第37話 ……ダメ?

「な、なんでですか⁉」


 想像もしていなかったことを言われ、俺は声が裏返る。

 こんな密室でハグなんてしたらそこから発展しかねない。渚さんのことだ。部屋の狭さ関係なく俺を襲ってくるだろう。


「……ここ一週間ライブの為に頑張ってきたから疲れて元気が湧かないの」


「それで、俺に抱きついて何をするんですか……?」


「五月くんを補給をするの」


 照れた顔のまま俺の方を見る渚さん。

 その顔は、いつもの俺をからかって意地悪く笑うものではなく、本心から言っているものであった。


 メイクで隠れてはいるものの、目の下にはクマが薄っすらと見えるし、瞳の中に煌びやかな光が少ない。

 精神的にも肉体的にも相当疲れているように見える。


「俺に抱きついたところで疲れなんて取れますかね」


 いっそのこと、どこかもう少し広い部屋に入ってマッサージをしてあげた方がいいと思う。


 俺への負担も少ないし、渚さんはリフレッシュできる。一石二鳥だ。


「ぎゅーすることによって五月くんの元気をわけでもらうの。というか五月くんとぎゅーしたら私は元気100倍マックスになれるの」


「そうですか……」


 ハグとは言わず、『ぎゅー』という単語を使うところが可愛い。変に迫ってくるのではなく、疲れているからか、素で甘えてくるところがまた可愛い。


「……ダメ?」


 それに、子犬のようなウルウルとした瞳で見られたら俺だってしたくなる。

 可愛い、流石に可愛すぎる。


 ここでハグをしてしまうと、これからバイト先で毎回ハグを迫られるのではないかということが頭をよぎる。

 はて、どうしようか。


 一度くらいと言った甘い考えが、後から自分を苦労させることになるのは人生で何度も経験しているので分かる。


 しかし、俺一人がご褒美とも犠牲ともいえる渚さんとのハグをすれば、ライブでの渚さんは本領を発揮してライブは大成功を終える。


 俺も一瞬だけだが、最高のひと時を味わえる。後から絶対に後悔することになるだろうけど。

 しなければ疲れは取れないし、そこに不機嫌までプラスされる。その状態でライブなんてしたら失敗になる可能性が高い。


 というかライブ自体を蹴るかもしれない。

 要するに、このライブと何万人もファンの運命を握っているのは俺というわけか……荷が重すぎるぞ。


 一人はみんなのためにってやつかこれが……ことわざなんて嫌いだ。大嫌いだ。


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