第26話 平等な務所の世界
「河村さん、飯でも食いに行きませんか」と言って、甚弥と倫太郎は事務所を出た。
甚弥が案内してくれた所は、釧路駅から地下道を通って駅裏と呼ばれる地区の、鉄北センターという所であった。
鉄北センターは狭い路地の両側に長屋造りの木造の建物があって、間口2軒くらいの小さな店に分けられていた。二人はその中の「きみちゃん」という店に入った。
きみちゃんとは女将の名前だろうか、60歳くらいの女性が一人でやっていた。
二人がカウンターの席につくと、きみちゃんは「甚弥さん、昨日小林木工場の母さんが丸三鶴屋で見つけたと言って、これを持ってきたよ。あの母さんも歳だから自分では漬けなくなったんだね」と言って、大根と魚の漬物を出してくれた。
この漬物はぶつ切りにした大根と干した鱈を麹で漬けたもので、このあたりでは「切り漬け」と呼んでいた。夏場は痛みやすくて、主に11月から3月くらいまでの寒い時期だけの漬物である。丸三鶴屋のようなデパートだから夏でも売れるのだろう。
切り漬けを見た甚弥は「俺の家は貧乏で切り漬けさえ作れなかった。お袋が働いていた小林木工場の奥さんが『いっぱい作ったから持って行きなさい』と言って貰って来た時は、旨くてこれだけで麦飯を何杯も食った。その頃の俺は働けるようになったら、旨いものをいっぱいお袋に食させてやりたいと思っていた。たけど何もしてやれないうちにお袋は死んでしまった。一人になってしまった俺は、食うためなら何でもするようになった。あのままならきっと今ころは、務所の壁を眺めていただろうな」と遠い目をした。
倫太郎は甚弥の以外な一面を見たような気がした。この男は人間の心など、持ち合わせていないだろうと思っていたのに、実際は普通の人間なのだ。と思うと親しみが湧いて来た。
甚弥さん、本当のことを言いますと、私は甚弥さんが刑務所に入った理由を聞きたいと思っていました」と口から出てしまった。すると甚弥は、「俺はね、中学を出てすぐに、歳をごまかして、銀の目というキャバレーのボーイになったんだ。
そこには金持ちの息子たちがいっぱい来て、姉ちゃんたちを金で釣ってホテルに連れ込んで遊んでいた。5年経って俺が二十歳になったころ。中学時代の同級生がやってきて「お前に金をやるから、いい姉ちゃんを連れて来い」と言ったんで、俺はそいつをぶん殴ってしまった。次の日、俺は警察にしょっ引かれて裁判もクソもなく、刑務所に入れられた。実はそいつは衆院議員で大臣だった大物の息子で、警察も検察も俺の言うことなんか聞いてくれなかった。と、後になって理由が分かった。
ところが俺が刑務所に入って半年後、そいつが女を殺して俺と同じ務所の飯を食うことになった。その日から俺たちは世間の目から見れば、量刑の違いはあったとしても、務所暮らしという点では同じ身になった。
真面目に生きていた時は大臣の息子と、貧乏人の息子という大きな格差があったのに、犯罪者になってしまったら、人殺しも傷害罪も大きな差ではなくなって、ある意味で刑務所の中は平等だって思うようになった。出てきたらどっちも同じ前科者だ。それ以来俺は、務所にいるヤツも娑婆にいるヤツも違いなんかないと思うようになって、前科があることも気にならなくなった。だから俺はあんたに何を言われても平気だし、あんたも俺のことなんか気にすることはないよ」と言った。
そうだったのか、甚弥という人は、意外にも人の心を読めていたのかも知れない。あるいは逆に他人の心を考えるのは無意味なのかも知れない。どっちにしてもお互いにその方が生きやいのではないだろうか。
「甚弥さん、よく分かりました。私たちはこれからも上手くやっていけそうですね」と言うと「同じ人間どうしでも一つだけ、埋められない差はあるものです」と甚弥は言った。「埋められない差とは何のことですか」と聞いてみた。すると「それは年齢の差です。あんたは俺より10歳年上です。この差は絶対に変わりません。だからあんたも俺のことを、甚弥さんでなく、おいお前と呼ぶ方がいいと思います。
なるほど、付き合いの深い浅いより、人として目上の人を尊ぶのは自然だし、歳の差はあっても平等に付き合うとしたら、お互いに同じように呼び合うのが正しいと思えた。
「じゃあ今から、倫太郎、甚弥で行きましょうか」
「おう、分かった倫太郎、今日はお前が払えよ。きみちゃん、焼酎をもう一杯頼む。勘定はこいつが払うからジャンジャン出していいよ」となって、倫太郎と甚弥はへべれけになるまで焼酎を飲んだ。
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