第38話 我慢できなかったんだもん

「私じゃ嫌だの……?」


「いや、そうゆうわけではない……です」


 寂しそうにこちらを見つめてくる渚さんに、俺は不意に目を逸らす。

 こんな可愛い顔で凝視されたら理性が保てなくなる。

 今を楽しんで後先を考えないでいいなら大歓迎だ。むしろこの状況なら俺から抱きついてもいいくらい。


 しかし人生そううまくはいかないもの。

 かといって、ハグはしたい。そんな時は都合のいいように解釈するのが一番手っ取り早い。


 皆のために自分を犠牲にして、ハグをする。やっぱことわざって便利だから好きだ。

 自分は正しいことをしていると思い込ませることにしよう。


「時間ないんですから、ちょっとだけですよ」


 赤く頬を染めながらボソっと呟く。


「ホントにいいの?」


「なんで聞いてくるんですか」


「だって断られると思ってたから、いつもみたいに」


「今日だけ特別で――」


 次の言葉が出る前に、渚さんは俺の胸元へを顔を沈めていた。


「随分急ですね……いつもなら断りを入れるはずなのに」


「我慢できなかったんだもん」


 胸元からプクリと頬を膨らませた顔を覗かせる渚さん。体は密着し、腕は腰に当てられていた。


 なんだこの甘えん坊なただただ可愛いだけの女子は。本当に渚さんなのかと錯覚してしまうくらいに可愛い。いつもの奇行が嘘のようだ。


 その前に、俺の腕の中にいるのがこれからライブを控えている人気美少女アイドルということが信じられない。

 俺、前世で何か得を積んでたのだろうか。


「五月くん……好きっ……」


「アイドルが気安く人に好きとか言っちゃいけないんですよ」


 アイドルというのは、基本的に恋愛禁止のグループが多い。事務所側からファンの夢を壊さないようにという配慮だろう。


 恋愛なんて個人の自由だというのに、ファンという肩書の赤の他人に彼女を作るなだの勝手に人生に指示をされる。

 そう考えると、アイドルは残酷だ。


「自分の気持ちに嘘は付けないよ……私は五月くんが好きなの」


 ぎゅっと胸元を掴み、さらに顔を深々とうずくめる。


 これが彼女であったなら、アイドルではない渚さんであったら、俺も好きだよと返してあげられるのに。そこに怖い感じのメンヘラを出すのはやめてと付け加えるけど。



 誰もが夢見るアイドルのような生活だが、それは表向きなだけで、裏側は個人の自由など全くない残酷な世界だ。


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