような内容ではなかったが。
「おびただしい量の血液。これは気になりますね」
アッシュは手元の資料から拾い上げた情報を、別段気に病む素振りもなく口にする。顔色一つ変わることもない。その振る舞いは実際の年齢を忘れそうになるほどだ。冬に起こったあの出来事を経験しているから心が頑丈にできてしまったのかもしれない。
とはいえ、少年の言葉に嘘はない。失踪の他に現場には、壁のほとんどに飛び散った血痕が残っていたのだ。写真からでも、むせ返るような血の臭いがしてきそうだった。
「人がせっかく遠慮してやってるってのに……。ま、そういうことだ。だが、ご遺体すらも見つかってない。命からがら逃げているならいいんだけど」
「……」
驚いた。アッシュのことだから、残念ですがそれは望み薄だ、とでも言ってのけるかと思っていた。指を顎にやって、何か考え事をしている。
「どうした? お前らしくもない」
「らしい、とは曖昧な言葉ですね。男らしく、女らしく、とは現代ではハラスメントに当たるのですよ。イズルも気を付けないと」
「……あっそ、以後気を付けますよ」
もう慣れたこと。だが、いまは屁理屈に付き合っている場合ではない。
目的地に着いたのだ。住宅地のひとつに隠れるようにして、被害者宅は建っている。目立ちすぎることもなく、かと言って地味すぎることもなく、まるで木を隠すなら森の中を体現している佇まいだった。
「綺麗な家ですね」
「あぁ、そうだな。……っと、世間話しに寄ったわけじゃないぞ? アッシュ、お前は一般人に説明するのが面倒だからな。いつも通り研修ってことにしとけ」
「それなんですがね、イズル? そもそも警察に研修なんてものが――あっ!」
余計な詮索はしないのが大人の世界を渡り歩く常識だ。貫は意地悪く舌を出しながら、玄関のチャイムを押した。こうなってしまえば話を進めざるを得まい。ややあって、主人らしき人物の声が聞こえてくる。
『……はい』
インターホンを通しても分かる生気のなさ。事件があったのが二日前。それから現場検証やら事情聴取やらがあって、疲れているのだろう。葬式にも出せない分、心情が不安定な時期は長い。
「警視庁の、成神 貫と申します。事件のことで、もう少しお話をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
『…………はい』
長い沈黙だったが、どうにか応えてくれる。またしばらく時間が空いて、力なくドアが開いた。
――羊のようだ。
貫とアッシュは直感的にそう思う。ロクに食事も睡眠もままならないのか、顔面蒼白で、頬はこけ目は虚ろな外見。しかし彼らがそこに気を取られないくらい、男の第一印象は強烈だった。
目にかかるまでの癖毛で、もこっとした頭髪。ウールのセーターにニットパンツ。いくら今日が寒いとはいえ、春先にする恰好ではなかった。極度の寒がりなのか、それともこの状況で服装まで手が回らないのか。その理由はどちらとも取れるようで、それ以外の理由でも当てはまりそうであった。
「山中 ヨウさん、ですね?」
「……はい」
出会ってから、『はい』以外の言葉を聞いていない。喋る気力もないのだろう。背中は丸まって気落ちしているのが明白だった。
「え、と……お辛い、とは思いますが、事件の手がかりを、探りに――」
「ここでは何ですし、現場も拝見したく思います。上がらせていただいてもよろしいでしょうか?」
「こら、アッシュ……!」
たどたどしく思われたのか、見兼ねてアッシュが簡潔に目的を述べる。本職の貫が小声で咎めたが、ヨウから新しい言葉を引き出すことに成功したようだ。
「あ……はい、構いません」
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