一月(ニサンヌ)
気高き主
響き渡る、ひとつ分の除夜の鐘。しんしんと降る雪の中でもはっきりと聞こえるそれは、余韻を引きながら終焉を迎えていた。
「あら、日付が変わったのね?」
鈴を転がしたような声色で、館の主人は呟いた。
仏教徒ではないものの、この地に三年ほど居れば嫌でも身に付く習慣だ。同じく神聖な者を崇める立場であることも、彼女にとっては親近感を湧かせるものだった。館――とは言えレンガ造りのそれは、およそ人が住むのに最適ではない――の女主人はウィンプルを脱いで、一日の鍛錬を終えようとしている。
上に長い建物の、壁の一面には煌びやかなステンドグラス。その傍には真鍮製の神が苦悶の表情で十字架に磔にされていた。その彼にいままで、祈りを捧げていたのだ。
「おめでとう、わたくしの可愛い子どもたち。また無事に年を越えることができて、神は喜んでいますよ」
ふわりと言葉が発せられると、ロウソクの灯もそれに合わせて寒そうに揺れる。現れたミモザ色の髪とその葉のようなミントグリーンの瞳は、彼女が日本人ではないことを表していた。修道女はいつも柔らかい笑顔を湛えており、世界のためにたくさんの祈りを捧げている。
いまだって彼女が保護する孤児たちに慶賀の言葉を与え、命あったことに喜びを感じさせようとしていた。孤児たちはすでに部屋に籠っているけれど、きっと想いは届くと信じている。糧や衣類等の施しはお世辞にも多くない。それでも苦ではない。だって神は近くに居るのだから。
「さて、子どもたちの様子でも見に行こうかしらね」
シスター=ベル・ガロファーノ。スペイン語でカーネーションの名を冠する彼女はロウソクの灯をひとつ手に取ると、子どもたちが眠る部屋へと降りていく。身寄りのない子らにとってベルは母替わりだ。錠を外しちらりと顔を覗かせると、子どもたちは思い思いにベッドに転がっていた。暗い部屋のため顔はほとんど見えないが、その姿を想像してベルはまた口角を上げる。つい先程まで戯れていた双子の姉妹もいまは静かに床に臥していた。
ふと足元を見遣るとひとりの少年が起きているのが分かった。修道女は驚きで小さく息を呑むが、すぐに平常心を保って小さく声を掛けた。
「……あら、アッシュ。まだ起きていたの?」
「はい、シスター。彼らの眠りを、観察していました」
アッシュと呼ばれた少年は、
響く低い声に、闇に紛れるかのような黒髪。加えて肌も浅黒いのだから、まさに暗黒を具現化したと言っても過言ではない容貌であった。
「そう、でもアッシュもすぐ寝なさいね。ただでさえ細いのだから、身体が滅入ってしまうわ」
「……そうですね」
揺れるロウソクの火に
「除夜の鐘が鳴ったのですよね。ではもう新年ですか。新しい年を迎えられて喜ばしい限りです。シスターも佳い一年をお過ごしください」
この部屋にも鐘の音は届いていたらしい。音を吸収するものもあまりないので、良く響くのだろう。さしてベルはそのことには気も留めず、受け取った言葉を反芻しながらはにかんだ。
「あらあら、ありがとう。アッシュがそう言ってくれると嬉しいわ。もっと頑張らなきゃね」
自分の可愛い子どものひとりにそう声を掛けられると、いままで努力したことは間違っていなかったと実感させられる。不便な思いもさせているだろうが、笑顔で接してきて良かった。
溶けた蝋が床に落ちて、すぐに凍った。それを確認して頃合いだと思ったのか、少年は就寝の合図を送る。
「おやすみなさい、シスター。本日も、神様の加護がありますように」
「おやすみ、アッシュ。あなたも早く、神のご慈悲を受けられたらいいわね」
言って、ベルはアッシュの黒髪を撫でてやる。この子にも優しくしなければ。もう少し丈夫に身体が育たねば心配でしようがない。巡り巡ってこの教会にやってきたのだから、その偶然に感謝しよう。
崩れそうな木の扉を静かに閉めて、まだ息のある者を起こさずに彼女は立ち去る。
仏教徒ではない彼女には正月なんて代物は存在しない。加えて日本人は働くのが好きらしく、ベルのところにも元旦から信者が現れる。自分を慕って要望を告げに来るのだ。本日は特別な依頼なので、こちらもとびきりの対価を選ばなければいけない。
「アッシュは細くてどうしようもないし、さっきまで遊んでいたアネモネとアエラはまだ信仰心が足りないわ……。そうだっ! アステルが元気そうだったわね」
嬉しそうに思い出してベルは手を叩く。パフン、と手袋が空気を吐き出した。
「今日の召し物は彼女にしましょう!」
くすくす、とうっとりしながら笑って、ベルは相手に捧げる供物を決めた。地下室への階段を上機嫌で上がり、祭壇の横にある鉄の板を嵌め込む。アッシュらが押し込められていたのは、光も風も届かない土の底。
神への献上をいまかいまかと待っている少年少女たちは従順で、面白いくらい。彼らは奴隷として客に買われる未来しか存在しない。性別も容姿も関係ない。神と銘打つ客は、子どもを殴ることしか興味がないのだから。選ばれた子がどこへ行くのか、すでに知っている者もいるようだが、どうしようもない現実を受け入れるしかなさそうだった。非力な者は、誰にも抗えない。
アッシュは商品にするには細すぎてまだどこにも行けないのだが、この真っ暗な地獄の中でも神の加護があると信じて扱いやすかった。何でも素直に従ってくれるので地下牢の番人にしたのだ。
「さて、朝までに飛び散った血を拭いておかないとね」
女は、美しい手指を顕わにするために手袋を脱いだ。この指で、この拳で。双子の女児を嫐っていた感触を回顧する。冷えた椅子の端をなぞっていても、その手触りは忘れられない。
ベル・ガロファーノは教会兼孤児院の主人シスターであり、奴隷の仕立て人である。ミサを行う聖堂で殴ると、神に近付くようで興奮してしまうのだ。高揚して小躍りするように事前に用意してあった水入りバケツに駆け寄る。
浸した布を硬く絞って拡げれば、ほのかに鉄の匂いがした。かじかむほど冷たい水は生身に痛いけれど、取引を思うと耐えられる。それに、綺麗になったチャーチチェアにまた新しい血痕が飛散するのは何にも耐えがたい歓喜だった。
「うふふ。……父よ、我らを見守り給え。アーメン」
キリスト像に背を向けて、四つ辻を結ぶ。切った十字が向けられる先はどこだろうか。天に居ると言われる父は、守護しているのかどうか甚だ怪しい。彼女の行いは、世間からすれば悪同然。道に背けば天の捌きが下る。というが、背後に居座る全知全能の神の、金物の瞳は何も見ていない。そのようなもの、ただの置物に過ぎなかった。
ベルにあるのは、ただ客という神の意思のみである。
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