第19話 何してるのよ!!
来てほしくない日というのはどうして無情にも来るのが早いのだろうか。待ち遠しい日ほど遠く感じるのに。なんともまあ理不尽なものだ。
電車にがたんごとんと揺られながら、俺は目的地までぼーっと窓の外を眺めている。
察しの良い
今日がポスターモデルの撮影日です。
はぁ……。
思わず心中で盛大な溜息を吐いてしまう。
やだなぁ。行きたくないなぁ……。
そう思っても、人との約束は守らなくちゃいけない。しかも金銭が絡んでいるのだからなおのことだ。
それに、俺が休んでしまうと多くの方々に多大なご迷惑をおかけしてしまう。特に、俺との約束を取り付けた榊さんに一番迷惑をかけてしまう。自分が嫌だからというだけで投げ出すには、今回の用事はあまりに大きすぎた。
深紅との約束なら、普通に破ってやるのに……。
深紅はたまに俺を変な所へ連れて行ったりする。お化け屋敷だったり、巨大迷路だったり、とにかく深紅が興味を覚えたものには必ず俺を連れていく。俺も楽しそうでついつい付いて行っちゃうんだけど、たいがいそこで痛い目を見るんだ。
お化け屋敷じゃ深紅が先に行っちゃって、一人で心細いタイミングで驚かされて腰が抜けて歩けなくなって、お化け役の人におんぶされて会場の外に連れて行ってもらったり。
巨大迷路じゃ深紅とはぐれて一人で迷子になって三時間もさ迷い歩いて、閉園時間になるまで出られなくて係りの人に外に連れ出してもらったり。
むぅ、よく考えると、深紅が連れていくわりに、深紅は俺の面倒を全く見ていない気がする。次があったらこのことをちゃんと抗議してやる。
……って、そんなことは今はいいか。
余計な方に思考を割いている場合ではない。これからポスターモデルの撮影なのだ。多分、メイクもされるし、胸パッドも入れられるだろう。そしてレディースの服を着ていろんなポーズを写真に収められるのだ。
「はぁ……」
思わず、ため息を吐いてしまう。
気が重い。自分に務まるのかもわからないし、それ以前に写真を撮られるのが苦手なのだ。
俺よりも、絶対花蓮とか桜ちゃんの方がいいって……。
そんなことを思ってしまうも、俺が引き受けたことなのだから、俺が最後まで責任を持ってやらなくてはいけない。
しかし、それでも気が重いのは確かなので、俺の心中はどんより曇っている。
なのに外は憎たらしいほどの快晴。夏が近づいてきているということもあって、外に出ればじんわりと汗をかくほどの温かさだ。
電車内は空調が効いていて過ごしやすいが、これから暑い外に出なくてはいけないと思うと、それも憂鬱である。
電車内は休日とは言えそれなりに人がいる。家族連れや休日出勤のサラリーマン。これから都心に向かうであろう若者に、椅子に座って船を漕いでいるおじいちゃん。
満員電車とまでは言わないけれど、それでも人が多い。人と人との距離が三十センチもないくらいには人がいる。少し息苦しいけれど、それでも外の暑さよりはましである。
けど、都内の満員電車はこれよりも凄いという。都内の人は大変だなぁ。
しみじみ、都内の人は大変だなぁと現実逃避をしていると、不意に俺のお尻に何かが当たる。
人が多いから、カバンでもあたってるんだろうな。
都内では少し手が触れただけでも痴漢だと騒がれてしまうらしい。怖い怖い。それに、痴漢をでっちあげてお金をもらう人もいるとか。本当に都会って怖い。
お尻にあたっている何かを放っておくと、電車ががたんと揺れると同時にその何かも動く。
やっぱりカバンか何かか。まぁ、そりゃあそうだよな。今の俺はどこからどう見ても芋くさいもっさりした男だもんな。
俺はこの間の体育の着替えの時のことを参考に、今日の格好にはかなり気を使っている。
いつもの、深紅のお姉さんからもらった服は着ないで、上下灰色のだぼっとしたジャージに、ショルダーバッグだけである。
どうだこのもっさり感! これで女の子だと間違う輩はいまい! ふっふっふっ! 俺だって、日々学んで成長するんですよ!
はははっと高笑いしそうになるのを何とかこらえる。こらえるのに必死でちょっと体がぷるぷるしてしまったが大丈夫だろうか? 変な目で見られてないだろうか?
そんなことを考えていると、俺は唐突にぐいっと体を引き寄せられる。そして、ぽふんとなにやら柔らかいものに顔が当たり、甘い匂いが鼻孔をくすぐる。
「何してんのよ! この痴漢!!」
「――ふぇ!?」
突然大声でそんなことを言われ、俺は慌ててしまう。
ちょ、ちょっと待って! これは不可抗力でありつまり俺の本意ではないというか事故であってバランスを崩しただけというか……!!
