一日の計は朝にあり、一年の計は元旦にあり

 同日、午前五時五十一分。深夜から降った雪で地面は白く染まっていた。現在は落ち着いているが気温もろくに上がらないのでいまだ残っている。柔らかい革靴で積雪を踏みしめると、滑ってあらぬ方向に行ってしまわないかと不安を覚えた。


「さみー……。正月から早番とか、マジで辛すぎ……」


 青年はボヤキながら、厚手のコートの襟を手繰り寄せる。身震いすれば身体と同時に、学生時代に日に焼けてしまった若干茶色い髪が揺れた。風はほとんど吹いていないとはいえ、都会育ちの彼にとっては堪える寒さである。

 コートの下には紺色の仕事着。金色のボタンがやけに多く付いた、警察官の活動制服を着ていた。勤務先は四つ角のひとつにあるひっそりとした交番で、独身寮から歩いて七分程度。普段から歩き慣れた道でも、早朝の回っていない頭には苦行のようだった。


 一番可哀想なのは前日からの遅番だろう。しかしそこを察せられないほどの温度である。


 正月の、それも積雪がある都会の片隅。近隣住民さえも家から出て来やしないだろうと踏んでいるが、それでも誰かが交番で働かなければ街の平和は守れない。警官には正月も盆も存在しないはずなのに、今日に限ってはやりたくないとの意思を同僚からひしひしと感じていた。持ち前のお気楽さと人の好さから引き受けてしまったけれど、いまでは少し後悔している。


「あっ」


 ふと目線を横に遣ると、密かに想いを寄せる聖女を捉える。これが、彼を駆り立てる唯一の理由であり、ささやかな幸福だった。聖女と目が合うと緊張からか鼻の奥がつん、としたが、それが気にならないくらい彼女は可憐で美しかった。雪のように白い肌、太陽のように美しい髪と良く映えて、神々しささえも生んでいる。


「あら、成神なるかみさん。おはようございます、お早いのですね」

「あ、ああ……おはよ、ございます」


 寒さからか唇がうまく動かず、まるで魚だ。蚊の鳴くような音を第一声に、成神は声を掛けてくれた者に返事をした。


 シスター=ベルはコートも羽織らず薄い修道服に身を包んで、玄関の雪かきをしていた。湿った、鉄製の重そうなシャベルがそれを物語っている。あまり積もってはいないものの、参拝者などが足を取られると危険なのだろう。


「え、っと……寒く、ないのですか?」


 本当はもっと違う話題を出したい。が、歯の浮くようなセリフはどうにも出てこない。今日もお綺麗ですね、とか、今度食事に行きましょう、とか。頭で思っているだけで、口を衝くのは中身のない会話だけだった。


 それでもほとんど毎朝、自分との話に付き合ってくれるのだからチャンスはどこかに残っているのではと心の底で感じていた。


「気温など神が与えた試練だと思えば、乗り越えられますよ」

「そ、そうですか」


 こちらより遥かに寒そうな彼女にそう言われて恥ずかしくなったので、青年・成神 いずるは掴んでいたコートの胸元をそっと開ける。が、やはり寒くてすぐに締め直してしまった。彼女のように徳を積んでいれば、この積雪の中でも暑くも寒くもないのだろうか。

 そもそも警官の制服が薄すぎるのが問題なのだ、と本末転倒なことを思いながら、貫は自分に言い訳をした。そうだ、彼女はどこかにホッカイロでも仕込んでいるのかもしれない。そうでなければ、温かそうに白い息を吐くことなどできないだろう。


「正月でも仕事があると、お互い大変ですね」


 双方の大変さを共有しようと話を変えたが、その思惑はあっけなく一蹴されてしまった。小首を傾げて、ベルは少し苦笑する。


「わたくしはカトリックなので、お正月はありませんが……。この雰囲気は好きですよ。なので、毎年この日には早めに教会を開けることにしているのです」

「あー。そういえば、ここは教会でしたね」


 片言でにこやかに言われると、こちらまでにやけてきてしまう。半ば照れくさいのもあるが、彼女の笑顔にはどこか心を許してしまうのだ。それでも残念そうな空気を感じ取ったのか、ベルは優しくフォローした。


「でも仕事と言えば仕事ですかね。今日はご結婚の下見にいらっしゃる方がお見えなのです」


 それは新年からご苦労なことで、と貫は肩を竦め、しばらくしたら差し入れでもしようかと少し考える。元旦から働いている者仲間だし、嫌な気はしないはずだ、たぶん。だが正直その場に直面したときに、すらすらと誘い文句が出てくるかは保証しない。

 素材は悪くないはず、と貫が口中で呟いたとき、何かを思い出したようにベルが焦り出す。


「いけません。わたくしはそろそろ準備しないとですから。成神さんもお仕事行ってらっしゃいませ」

「は、はい! 行ってきます!」


 つい癖で敬礼をすると、ベルがころころと笑う。いつもではないものの、会えたときは他愛のない会話を楽しんでいるのだ。聖職者と恋愛ができるのか知らないが、きっと彼女もこうして笑っているし、悪いことではないはずだった。


「それでは」


 和やかに手を振って、ベルは貫を見送った。


 どうせ交番勤務の警察の目は節穴。そもそも見つかる要因もない、と彼女は凍える瞳に戻って雪を掻く。今日は刺激的なイベントがあるのだ。そのおかげで身体が火照ってしようがない。漏れる吐息は煮えるように熱く、顔に掛かると肌が焼けるかと思うほど。どうか本日はアステルを、業火で華々しく見送ってあげてくださいな、父よ。

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