火水も厭わない

「通報をしたのは、そちらですか!?」

「え……? あ……? ああ、はい……!」


 いきなり消防士が飛び出して元気に喋りかけられたので、貫は戸惑う。いったいどうして自分がここに来たのか、あの一瞬で目的を見失っていた。緊急事態にもかかわらずどこか俯瞰で見ている自分がいる。現実のことなのに、これは幻想だと脳が勝手に判断をしたのだ。己に危害を加える世界を切り離す、一種の防衛機制である。


 突然現れた第三者の存在さえも、無意識になかったことにしていた。二次元のモブキャラが断りなく主人公に干渉してくるような嫌悪感さえ抱いていた。

 それが実際の人間だと改めて気付いたのは向こうがこちらの事情などお構いなしに早口でまくしたててきたからだ。否が応でも考えなくてはならなくなった。


「ご苦労様です! 途中別の場所で火災現場がありまして、到着が遅れました。申し訳ありません!」


 消防士の彼が敬礼をするものだから、ふにゃふにゃになりながらも釣られて右手を上げる。

 腕が動くとやっと頭が回り始める。自分が纏っていた環境から、世界だけを切り離すことに成功した。封印できるほど生易しい体験ではない。これからも脳裏の隅にこびりつくだろう。その最たる原因も思い出し、貫は憐れんだ表情を浮かべた。


 横を見ると、ベルがへたり込んでいる。絶望と焦りが見える顔色を窺って、どこにも逃げられないだろうと貫はやっと手を離した。ガクンと下がった腕には、手袋の上からでも指の跡がくっきり残っている。


「あの」その声掛けに、彼女はビクンと肩を震わせた。次いで顔を上げ、やっと貫と視線が交わる。「中にはまだ、本当に子どもたちがいるんですか?」


「あ――あ」


 震える唇からは吐息と母音しか聞こえなかったが、ベルは首を横に振ることはなかった。それを肯定と取って、今度は顔をしかめる。これでは弁明の余地がない。髪を振り乱し零れんばかりに目を瞠る彼女には、もう審美を感じられなかった。


 聖職者は、奴隷商であった。孤児院は売り飛ばす子どもを集めるためにあった。彼女の余罪はこれから明らかにされるだろう。この女は最後に、商人魂からではなく助かるために媚びを売った。ベルの立ち位置はその時点で変わったのだ。


 商品を捨てて己の美学に反すれば、ただの醜い悪人になるだけである。


 惹かれたと思ったのに。美しく思ったのに。どこから彼女は、道を逸れて行ってしまったのか。それも自らの意思で。軽い溜息を吐いて貫は決別を察する。


 人命が残っているのなら自分は救助に向かわなければいけない。警察の制服を着ているのだから、少なくともその役目は果たすべきだ。

 救急の誰かに監視してもらおうと思ったその時、弾かれるようにベルが駆ける。


「っ――待て!」


 逃げたのではない、籠ろうとしたのだ。自身の愛する職場で、なおも奴隷商としての人生を守るために。敬虔な彼女は、この城に身を潜めれば神の加護があるものだと信じている。灼熱のドアハンドルで掌に二度と消えぬ烙印を刻みながら、ベルは必死になって扉を閉めた。

 その反動でレンガが崩れたのか、戸板が軋んだ悲鳴が聞こえる。


「シスター」


 瓦解するものとは違う人の声。振り返ればひとりの商品がヴァージンロードの中央で起立している。


「あっ!? あ、あ……」

「驚嘆の声では、誰を呼んでいるのか分かりません。シスター」


 面倒くさがってaから始まる名前ばかりつけるのではなかった。それどころではない場合なのに不意に後悔に襲われる。思考を戻すべきだ。言葉を発さなければ、この状況が進むことはない。


「アッシュ……!? これは、どうして燃えて……?」


 少年は、燃え盛る館の中でも微動だにしない。低い声は地の底まで響き、まるで深淵に引きずり込むよう。もしかしたらすでに実体はなく、幽体として霊界に誘っているのではないかと見紛うほどだった。


「簡単なことです。しかし、仕込みは簡単ではありませんでしたが」

「仕込み……? そんな、燃えるものなんて、どこにも……」


 これ以上説明するのは無駄なこと、とアッシュはかぶりを振る。憂いながら長い睫毛を伏せる姿は、天使を描いた宗教絵のよう。それともよもや地獄絵図。熱気は肺を焼きそうで、思わずベルは口元を覆った。貫に掴まれた腕が、まだじんじんと痺れを訴えている。


 どうして彼はこの灼熱の中で、眠たそうにできるのか不思議で堪らなかった。しかし気になることは他にもある。


「他の子たちは、どうなったの?」

「運命を共にしました。多少番狂わせが起こりましたが、お戻りになられると思っていました。シスター、お帰りなさいませ」

「……どういうこと?」


 訊いたのは、子どもがどうしたかではない。どうして己がここに来ることを予期していたのかということだ。アッシュはどこか聡い子だとは思っていたが、いままではベルの掌の上で立ち回ってくれていた。その発言ではまるで、ベルがアッシュに踊らされていたようではないか。


「そろそろ相手方にも、シスターの商品の劣化に気付かれる頃だと思いまして。危機的状況の場合、シスターは足切りの対象になるかと。なれば貴女は、必ずここに戻ってくる。大切な職場ですから、この場を守り切らなければ、恐らく己は完全に潰えてしまうと思ったのでしょう」


 聖職者としてはなく、奴隷商として。


 アッシュは最後にそう付け加えるのを忘れなかった。ベルには自分の立場を分からせる必要があった。これから語る美徳を、分かってもらうために。

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