痴漢とはおそらく俺のことで、怒っているのは俺がぶつかってしまった女性だろう。
すぐさま謝らねばいけないのに俺はテンパってしまって言葉が口をついて出てこず、あうあうと意味不明な音を口からこぼすだけだ。
そんな俺を逃がさんとしているのか、俺の背中に手が回されぎゅっと強く拘束される。
「あんた、こんな
ご、ごめんなさい! わざとじゃないんです! バランスを崩しちゃっただけなんです! ……多分。
弁明したいけれど顔を強く押さえつけられているので口が開けない。
「あんた痴漢される人の気持ち考えたことあるの!? される方ってのは声も出ないほど怖いんだからね!?」
すみませんすみません! 痴漢がいけないことだっていうのは知ってます! でも俺もわざとじゃないんです!
そう思っても口が開けないんじゃ弁明の一つも出て来やしない。
「こんなに震えて……可哀想に。あなた、人として最低なことした自覚はあるの!?」
ああ、ごめんなさいぃ! 俺もわざとじゃないんですぅ……! せめて、せめて弁明をさせてくださいぃ……!
しかして、俺の拘束が解かれることは無く、更に強まる一方であった。
あぁ……俺の人生、終わった……。
なんにも弁明ができないこの状況では、俺が痴漢でないと証明する術はない。
俺は人生の終わりを嘆く。
父さん、母さん、花蓮。ごめんよ。俺、ここまでみたいだ。
せめて減刑くらいはしてもらえるように潔くいよう。そんな達観すら見せ始めたその時、女性の相手を心の底から軽蔑する声が発せられた。
「最低ね!! おじさん、大人って自覚あるの!?」
ごめんなさいぃ……おじさんが悪い…………ん、おじさん?
ここにきてようやく俺は自分が何か思い違いをしている可能性に気付く。
「わ、わたしは何もやってない! ち、痴漢だなんて……名誉棄損で訴えるぞ!」
俺の後ろから、年のいった男性の狼狽した声が聞こえてくる。
ん? まさか、痴漢って俺のことじゃない?
「上等じゃない! あなたその手洗うんじゃないわよ! この子のお尻を素手で触ってるの見たんだから! この子の服の繊維がその手に付着してたら、それだけであんたの負けよ!」
訴えると言われたのに、それでも強気で食って掛かる女性。
「ぐっ……!」
その言葉を聞いた男性がうめき声をあげる。
と、ちょうどその時、電車が駅に着いた。ぷしゅうっという空気の抜ける音が聞こえ、がたんと電車の扉が開かれた。
「あっ、待ちなさい!!」
焦ったような女性の声が聞こえる。
しかし、その数秒後「ぐあっ」と男が苦悶の声を上げた。
「おら逃げるな!」
「逃げるってことは、痴漢したって認めるんだな?」
今まで聞こえてこなかった男性の声が聞こえる。それで、痴漢をした男性が他の乗客の人に取り押さえられたのだとわかった。
俺の上からほっと安堵の息を吐いたのが分かった。
そして俺の拘束が解かれ、やっと俺は周囲の状況を確認することができた。
「大丈夫? 怖かったでしょ」
そう言って、俺の肩を手を置いて俺の顔を優しくのぞき込んでくる女性。その女性は綺麗なブロンドの髪を持っており、サングラスと帽子で顔は分からないけれど、とても美人であることが容易に想像できた。服も、見た感じおしゃれだし、なによりオーラが違う。あれだ、深紅と似たようなオーラだ。
「怖かったわね、もう大丈夫よ?」
「あんなに震えて、可哀想に……」
「親御さんには連絡できる? 親御さんがいなくても、誰か頼れる人はいる?」
目の前の彼女に気を取られて気付かなかったが、俺の周りには年齢はバラバラだけれど、女性が集まっており、皆心配そうな顔で口々に俺に声をかけてきた。
しかして、今の俺にとって相手の容姿や俺を取り囲む女性たちなどどうでも良い。今俺にとって重要なのはただ一つ。
「あの、俺って痴漢されたんですか?」
「え、気付いてなかったの? 思いっきりお尻触られてたのよ?」
「えっと、何かあたってるなぁって思いましたけど……まさか痴漢されてるだなんて思いませんでした……」
俺がそういうと、彼女は少しだけ真剣で、怒ったような顔つきになる。
「悪いこと言わないから電車でお尻とかに何か触れたら、すぐに確認しなさい。あなた、女の子なんだから、少しは危機感覚えないと。良い? 痴漢っていうのはね、おとなしそうな子を標的にするの。そういう格好も止めて、もっとちゃんとおしゃれもして――」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
