石言葉は「不屈」

「では彼女を引き上げていこうかしらね」


 綺麗に舗装された石畳がほとんど見えてきた頃、ベルは悪の巣へと戻っていく。ズルズルと大きなシャベルを手に教会に足を踏み入れれば、赤いヴァージンロードに一本の不穏な染みを作っていった。水分で黒く変色したラインを引き連れて、地下室への扉を掘り起こそうと鉄の杓子を掲げる。金属と金属がぶつかる音は、恐らく下にも届いただろう。子どもたちの微かな息遣いが伝わって、ベルの背中は陽炎が立つほど高揚した。


「アステル! 神のお導きよ! さぁ、召されなさい! きゃははは!」


 暗い地下道へ哄笑を投げ込んで、その恐怖と希望の狭間の空気を楽しむ。熱気から一転、鳥肌が全身を巡った。恐怖ではない。興奮からだった。

 濡れた靴底を階段に擦り合わせ、丁寧に一段一段降りて行く。最奥の朽ちた木のドアまで到達すると、舌なめずりをしてドアハンドルへと手を掛けた。


「おはよう、子どもたち。今日は佳き日よ」


 どこから入り込んだのか、蝿が低く漂っている。血と尿と腐敗の臭いが立ち込めた地下室の中央で、本日の召し物は突っ立っていた。アステルだ。


「おはようございます、シスター」

「あら、アッシュ。いつもご苦労様」


 どうしてか彼は聡く、毎回召される子どもを選んで、それなりに傷を整えてくれていた。アステルの体は酷い裂傷と打撲であったのに、自分たちの衣服の切れ端で血を拭い手当らしきものがされている。

 アッシュの手配は快いが、供物のくせに手厚く填補されている姿が気に食わないベルはフン、と鼻を鳴らした。しかし今日は上機嫌だ。あの警官にもまだバレていないし、新年に楽しい取引ができる。


「アステル、上がってきなさい? お迎えよ」


 肩を小刻みに震わせているが、彼女にはもう抵抗の意志はない。瞳にはもう渇望の光すら宿らず、痛みの感覚すらないだろう。最後だからと殊更にこやかに、この少女を誘う。


「シスター、その前に」ふと、従順な子犬が語りかけてきた。何事かとベルは耳を傾ける。「いまし方三人、亡くなりました。埋葬を」

「……何ですって? 折角年を越したというのに、それは残念だわ」


 やれやれと聖女は首を振る。ここまで仕立ててあげたのに、命潰えるとは非常に残念だ。商品を失うのはこれで何度目か。足は付かないが、墓穴を掘るのに骨が折れる。何の役にも立たない死体を埋めるのに、自分の手は汚したくなかった。


「食べなさい」

「えっ」


 声を上げたのはアッシュではなくアステルだった。まだ頭のブレーキは生きていたらしい。その小さな声がとても耳障りだったので、ベルは迷いなく汚い少女の腹を殴りつけた。


「ぐ……ぁっ!」


 堪らずアステルが蹲る。吐く物もないようで胃液を零していたが、そこまで我慢しているのなら早いところ死体を口にしておけば良かったのだ。腹が減ったと訴えたところで、供犠くぎになる者にはパンの一欠片さえ与えるつもりは毛頭ないのだから。

 冷徹な視線で見下して、お気に入りの少年へと笑みを作った。


「アッシュ、あなたは大きく丈夫にならないと。お肉はあなたを強くしてくれるのよ」

「そうですか」

「ええ、だからたくさんお食べなさい。それが、人生の決まりなのです。あの子たちも幸せになれるわ」


「幸せ……」


 ぽつりと似合わない単語を漏らし、アッシュは先程まで生物だったものに目線を遣る。朝でも暗い地下の中、彼は視力を失いつつある代わりに薄明かりでも物を捉えられるように身体が変化していた。


 亡くなったのは、アドニス、アヴェル、アレクセイの三人。いずれも少年で、ひとりはアッシュよりも年上だった。ふたりは年下だが体躯はしっかりと成長過程にある。

 しかし、暴力には堪えられなかった。

 内臓や大きな骨をやられたのだろう。動けず食せず息絶えたに見えた。


「彼らは、幸せだったのでしょうか?」

「え?」意外な問いに、ベルは戸惑う。しかしそれも一瞬のことで、すぐに適当に応えた。「ええ、そうよ。肉を食べれば、その血を飲めば、もっと幸せになれるわ」


 にこりと笑えばこの子は従ってくれる。深く考えることもなく従順になる。笑顔は母の愛の象徴だ。制圧する者の特権だ。


 ――幸せとは、いったい何だ。


 その行動を受けてアッシュは少し違うことを考えていた。自分たちは幸せを知らない。この場所には何もない。虚無だ。こちらの同胞も、いまとなっては名前のない静物。煮ても焼いても、ただの塵土じんどだ。


 ベルの口から飛び出した、付け焼刃にしか聞こえない父の教えを反芻してアッシュは答える。ヨハネによる福音書には、似たような文言があった。彼女は母であり父である。曖昧な線引きの狭間で揺れるこの人物には、すでに己の行いについて信念がない。


「そうですか。ではこちらで処理しておきます」

「ありがとう、アッシュ。助かるわ。行くわよ、アステル」


 もはや諭すことも無用。そう気付き少年は口を噤む。ベルが楽しそうに階段を上がっている間、彼はまたもや思考を巡らせた。


 奥まった場所で幼い姉妹が震えている。頭脳も体躯も成長期の兄弟ですら無情に生を奪われるだけ。声が届きやしない場所では、ただ叫んでも無駄に終わるのだ。硬い石壁に阻まれるばかりで脱出口といえば祭壇の横に繋がる扉しかない。それもベルがいつも監視しているので逃げることなどできない。

 彼女以外の人物が教会内にいるときであれば、どうにか訴えて罪を暴いてくれるかもしれない。音もほとんど届かず、時間の感覚がないこの暗闇で、自分の意志さえも自由にできない幼子がどれほど希望を持って行動できるか甚だ怪しいが。勇敢な者もいないわけではなかった。しかしベルに一度見つかってしまえば、次に抵抗ができなくなるほど嫐られ、打ち捨てられる。時には命の危険が伴うまで。


 衣擦れの音が去り、鉄板が乱暴に閉じられる。これから温和なシスターは残忍なスレイヴァーへと豹変する。いいや、聖職者としての業務すら、ここ最近は行っていたのかも分からない。アッシュが拾われた頃には、すでにベルは殴ることに魅了されていた。シスターにもストレスを抱える事柄があるのだろうと漠然と考えていたが、どうやら違うらしかった。


 つい先刻亡くなった少年たちは優しかったベルを知っているようで、彼らの絶望には遠く及ばないが、アッシュとて驚愕は隠し得なかった。それでも彼女が口を開けば神のお導きが、神のご加護が、との言葉が出てくるので、まだ神官としての矜持はあるのかと思っていた。


「しようがありません。……兄弟よ、復活の約束をさせてやれず、すみません。姉妹よ、運命を共にしてもらいましょう」


 亡骸に十字を切り、次いで奥で震えるふたりの女児を捉える。最近連れられてきたので傷も浅い。まだ人としても商品としても未熟で、どちらもぐずついた酷い顔でこちらを見返している。それでも、アッシュの言葉をしんから理解していた。いまとなっては年長者の彼の誘いに泣きながらも首を縦に振ってくれる。


「助かります」


 短く礼を述べると、少年は身軽に、遺骸が積まれたベッドの脚近くで小さな指輪を拾い上げた。

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