第4話「初めてのおでかけ」

 ヘルミオネとレッドフードの二人が人外魔境の暗黒大森林を脱したのは、十日以上も後のことだった。レッドフードが魔狼を追いかけて入った時より数日時間がかかったのは、別段急ぐ理由もないためゆっくりと歩いていたからである。


「うわぁ、すごいわね! 一面めちゃ緑!」


 魔樹の森は唐突に終わりを告げ、現れたのは広々とした草原である。森から流れ出る大河が蛇のように曲がりながら外へ向かい、晴々とした無窮の空が頭上に広がっている。

 木漏れ日が差し込みつつも基本的には薄暗い暗黒大森林との違いっぷりに、ヘルミオネは強烈な衝撃を受けていた。


「この草原も魔境の範囲内。このあたりに村はない」

「そうなの? まあくっきりと区切りがあるわけでもないしねぇ」


 すっかり力を取り戻したレッドフードも、すでに自分の足で歩けるようになった。むしろ強力な大魔獣の上質な肉を食べたことで、以前にも増して力を付けている。


「ていうか、できればウチのことは聖域って呼んでほしいんだけど」


 数千年ぶりに見る外の景色に感慨を覚えつつ、ヘルミオネは引っかかった言葉に反応する。一応この森は泉の女神たる彼女が管理してきた、歴とした聖域なのだ。しかしレッドフィールドは冷ややかな目で彼女を見上げ。


「こんなに魔力の高い場所は珍しい。棲んでいるのも魔獣ばかり。暗黒大森林は魔境」

「ぐぬぬ……!」


 間髪入れず繰り出された三段論法。ヘルミオネは歯軋りして悔しがる。

 そもそも彼女は泉を通してこのあたりの地域に太く強靭なエネルギーのラインを構築している。レイラインやら龍脈やら霊動やらと呼ばれるが、ヘルミオネ自身は単に水脈とだけ呼んでいる代物だ。

 それが地中に満ちるエネルギーを吸い上げて地表に振り撒くことで土地は成長を果たした。そこに良いも悪いもない。魔力と言うと邪なものというイメージもあるが、神気とそう大きな差はないただのエネルギーなのだ。


「とりあえず、近くの村に行く。荷物も持っていない」

「それもそっか。いよいよこの森ともお別れね」


 草原に向かって歩き出すレッドフードを見て、ヘルミオネはいよいよ旅立ちの時を迎えたことを知る。今一度振り返り、天に迫るほど育つ木々に手を振った。


「達者でね! しっかり栄養取るのよ。何かあったら泉にいる水精に相談しなさい!」


 仕事を押し付けられた水の精霊の負担が爆増した瞬間であった。

 ともあれ涙の別れを告げたところで、ヘルミオネの意識は婿探しへと集中する。森から一歩踏み出して草原に入ると、晴々とした気持ちが胸を満たした。これから自分は広い世界を巡り、正直でイケメンで寝顔の可愛い木こり君を探しに行くのだ。


「ところでレッドフードちゃん。向こうから勢いよく爆走してきてるデカい牛はなに?」

「ん、三つ首の黒牛」

「いや、名前はビジュアルから分かるけどさ」


 なだらかに波打つ草原の地平から、真っ直ぐにこちらへやってくる巨牛が一頭。ちょっとした建物ほどの大きさがある黒々とした猛牛は、一つの体に三つの頭と六本の立派な角を持っていた。

 地面を抉るほどの強さで蹄を鳴らし、猛々しい咆哮を上げながら、ヘルミオネを狙っている。生憎だが、ヘルミオネ自身にはあんな牛に恨みを買った覚えはない。


「この草原で主になっている。たぶん、ヘルミオネの魔力に当てられて興奮してる」

「神気と言ってちょうだいよ。……それはともかく面倒ね」


 ヘルミオネが頑張って封じていても、多少の力がどうしても漏れ出てしまう。彼女の本来の力と比べればあまりにも微量だが、それでもなお強烈な存在感を放つ神気だ。

 暗黒大森林に暮らす魔獣は強さに見合うだけの知性も持ち合わせ、彼我の力量を把握した上で彼女から遠ざかる。そのためこのような面倒ごとは起こらなかったのだが。


「己の強さも見極められないバカばっかり……ってこと?」


 黒牛が迫り来る。間近に見れば、小山ほどの体躯は恐ろしいほどの圧迫感だ。しかしヘルミオネは緊張感のない顔で金の斧を手にする。


「とりあえず、牛肉確保ってことでいいわね」


 無造作に繰り出された斧。半円の軌道を描きながら風を裂き、中央の頭の眉間――黒牛の正中線を的確に捉える。


――ズパアアアアアンッ


 滑らかに刃が滑り、背骨を真っ二つに斬る。

 正確に二分割された黒牛は1.5つ首という中途半端な形となった。


「はー、魔獣もヌルくなったわねぇ」


 声の一つもあげることなく絶命した黒牛を見下ろして、ヘルミオネは心底残念そうに肩をすくめる。神代以前、混沌の魔獣と恐れられたアレと比べるべくもない。これが仮にも主として暗黒大森林の近傍に我が物顔で居座っているのは、衝撃を通り越して悲しみさえ抱く。