話が長くなりそうだったので、俺は少しだけ大きな声を出して彼女の言葉をさえぎる。
「ん、どうしたの?」
急に話をさえぎった俺に、彼女はおろか、他の人も俺に視線を向けてくる。
俺に注目が集まって非常に気まずいが、勘違いは早めに訂正しておきたい。本当は聞き間違いだと思いたいけれど、彼女の言葉でそれは無いということはもう十分理解している。
俺は、少しだけ勇気を振り絞って口を開く。
「あ、あの、一つ勘違いを訂正したいのですが……」
「勘違い?」
俺の言葉に彼女だけではなく、他の人も首をひねる。
「ああ、あの痴漢の人って知り合い? もしかしてそういうプレイだったの? それなら感心しないわね。相手に誤解を生むし、こういう騒ぎにもなるんだから」
怒ったような声音で言う彼女に、俺は慌てて訂正をする。
「ち、違います! そういうプレイってなんですか! 違いますよ! あの人とは今日が初対面です!」
「じゃあ、何が勘違いだっていうのよ?」
心底わからないといった表情で問いかけてくる彼女に、俺は非常に言いづらいけれど、何とか言葉に出した。
「あの、俺男なんで。別に、おじさんにお尻触られたくらいで、騒ぐつもりもないっていうか……」
「………………え、ごめん、今なんて?」
一瞬、彼女だけではなく、周囲の時間が止まったかのようにぴたりと皆が一斉に硬直した。けれど、彼女だけはその硬直からすぐに解かれると、俺に対してもう一度言ってほしいといった。
「あの、だから……俺、男なんで……」
気まずくて、言葉の途中で目をそらしてしまう。
「……誰が、なんて?」
「俺が」
「あなたが?」
「男なのです」
「男なのね? …………ごめんなさい、もう一度言ってくれるかしら」
まるで頭痛をこらえるように頭を片手で抑えながら、俺にもう一度言えと言ってくる彼女。
俺は少し恥ずかしかったけれど、大きな声で言った。
「あの、俺、男なんです!!」
「そんなわけないでしょう!!」
俺の精一杯の叫びは、彼女の綺麗な
とりあえずいつまでも車両内にとどまってもいられないし、俺もちょうど降りる駅だったので電車から降りた。その際、乗客全員に驚愕に見開かれた目で見送られた。結構怖かった。
しかし、俺が男だからと言え、おじさんが痴漢をしたことには変わりない。おじさんを抑えた青年二人とブロンドの彼女も一緒に同じ駅で降りた。
駅員さんや警察の方と一緒に話した結果、俺は今回訴えるつもりは毛頭ないので、今回だけ不問に処すことになった。
本当は世の女性のためにもこの人は捕まった方がいいのだけれど、痴漢をした相手が男であったのがなんだか不憫であったので俺は訴えたりはしなかった。
まあ、それに、榊さんとの約束の時間が迫っているからというのも理由の一つだ。俺の事情で撮影を遅らせる、もしくは中止にするわけにはいかないのだ。
そう考えると、今日は早めに家を出ておいてよかった。現場には時間ぎりぎりだけど、それでも遅刻ではない。それに、ちゃんと話せば榊さんもわかってくれるだろう。
とはいえ、あまりゆっくりもしていられない。
俺はおじさんを捕まえてくれた二人の青年に後日改めてお礼をしたいと思い連絡先を交換したのだが、なんと二人とも同じ高校の生徒だったのだ。なので、お礼の品は学校で渡すことに。二人とも後輩だったから、一学年下の階に行くのは気恥ずかしいけれど、二人の勇気にはちゃんと感謝を示したい。
ともあれ、二人にはちゃんと後日お礼をしに行くと伝えると、俺は少し速足で駅を後にした―ー――のだが、なぜかブロンドの彼女が付いてくる。
彼女の顔を見て思わず小首をかしげてしまう。行き先が同じなのだろうか?
そんな俺の疑問に気付いたのか、彼女はふっと綺麗に微笑みながら言う。
「あんたが男でも、一応痴漢された後だしね。今日はオフだから、あんたの目的地まで一緒に行ってあげるわ」
「え、別に大丈夫ですよ? それほど遠いというわけでもないですし」
「良いのよ。アタシが好きでやってることなんだから。あんたは気にしなくて良いの。わかった?」
「は、はぁ……」
「気の無い返事ね。あんた、アタシが誰だかわかったらそんな返事できないわよ?」
自信満々にそう言う彼女に俺は訳が分からず小首をかしげてしまう。
そんな俺の反応が面白かったのか、彼女はくすくすと笑みをこぼす。
「ほら、そんなことよりも行きましょう」
「あ、うん」
少しだけ上機嫌な彼女を伴い、俺は待ち合わせの場所に向かった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます