末筆ながら、ますますのご飛躍をお祈り申し上げます

 言葉の意味は教えなかった。だが、それが何を伝えたいのか理解したようだ。手を震わせながらテルは後退あとずさる。背後の壁にぶち当たれば、近くには窓の開閉スイッチ。本来ならばこの高さ、開けなどすればどうなるか分かったものではない。取り返し、の意味を改めて考えた。


 押すな。


 そう言っているのではないか。いや、彼はそれほどお人好しに見えない。ならば、やはり。


「やめ……! 押す、な!!」


 貫が声を上げる。和解ではない、異常な雰囲気を感じ取ったのだ。自殺との不穏なワードを聞き取ったからかもしれないし、短い間ながらアッシュと意思疎通ができてしまったからかもしれない。とにかく刑事としては、その状況は避けなければいけない。彼の行く末には、いつだって自分の立場が邪魔をする。


「どうしてだ……。どうして、私の考えていることが分かる!?」

「単純だから、ですかね。あなたは特別ではない。ただそこにいる、凡庸な人間です」

「ぐぅ……っ!」


 締め上げる奥歯の音が聞こえる。それも小刻みに。震えているのだ、意思とは裏腹に。産まれたての子鹿のように、生死に対して絶大な恐怖を感じている。どうせ自分も、この手で散らせた命と同じ。どう抗っても、強大な力には勝てない。


 気付けば、荒れ狂う突風に身を捩っていた。窓が開いている。馬鹿な、スイッチは指先にしかないはずだ。


「私が、押した、のか?」

「最高ですね。おめでとうございます」

「ヒュッ!? ……あ?」


 不釣り合いな賛辞にテルは息を呑む。空気を吸った拍子に肺が冷たくなった。それに心臓が驚いて身体がよろめいていく。


「どうぞ喜んでください。念願叶うのです。でないと美しくありませんよ」

「あ……、いや、いや……ははっ!」


 どうにもおかしくなって、年端もいかない少年の言うことを聞いてしまう。恐怖か歓喜かどうにも掴めない感情で、否定と愉悦を繰り返す。ばつの悪いときに笑ってごまかすのと同じだ。


 ちらと一縷の助けを求めて、潤んだ瞳で少年と青年を見返す。いつの間にやら貫の意識はだいぶ戻っており、左手にはアッシュを反対の手では机をがっしり掴んで力を入れていた。救助の意思がないと感じ取ったテルは、一気に無力になった。


 人は、こんなにも簡単に、生を諦めてしまう。


「テルさん!!」


 叫びは後押しにしかならなかった。びくりと肩を震わせて宙を見遣る。


 飛べる。非凡な自分に憧れて、空を切る。どこかで羽根が生えて、もしくは誰かが助けに来て。そういう未来もよぎったが、ひとつまたひとつと階下の窓ガラスを越えるたび希望は打ち砕かれていく。


 落としたワイングラスだけが、これから起こる惨劇を物語っていた。赤い液体は飛び散って、ガラスは四方へ転がって。ふと、落ちる己が映る窓が目に入る。まだ生きている、そして求めていたものが手に入る。


 死が早いかコレクションが早いか。考えるだけでワクワクした。ゾクゾクするほど楽しくて、自然と笑みが零れていく。すでに正常な判断はできていない。


「ははっ、やった!! ついにやっ――ごぱぁっ」




「死に、たいのか! アッシュ、この、バカ野郎!!」

「死にたいとは思っていませんでしたが、ここで潰えるならそれでもいいと思っていました」


 どうにかして少年を引っ張りながら、別室へと移動した。アッシュを組み敷きながら、貫は肩で息をする。先程までのやり取りが嘘かと思えるくらい、ここには風の衝撃も音も来ない。


「お前が死んだら、俺が困るんだよ……!」


 生きることに対しては驚くほどに執着がなさすぎる。


 監督不行き届き。そのレッテルを貼られる可能性もあった。そうなれば、幼い頃より憧れた警察官という職業ともおさらばしなければいけない。そこまで打算的でもないが、社会に出てから世間体というものにも否応なく接しなければいけない場合がある。


「そうですか。それは申し訳ないことをしました」


 されどアッシュは欲しい言葉をくれる。反省しているかどうかは、表情の薄い彼からは判断できない。世渡りが上手いのか、何も考えていないだけなのか、細い少年は嘘でも真実でも流暢に口にすることができた。それに居た堪れなくなるのは常に大人のほうで、純粋風の瞳を直視できずに視線を逸らす。


「……いや、こっちこそ、悪かった。助かった、ありがとな」

「とんでもないです。それなら良かった。外にパトカーを呼んであります。参りましょう、イズル」

「あ、あぁ……」


 ふたりは立ち上がり、ついと窓の外を見る。ここからでは、テルがどうなったのか視力で捉えられない。ただ赤いランプが点灯したパトカーが数台、何かを取り囲んでいるように見えた。


「残念です」


 そう口の中で呟いたはずだったが、貫には少し聞こえていたらしい。怪訝そうな顔でアッシュに目を遣る。


「何か、言ったか?」

「いいえ、なんでも」


 終わったことだ。未練など微塵もない。ただ残念なのは、自分の目で見られなかったことだけ。貴重な経験として刻むタイミングを逃してしまって、惜しいと思っただけだった。


「証拠は充分にあるが、被疑者死亡で書類送検だろうな。俺は……また始末書かな」


 やれやれと苦笑を漏らし、貫は下へと向かう。薬が切れてしまえば、何事もなかったかのように世界は動き出す。また明日に歩み続けるのみである。サイレンの音だって、ここに貫とアッシュがいたことでさえも、いつかは忘れ去られてしまう。


 膨大な情報量によって、残虐極まりない事件は姿を消していくのだ。




     世界の創始者 編     終幕

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