都内男女平穏誘拐事件
上司に呼ばれて若い刑事は立ち上がった。
勢い余って倒した椅子は、アッシュが恭しく起こしてくれる。孤児になる前の記憶はほぼないと言っていたが、もしかするとどこかの王族の出なのではないかと勘違いするほどだった。本来なれば身の回りの世話は使用人がやるものだが、その文化がないこの地ではうまく思考の結びつきができなかった。
「アッシュはここにいろ? 変なことするんじゃないぞ?」
「分かっています、イズル」
相変わらず何を言われても無表情で、取り乱す空気もない。貫にとっては警視庁に召し上げられてから初めての事件とのことで若干緊張があるというのに、少年はさも当然といったふうに何も変わらなかった。
アッシュにとっては微風が吹いただけなのだろう。それとも凶悪な事件の多さを知らないだけなのか。さすがはベルの元にいただけのことはある。彼はいまの貫より、死への接点が豊富だ。
無関心は、時に悲しく思える。世間を知らないからだ。身体だけが育ってしまった彼に対して哀れみを向ける。が、当の本人は気にすることもない。一瞬の心配をアッシュに投げて、しかし貫は会議室へと向かった。
都内男女平穏誘拐事件。
そう掲げられた表題――隠語で戒名と呼ぶ――を横に、刑事たちが事件の概要を説明されるために会議室へと飲み込まれていく。事の初めはいつからか定かではない。当初はただの行方不明だとして処理されていた。理由は、あまりにも現場が綺麗すぎるから。事件性が見つからないほど整えられた被害者の部屋。旅行に行くにもキャリーケースや衣類、生活用品に手を付けた様子がない。そこに初めから誰も存在していなかったかのようで、複数見せられた部屋の写真は総じてモデルルームかと見誤るくらいだった。
ちょっとそこまで、にしては長期間連絡が付かない。けれど強引に誘拐されるには荒らされた形跡がない。痺れを切らした親族や友人等々からついに被害届が出された。それが複数件に亘ってしまっては、警察も動かざるを得なくなった。
一通り情報共有を行えば、行儀よく座っていた輩たちは各々の持ち場へと急いでいく。貫も樽場から指示を仰いだ。殺人等の証拠もなく関係者からの証言もないので第一課としての仕事は薄い。それでも少しでも可能性があるのなら、と下っ端たちは軽い仕事を与えられた。
「新居の内見ですか?」
「違う違う。俺も、同じこと思ったけどよ」
手元の資料を覗き込まれ、アッシュから声がかかる。貫にはまず現場を改めて
「って、え!?」
「お待ちしておりました」
「なんでお前……アッシュ、降りろよ」
「でもイズルは保護者ですから。観察しないと、オレを」
観察、の意味が分かっているのかいないのか、その単語を最大限利用して厚かましく隣に居座っている。どうせ座ってくれるなら絶世の美女を望むところだ。が、恐らくアッシュがそこを退いても、がたいの良い男性と相席するに違いなかった。男が多い職場ゆえだ。
仕方なくシートベルトを締め、見せかけのバディとして出立する。
「でも、良く俺が車に来ると思ったな」
運転免許は問題なく取れている。それでも実践となれば話は別だ。タイヤが動いている間はほとんど喋れない。信号待ちのタイミングで気になっていたことを話す。
「人の流れを見れば何となく。新人は高確率で現場を浚う駒にされるかと思いました」
「そんな言葉、どこで覚えてくるんだよ……」
「シスターから国語ドリルを頂いていました。いまはラジオを聞いています」
「はぁ、そう。シスター……シスターね」
貫は、優しかった聖女の笑顔を想う。重ねて、火に炙られる魔女の姿を頭の端に顧みたとき、後ろからクラクションが鳴った。
「う、わぁ! 何だよ!?」
「青ですよ、イズル」
「あ、おぅ……」
同席者が指差す先には、青というより緑色に近い電飾がこれ見よがしに光っていた。生返事をして貫は再度車を走らせる。パトカーでないのが幸いだ。恥ずかしい思いはせずに済んだ。これでもし正体がバレていたら炎上ものである。
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