盲亀の浮木、優曇華の花待ちたること久し

「そろそろ頃合いでしょうか」


 今日も今日とて貫とアッシュは車で控えている。数学の参考書はすでに五冊ほど読み終わって、後部座席に積まれていた。速読なのか読み飛ばしているのか定かではないが、本代もバカにならないのでどうにか身にだけはなってくれと願う。


「経費で落ちるかな……。あ、ごめん、何か言ったか?」


 持ち場に潜む前に適当に見つけた古本屋で領収書をもらったはいいものの、警察稼業に関わるものとは言いにくいため貫は頭を悩ませていた。警部補になっても思ったより薄給であり、さらには二人分の食費等も出していることから少しでも無駄な費用は浮かせるに越したことはない。


 そのような捕らぬ狸の皮算用を行っている脳内には、アッシュの唐突な言葉は響かなかった。


「そろそろ頃合いでしょうか、と」

「頃合い……? もう読み終えたのか? 次の本が欲しいって?」


 そろそろ車で背中と腰を痛めるのにも飽きてきたとはいえ、いま持ち場を離れるわけにもいかない。それにこの時間でやっている店などコンビニくらいなものだ。学びたい意欲はもちろん素晴らしい。が、いま許可を出すほど空気が読めなくはない。


 そう保護者は思い、あくびを噛み殺しながら粗略に応える。将来に対する心配をやめれば、やはり眠気が襲い来る。

 つくづく素直な身体である。


「いいえ、イズル。カジノ突入のことですよ。……ただ、警察として望む結果が出るのかは分かりかねますが」


 珍しく言い淀んで少年は、細い指を顎に遣る。普段、直立不動の彼が見せる少ない動きだ。


「おいおい……、そんな縁起でもないこと言うなよ。俺が……いや、同僚たちがせっかく真夜中まで頑張ってるってのに」

「その努力はおのが心で評価してやればいいでしょう。尽力したことは他人には理解されませんから」


 少しかたい表現を自分なりに嚙み砕いて貫は、しばらくして、


「…………ごもっとも」


 と、気落ちした。だが素早く、落ち込むことをやめて貫は返す。


「ま、それはそれでいいんだけどよ。望む結果じゃないってのは、どういう意味だ?」

「そのままの意味ですよ。樽場警部からの報告を受ける限り、このモチヅキという男、かなりのやり手でしょう」


 アッシュは手元の資料をペラペラとめくる。樽場の証言をもとに作られた書面だ。違法カジノを行っているという証拠は十二分にある。だが常連客が姿を消している証拠がない。


 結論を言えばカジノを目撃、体験した時点で逮捕のしようがある。熟練の警部としてはしかし、どうにも掴めない男の処遇を決めかねているふうであった。会議中、真剣な眼差しで潜入捜査を引き延ばすことを提案する樽場を思い出す。


 あの時それは、公務員としての仕事を真摯に、丁寧に、慎重に進めているのだと思っていた。


 するとまたアッシュは唐突に参考書を引っ張り出し、こちらのページもペラリとめくり始めた。


「バカラ、スロット、ルーレット。百、千、万あるうちの一を引くようなものですね。確率ははっきりとは決まりません。数字では結果が出ていますが、現実では実際にそうなるとも限らない」

「ん?」


 貫も遠い昔に習ったことがある、と思う。学生の勉強などもうほとんど覚えていない。役立つときもあるが、意味を成さないことのほうが多かった。ややあって少年は該当のページを引き当てる。


「確率……あー、当たったり外れたりって、それか?」

「はい。袋の中の玉を取り出す順番を、確率論で導き出すのです。けどオレは、最後まで引かれないものだってあると思っています」

「どういうことだよ?」

「いつだって人は、己の思うままに物事が進むと感じているのです。最後まで残っている玉は、いつか最初にも取り出せる。そう思い込んでいるだけ。袋や玉に細工がされていれば、必然的に最後まで残してしまうことだってあります」


「それは……」果たしてそれは、公平な確率と言えるだろうか。「反則じゃね?」


 数学は小細工なしに算出するものだ。そこに不正があればブーイングを食らってしまう。みな一生懸命にテスト勉強をしているのだから、答えが出ないと意味がない。

貫が呆れてアッシュを宥めると、少年はきょとんとした顔で保護者を見つめる。


「現実の世の中には狡猾な人もいるのですよ? 警察が人を疑わないでどうするんです?」

「ぐっ!?」


 若き討論者に正論を振りかざされて、ぐうの音が出そうになる。町の駐在さんポジションだったので、話の相手はご老人ばかりだった。ここまで穿って世間を見る人物とは関わる回数が少ない。


「お、俺は、疑うべきは罰せずと言うか……」

「しかし今回は、どうにも難しいものですね。イズルの言う通り、反則があるとも思えません」

「ん、んん?」


 けれど次は、手ずから意見を修正して、こちらに合わせてくる。初めに説いたのは卑怯極まりない内容だった。傍目から見ても分かりやすい詐欺である。疑えるところを虱潰しに叩いていけばいつかボロが出るだろう。


 本件のカジノ騒ぎだって、どこかでイカサマが行われているかもしれない。都合よく勝たせて都合よく負けさせる。作られた駆け引きは甘美であり毒だ。気付かぬうちに沼へとはまっていく。


 手腕を振るっているのが主催者なら最も質が悪いだろう。ペテン師は特に人心掌握が上手いのだ。団体の頂点に立つ者に与えられる特権であった。でなければ客足を掴み離さず、ここまで逃げ果せているはずがない。支持者は多ければ多いほうが、退路が楽になる。楽しさは悪意さえも超えて人を惑わすものだった。


「ってか、そんな話だったっけ?」


 貫の質問は華麗に無視して、最終的にアッシュが下したのは、違う答えだった。


「数学には、文章問題を解く国語力も必要なのですね」

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