 これでは我が肉体美を磨く砥石にさえならないではないか。

 そう落胆するヘルミオネを見て、レッドフードは猟銃を握りしめていた手の力を緩める。三つ首の黒牛と言えば、暗黒大森林へ挑まんとする数々の勇士を阻んできた大魔牛である。三つの口からは猛火を吐き、その肉体には生半の刃では傷一つつかない。一度暴れれば万の軍勢さえ蜘蛛の子のように散らすと言われるほどの傑物だった。――そのはずだったのだ。


「ほら、さっさと行くわよ」


 黒牛の美味しそうな部位だけ斧で器用にくり抜いて、残りは大地への分前としたヘルミオネが、呆然と立ち尽くすレッドフードに声をかける。我に返った少女は、慌てて彼女の巨大な背中を追いかけた。


「ヘルミオネなら、世界を恨む魔狼も倒せるかもしれない」

「ええ、嫌よ。全然知らない奴だし」


 私は博愛主義者なのよ、と信用のならない言葉を嘯く女神。彼女の宿す力に無限の可能性を感じるレッドフードは、本人に気取られないようにしながら強い視線を送った。


「うわーーーっ!?」


 そんな直後のことである。悠々と草原を歩いていたヘルミオネが情けない絶叫を上げたのは。


「どうしたの」


 そこまで取り乱す女神を初めて目にしたレッドフードが首を傾げる。魔境と呼ばれる危険地域もそろそろ終端といったところである。周囲に魔獣の気配もなく、旅程はひとまず順調といったところだった。

 しかしヘルミオネは愕然としてレッドフードに訴える。


「この先どうなってるの!? 草も生えてない禿げ荒野じゃない!」


 彼女が指で指し示したのは二人の行き先、広大な草原の向こうに広がる荒涼とした不毛の土地だった。

 何もおかしいことはない。暗黒大森林の中心から離れるほど、その恩恵は薄くなる。したがって木々の密度は減って草原となり、やがては荒野が現れるのも自明のことであった。

 しかしヘルミオネにとっては預かり知らぬ理論である。彼女はどこまでも続くと思っていた緑の地が唐突に終焉を迎えたことを受け入れられないでいた。


「うぐぐぐぐ……」

「どうしたの」

「荒地は苦手なのよ。暑いし乾いてるし粉っぽいし」


 眉間を狭くして唸るヘルミオネは、三つ首の黒牛を一手で瞬殺した女傑と同一とは思えないほどに弱りきっていた。その姿の豹変ぶりにレッドフードは落胆を隠せない。


「ただの荒野。一月くらい歩けば、また緑も出てくる」

「一月!? 一月って、いくら!?」


 なおも絶叫するヘルミオネ。彼女に憧憬を向けていたレッドフードの銀の瞳が冷たい氷のようになる。


「うぅぅぅ……。せめて川沿いを歩かせて」

「分かった。もとからそのつもり」


 水が補給できるのは何よりも得難い利点だ。暗黒大森林から流れ出す川の一つを選んで、二人はそのすぐそばを辿るようにして荒野へと踏み出す。


「うひぃぃ」


 数分もしないうちにヘルミオネは弱々しい声をあげる。心なしか、その筋肉にも張りがなくなっているように見えた。

 あまりにも急激で露骨な変化にレッドフードも少し心配になった。


「体調が悪いか?」

「そう言うわけじゃないけど……いや、そう言う感じなのかな。人間基準だとよく分からないわね」


 説明に困りながらもヘルミオネは現状を伝えようとする。今や2メートルに迫る巨体もまるで鉛の錘のように見えるほど、彼女は弱々しく背中を曲げていた。


「急に森から出てきたってのもあるんだろうけど、神聖性が足りないのよ。ほら、私ってば泉の女神様でしょう。だから水がないともうどうにも力が出なくて……」


 考えれば当然の理屈だった。女神である彼女は泉こそが依代である。暗黒大森林は長い時間をかけて育んできた彼女の庭のようなもので、その中を歩き回ることに支障はない。

 しかし泉から離れるほど、彼女の力は急激に弱まっていく。分類的には土地神と呼ばれるようなところに属するのがヘルミオネという女神なのだ。


「大丈夫?」


 それにしてもあまりにも衰弱の速度が速い。レッドフードが彼女の腕をさする。ちなみに肩は高すぎて爪先立ちでも届かなかった。


「うーん、うーん……。し、仕方ないわね」


 息苦しく体も重たいが、家を出て初日に戻るというのも情けない。何よりもまだ正直でイケメンで笑った時のえくぼが可愛い木こり君が影も形も見つかっていない。

 ヘルミオネは腹を括る。そしておもむろに近くの川へと身を投げた。


「せいやあああーい!」


 ざぶんと大きな音がして、飛沫が高く飛び上がる。

 直後、神々しい光が一条の柱となって天を貫いた。

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