蟻の穴から堤も崩れる

「お待ちしておりました」


 鈴の声音でベルは客を迎え入れる。貫には本日、挙式の下見に人が来ると伝えたが、そうではない。だが彼女にとってはどちらでも良く、むしろこちらのほうがマリッジだと感じていた。


 ――だって運命的な導きで、嬉しい契約が結ばれるのですもの。これもすべて父の意思。美しい定めです。


 ドアを開けられ、黒塗りの高級車から長身の男が姿を現す。葉巻の煙をくゆらせると、まだ雪がちらついているのではないかと錯覚しそうだった。


「セニョリータ・ガロファーノ。品物はどこだ?」


 車と同じく黒いスーツを着込み、落ち着いた深い声を発する。荒っぽい稼業とは裏腹に言葉は丁寧で、スペイン生まれの彼女に気を遣ってセニョリータお嬢さんと名称をつけてくれる。それを細目で受け取って、ベルは踵を返して教会へと向かった。彼との取引はこれが初めてではない。無論、初取引でも狼狽えることはない。奴隷商としての誇りから、クライアントとは対等に話すことにしている。それに、奴隷どもが行きつく本当の客は、実は彼らではないことをベルは知っていた。


 ゆえに、彼らも眉ひとつ動かさない。その先にも前にも興味もないのだ。生きてさえいればそれで商売はある程度成り立つ。獲物を見定める目もしていなかった。

 財産を多く持ち、拷問趣味をひた隠しにしている変態の輩へと渡される。いくつもの拠点を巡り、気付かれないように商品を買っている。


「こちらです。最後のお別れをさせていただきました」


 教会の入口が開かれる。すでに朝日は奥のステンドグラスに射し込んで、室内の装飾をほとんど残らず照らしていた。暗く翳っている部分は、キリストが架けられたと言われている十字の形をしている。皆がこぞって誓いを立てるオブジェだ。

 その陰に沿ってベルたちは進む。ステンドグラスの前に聳えるものには、いまやキリストは見えない。その上を覆うように、か弱き少女が引き上げられていたからだ。手足をきつく縛られ、大層なうっ血が見られる。


「……信仰熱心なのは良いが、あまり励まぬよう」

「分かっていますわ。ですが、足や指はもう必要ないでしょう?」

「そこに興味を持つお客人もいるのでね。余計なことはあまりするな、セニョリータ」


 ベルは小さく、まあ、と驚愕の声を上げる。日本人の陰湿さは桁違いだ。腹や顔があればそれでいいのかと思っていた。横に転がっているシャベルをちら、と一瞥し、今後は気を付けようと肩を竦める。

 雪に塗れていた凶器は、今度は鮮血に染まっていた。


「ま、今回はくっついているだけいいだろう。セニョリータの仕立てた商品は好評だからな」

「光栄ですわ。この子はアステル。ええっと確か……十七歳だった、と記憶していますわ」


 その記憶も合っているのかは不確かだ。けれど、その実正確な歳など誰も求めていない。細かく指定してくる者もいるらしいが、それはベルとは違う商人の買い付けが多いだろう。彼女の子らは従順で、殴っても抵抗の意志を見せない品だった。


「記録しておこう。おい、下ろせ」


 背後の部下に命令すると、面倒そうに葉巻をふかす。台座を含めれば六、七メートルはあるだろう十字架によじ登る黒服を見ていると、まるで砂糖菓子に群がる蟻のようだ。客の趣味も疑うが、ベルの趣味もそこまで良いものではない。奴隷の体重は軽いものがほとんどで、いつ折れてしまうか分からない危うさがあった。


 人の趣味にも命にも興味はないが、勝手に傷つけてとばっちりを食らうのは勘弁してほしい。


「いつもご苦労様です」


 にこやかな表情を作って、聖女は語る。そう言うなら端から吊り上げないでいただきたい。男は渋い顔をして、何度目かの甘い煙を吐いた。




 だから気付かない。どこで煙を生じさせても、葉巻のそれで誤魔化してくれる。アッシュと買い付けの男との間に打ち合わせなど皆無。しかし彼は細かい息遣いと匂いを感じ取っていた。腐敗したものとは違う甘い匂い。鼻がまだ正常に動いているならば、耳がまだ正常に働いているならば。間違いなく、今日は好機だ。

 ベッドの下で拾った指輪に口付けをして、兄弟の無念に祈りを捧げる。美しくない、ただの暴力に未来はない。


「父よ、どうかお見逃しを」


 願いは冷たい壁に吸い込まれて、どこにも届きはしない。しかしそれが救いであり、真実を隠すための重要な事柄であった。


 アッシュは言葉を吸収した石壁に指輪を宛がう。小さな宝石が埋め込まれており、このような場所でも一種の安堵感を生じさせていた。まだ審美を求める心があると思えるからだ。けれどその価値なども、この際どうでもよかった。種類など関係なく、火を立てられるならそれ以上のことはない。


「アドニス、アヴェル、アレクセイ、アステル、アネモネ、アエラ。そしていままで心を亡くした者たちよ」


 宝石を押し付けたまま腕を勢いよく横に流すと、細かな火花が舞う。石と石の摩擦から発した花は、綿のこよりに移され、炎の一輪挿しとなった。だがそれだけではまだ侘しい火種。おもむろに床に這いつくばると、また違うこよりに火を渡していく。繋がっているのは火薬でも何でもない。ただ、ベルが落としていったロウソクの蝋だ。

 一日一滴、落ちるか分からない液体。それに気付かれないように、自分の衣服から綿を引き裂いて芯を差し込む。生贄への手当は最後の悼みであり、カモフラージュでもあった。


 蝋は寒い中でも赤々と燃え上がって、少しであれば暖を取れる程。まだまだそれでは足りない。されども薄い木の板は、好都合にも目の前にある。扉として役に立つのは不十分だったが、燃焼させる木材としての仕事は十二分に働いてくれそうだ。

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