スケープゴート

「そろそろ昼かー……」


 交番に備え付けの時計を見上げて、貫はぼそり呟いた。もう陽が高く昇っているにも関わらず、まだ足元は冷え込んでいる。ストーブを最大に燃やして、それでも襲い来る寒気に身震いしていた。

 やはり思った通りで、正月から犯罪を起こそうとする者もいないらしく、交番にはほとんど人は来ない。たまに日課の散歩で外に出るお年寄りと挨拶するくらいだった。


「うーん、外に出るのもなぁ」


 とは言うものの、早く起きたので早く腹が減る。二十代前半、まだまだ食べ盛りで一日四回は食事しないと気が済まない。買い置きのプロテインバーもカップ麺も底を突いてしまったし、食せるものは紙くらい。


「って、俺は羊かよ! ……あれ、ヤギか?」


 ヤギに紙を食べさせることはあまりよろしくないのだが、童謡のひとつにあるので好物なのだと深く信じられている。ごうごうと燃える灯油ストーブの音の中で、貫はひとり虚しくツッコミを入れた。


「いやしかし、これでは俺が危険だ」


 昼食を抜くだけでは危機には瀕しないのが人間の身体と言うものだ。まるで命がけのミッションのように、寒空を睨み険しい表情を作る。恐らく貫には、あの雲から降る槍でも見えているのだろう。それとも背後にはお腹を空かせた可愛い妻と子どもの幻影が見えているのかもしれない。


「しゃーない、行くかぁ」


 机に座りっぱなしの鈍っていた身体に、伸びをして喝を与えてやる。とは言ったものの、交代の誰かが来なければ場所を空けることなどできない。いまのうちに身体を温めておこうと席を立ち、狭い部屋内をうろうろ歩き回っていた。


「もうすぐ来ると思うんだけど……ん?」


 貫の目に映ったのは駆けてくる同僚の姿、ではなかった。灰色の雲を作り出す、教会の姿だ。それは葉巻で吐ける量を越えていた。立ち上る煙を見た貫は背中に氷を入れられたように震撼する。


 燃えている。直感でそう気付いて、貫は交番を飛び出そうとする。


「いや待て! け、警察……は、俺か! 消防車!!」


 僅かに残った理性で、急いで救急に電話を掛ける。住所は分かる。散々通ってきた道だ。手配が終わったら今度こそ飛び出して、愛する麗しの聖女がいる場所へと向かった。

 気分は、姫のピンチを救う王子様。これでこそ警官になった甲斐があるというもの。すぐ着く距離ではあるが、全速力で走り抜ける。


「はぁっ……! ベルさん!」


 約三十秒真剣に走って、安否確認のために必死に叫ぶ。いつまでも可憐に微笑んで、密かに心の支えになっている女性。そんな彼女の悲しむ顔は見たくない。


 けれども、突撃したタイミングが悪かった。ちょうどベルは教会を背にして客を見送っている。結婚式の下見、と聞いていたが。どこをどう見てもそれっぽくはない。いや、人を見た目で判断するのは早合点が過ぎるというものだろう。しかし、いややはりそれは。


「マフィア……?」


 格闘家ほどぶ厚い筋肉ではないが、しなやかに引き締まった身体の男たち。四、五人ほど集まっており、すべてが黒いスーツに身を包み、黒髪はびっちりとオールバックでまとめられている。その中でひとり、威厳を匂わせた人物がいた。首領と思わしき者は葉巻を咥え、煙をふかしているのを考えればまさに映画で観たようなマフィアそのものだった。


「あ? 警察?」


 派手に制服で駆けてくるものだから、すぐにこちらの正体に気付いたようだ。小さく訝しむ声を上げた首領ドンの陰で、その言葉を拾って反応する鈴の声音がいる。


「警察、ですって?」


 一斉に鋭い眼光を向けられる。黒の中で白く咲くベルは、しかし青褪めた顔で驚愕の表情を浮かべていた。


「何しに来た?」


 たった一言なのに、どうしてか貫の心臓を震え上がらせる。男の言葉は、いくつもの死線を潜り抜けてきた重みがあった。新米警官にとってはまるで、レベル1の勇者がいきなり魔王と対峙するに等しい。

 それに自分は本庁ではなく交番勤務のひとりだ。それなら勇者ではなく、良くて見習い程度だろう。


「何、しに……って」金魚のように口をぱくつかせて、やっと音にしたのは当初の目的だった。「燃えて、いるから」


「は?」


 苦笑交じりに男は訊き返す。脳の回転が追い付かない幼児を見ているようで、哀れに思ったのだ。貫に対しても、その子どもに守られるこの国に対しても。


「何ですって!?」


 その憐憫を打ち消したのはベルの言葉だ。確かに横を見ると、レンガの隙間から煙が立ち上っている。焦った女主人が何やら喚き散らし始めてしまったが、それはこちらには関係のないことだ。きな臭いのは我々ではなく建物だったようで首領は肩透かしを食らった。


「そうかそうか、ご苦労さん。なら、俺たちのことは見逃してくれるんだよな?」

「えっ……!?」

「セニョリータと俺はオトモダチだがね、あんちゃんが深入りすることじゃない。ここで会ったことは忘れるのが吉だ。裏の世界に首を突っ込むと、ろくなことがありゃしねぇからな。警察は善良な市民をおとなしく見守ってな」


 葉巻を加えた唇で、器用にドスを利かせてくる。最後のはとてつもない皮肉だ。だから抵抗しなければいけない。だが、ひとりで何ができる。応援は呼んでいただろうか。銃は、災害応急対応時だと勝手に判断して持ってきていなかった。


 どうしてだ。持ち前のお気楽な性格のおかげで、昔から無理難題を乗り越えてきた。けれどここまでかもしれない。危険区域に足を踏み入れるべきか、それとも交番で仮初めの平和を守っているべきか。この凶悪人に、どうしてか気持ちがほだされている。


「中にまだ、ガキがいるぜ」

「――!?」

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