車は三寸の轄を以て千里を駆く

「数学も面白いものですね」

「あ?」


 いつ呼び込みがあってもいいように、貫はカジノの近くに車を控えていた。夜の光は目立つためルームライトは点けられない。ふと時計に目を落とすと時刻は午前四時を回っていた。深夜と言える時間帯を過ぎたにも関わらず、アッシュの目はいつまでも冴え、読書に耽っている。


「別に勉強するのはいいけどよ……。目、悪くなるぞ?」


 ストックしていた缶コーヒーをすべて空にしてしまい、手持無沙汰になった貫が話しかける。次回はもっと多めに用意しておこうと心に決めるのだった。少し瞼が重くなってきたので、少年との会話を眠気覚ましに利用しようと試みる。


 ややあって、闇に溶けている浅黒い少年は唇を動かし応えてくれる。このまま動かず、本当に暗闇と同化してしまったらどうしようかと思った。彼の瞳だけが煌々と宙に浮いている。


「いいえ、イズル。暗闇で物を見たからといって、視力が悪くなるわけではありません。問題は物に目を近付けすぎることがいけないのです」

「は? はぁ……」


 アッシュの屁理屈には二ヶ月も一緒にいればすでに慣れっこで、貫には返す言葉もない。暗がりで物を見るには結局近付かないといけないのでは。との疑念は、どうしようもない真っ直ぐな正論で返される未来しか思い描けなかった。


 少年の理想はそこはかとなく高く、それでいて純潔だ。理論的には可能であることを言ってのけるくらいなら誰にだってできる。ただし実際にそうなるかは話が別だ。暗い場所で遠くから文字が読めるものか。平気で絵空事を描いている。


 これでは気晴らしに話していてもらちが明かない、と貫は話題を切り替えた。


「……そういえばもう三月だし、勉強したいならどこか学校でも――」

「どうしましょうね、それは。本は以前に、俺が買ってやる、と息巻いてくれましたし。勉学に関しては特に不自由はしていないのですが」

「うげ」


 それは先月、許可なく現場を荒らすアッシュをなだめるために、咄嗟に口から出た言葉だ。とっくに忘れていると思ったが、揚げ足を取られる形で現在に至っている。言葉の綾を知らないのか、それとも知った上で利用しているのかまでは探るつもりはないけれど、日本人にはない厚かましさがあった。とはいえ、ここで勉強の機会を取り上げてしまうほど、貫は鬼でもない。


「それに」まだ何かあるのか、アッシュはさらに言葉を続ける。「どうせオレは、飼い犬ですから」

「飼い犬、って……」犬を飼うのは無意識に警察だと断定した。「警察を悪く言うもんじゃないぞ? お巡りさんは怒るからな?」


 交番勤務の癖で自分のことを『お巡り』と呼んでしまう。もう警視庁勤務であるし巡査でもないから、その呼び名はすでに貫を表すものではない。だが、気にするでもなくアッシュは一蹴する。


「警察のことではありませんよ。オレは、イズルの犬でしょう?」


 ひねくれている。


 子どもの扱いには慣れていない。ましてやそれが色黒で、青い双眸を持った異国のそれとなればなおさらだ。いままで少年が置かれていた環境にも寄るのだろう。ベルの元で暮らした経験からか、従順な皮肉を吐き出している。あるいは自分は犬なのだと、愚直にそう信じている。


 ――もしくは。


 己の穿った偏見をへし折られたことに対して、負け惜しみの感情でそう見えているだけだろうか。やはり、どうにも上手く会話が続くとは思えなかった。


「滅多なこと言うんじゃない。俺は……お前のこと犬とは思ってないよ」


 若干噛み合っていない内容だったかもしれない。冷静に考えれば、貫に生活圏内を縛られて飼われている、との表現は間違っているとは言い難い。しかし犬ではない。ひとりの人間として、接しているつもりだった。それにアッシュは犬よりも幾らか有意義だ。


「そうですか。それならば安心できます」


 人が人として扱われなかった日常がふと頭に過ぎり、アッシュはそう宣言した。実のところ、本来の意味の安心を感じているのかまでは己でも分からない。しかし彼女と貫を比較してそう言うべきなのだと判断した。少なくともこの保護者にとって自分は意味のある存在なのだろう、と慎重に立ち位置を探っている。


「安心、ね。そう思ってくれるなら俺も助かるよ」


 貫も貫で、いま現在アッシュの言葉を踏み躙ることもない。彼にとっても、憔悴しきった心には救いの祝詞のりとだった。ベルに続きテルまでも、望むべき結果にはならなかった。他人を望む道に引き入れることなど完全にはできない。分かっていたはずなのにあの結末はどうにも残念でならなかった。


 貫は燻ぶった思いを断ち切るために缶コーヒーを啜り、空だったことを思い出した。夜は感覚を狂わす。楽観的に生きていければそれでいいと、面白おかしく社会に溶け込めればいいのだと。それが理想だったはずなのに。


 スチール缶の装飾の凹凸おうとつに指を這わせながら、青年は訊いた。


「なぁ、美しさって、何だ?」


 目先の美醜ではない、どこか心の底で感じるべき何か。この少年にはその趣意が分かっているのだろうか。事ある毎に美しくないと口にする少年は、その真意を本当に知っているのだろうか。

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