第47話  望洋亭の一日

 望洋亭が入居するビルは大正時代に建てられたが、戦争によって大きな被害を受けた。

だがかっての優雅な姿を懐かしむ人たちの手によって、外観や意匠は敢えて昔のように設計した近代的なビルであった。

 その昔風の情緒ある佇まいから、テレビドラマや映画の撮影などに、度々利用されていた。望洋亭も店内には大正時代風の雰囲気を作りつつ、厨房などには最新の機材が揃っていた。

 翔馬はここでレストランのイロハから叩き込まれることとなった。

 先ずは誰もが経験する雑用係だ。開店は11時だが8時に店に入り掃除をする。

 掃除といっても、年末の大掃除に近い。テーブル、椅子、床、窓ガラス、シャンデリアと、いつまでやっても終わらないくらいいっぱいある。


 それが終わったら厨房の掃除だ。厨房は衛生管理の面からも特に重要だ。ガスレンジ、フライヤー、シンクなどの大型機材が終わったら、鍋、釜、フライパンの類だ。

 その後にはスプーン、フォーク、ナイフなど、金属器をピカピカになるまで磨きあげる。


 9時には先輩コックがやって来る。それまでの1時間にこれだけの仕事を終わらせる。

コックが調理の下準備を始めると、野菜や肉などの食材運びだ。

「玉ねぎを持って来い!」と言われる前に用意しなければ「バカ野郎!」と怒号が飛ぶ。豚肉と牛肉を間違えようものなら、包丁が飛んでくるかも知れない。


 10時になると、シェフがやって来る。

 先輩コックはソースを作る。シェフが味見をして「バカ野郎となるか、よくできた」と、なるかで翔馬の運命が決まる。もしシェフが「バカ野郎」と言ったら、その後にはその何十倍もの勢いで「バカ野郎」と翔馬が叱られる。本当に厳しい世界だ。


 正午になった。今度はお客さんが入って来る。だが翔馬はお客さんを見ることは許されない。見るのは食べ終わった後の皿の山だ。これを一枚、一枚丁寧に洗う。


 5時になった。ここからが本当のレストランの時間となる。ソムリエが来る前に氷の準備をする。準備といっても割ったり削ったりは、翔馬には許されない。


 翔馬がするのは氷屋さんの車から、冷蔵庫に運ぶまでだ。だがエレベーターはお客さん専用だ。翔馬は重たい氷をぶら下げて、エッチラ、オッチラと、5階まで階段で昇る。息が切れて死ぬかも知れない。

 もし望洋亭が5階でなくて、10階だとしたら、望洋亭は亡霊亭と呼ばれるに違いない。本当に過酷な仕事だ。


 10時になった。お客さんが帰って、シェフも帰った。後片付けに一時間かけて、11時になって、ようやく翔馬の1日が終わった

 だがもう一つ仕事が待っている。翔馬にとってこれが一番むずかしい仕事だ。

 それは店主の風間悦子さんに英語を教わることだ。


 悦子さんは6時にやって来る。10時まではウエイターをして、11時までは帳簿をみて、翔馬と同じ11時に終わる。それから0時までの1時間が英語の時間だ。

 家に帰ってすぐ寝ても、5時間くらいしか寝られない。アイスホッケーで鍛えた翔馬もこれにはいささか参った。


 三か月経ったある日、悦子さんから「翔馬さん、あなたは運転免許を持っていますか、もし持ってるなら、主人が元気な時に乗っていた車がありますので、その車で私の送り迎えをして下さい。その車中で英会話の勉強をします」と言った。


 とすれば、悦子さんの家まで迎えに行くのに大体3時間くらいは、店を抜けられる。これは朗報だ。「持っています‼」と大きな声で答えた。


 翌週の定休日に凛々子と悦子さんの自宅に向かった。悦子さんの家は光陽町の雄鉄通リに面した一角にあった。光陽町にはライバルだった釧路江南高校があった。

 練習試合の時、コテンパンにやっつけて、意気揚々と引き上げたころを思い出した。

 こんな時には負けた試合のことは思い出さないものらしい。

 本当は勝ったり負けたり、いい勝負だったはずだけど。


 そんなことよりも今日は、悦子さんの車とご対面する日だ、どんな車なのか知りたくて、いろいろと聞いてみたけど悦子さんは「4人乗れる車よ」としか言わなかった。そんなのは普通だろ、説明になってないと思うけどな。


 悦子さんの家の前に着くと車は車庫の中にあるみたいで、大切にしてあったようだ。

 悦子さんから鍵を受けとって、車庫のシャッターを持ち上げると「ヒィエーッ‼」と声を上げそうになった。


 そこには「キャデラック ドゥビル」というどでかい車があった。

 幅は2メートル以上あった。翔馬と凛々子が来る前に整備して磨いていたそうで、青と白のツートンカラーのボデーはピカピカだった。

 製造されたのは1960年ということで、新しくはないけど、走行距離はたった1万キロしか走っていなかった。新車同然だ。


 早速凛々子と悦子さんを乗せて試運転をした。7リッターV8のエンジンは「シルルルルー」と静かに回っていた。内装は30年経った車なのに、本革シートの匂いが残っていた。

 江南高校の回りを一周して「どうだ、恰好いいだろ」と見せつけてやった。


 試運転が終わった後悦子さんは「翔馬さん、この車はあなたにお預けします。明日から5時に私を迎えに来て下さい。その後も0時まで、私と同じ仕事をしてもらいます」と言った。


 と言うことで、翔馬は雑用係を卒業して、支配人の勉強に入ることとなった。

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