第1話 曇天の世界・壺中の天②

 ごめんなさい、と遠くから聞こえた。

 

 微かな音しか聞こえないため、そんな気がする、という方が近いが、意識が無い状態でも確かに直人の耳には、それらしい言葉が届いた。


「……た…、…の…!」

「…、…け……ない……」


 その後、2種類の女性の声が聞こえる。

 高く、矢継ぎ早に言葉を吐く声と。

 低く、淡々とものを告げる声。

 言い争うようなやり取りをしているらしい、それらのやり取りの内容は分からない。


「…い!なに……る、……!」

「………ないで!」


 …しばらく、やり取りは続いたのちに、直人は瞼に光を感じ取り、


「……て、…なんて……許さないから、ローゼ!」


 その言葉が、全て感覚をシャットアウトされる直前の直人が聞いた、最後の言葉だった。






 ***





 キーーーンコーーーンカーーーンコーーーン…


 キーーーンコーーーーンカーーーンコーーーーン…



 8時。

 朝の予鈴が鳴り響き、澤杜高校の各クラスではHRが始まらんとする時刻だ。

 それは直人と冬璃の属する1年3組も同様なのだが――担任教諭が出席をとるあいだ、冬璃の友人である花橋彩はなばし あやは自分の前の座席に座る友人・高村千佳子たかむら ちかこと囁き声で話し合っていた。

「ねえ。フユいなくない?」

「…本当だ。何か聞いてる?CALLIN'とかで」

「いやなんも。そっちは?」

 千佳子は首を振る。

 彩達にとって、冬璃が遅刻したり欠席したりすることはまぁまぁ珍しい事態だった。先ほどしまったばかりのスマホには、冬璃からのメッセージは何も入っておらず、シンとしている。

 「なんだ、原川と光井がいないのか」と担任教諭が声をあげたことでクラスの全員が2名の不在に気づく。僅かにざわつき始めたのを、静かに、と担任教諭がたしなめた。


「光井はわかるけど…」

「ね」


 光井直人の普段の素行を知る者は、直人が出席していないことにこれと言って疑問を持っていない。少なくとも、この教室内にはいない。担任教諭も正直、直人に関しては「またか」といった反応で、出席簿に「欠席」と記入する動作は手慣れたものだった。


「あとで連絡があれば良いけど」

「それ」


 などと言いながら、彩と千佳子は談笑を一旦区切り、前を向いて座り直す。

 担任教諭が気を取り直し、今日の連絡事項について話し始めるのを、彩と千佳子はとりあえず聞くことにした。大事な連絡事項があれば、冬璃に後で伝えなければならないと考えて。


「では、起立――――」


 そうして澤杜高校の朝は、いつも通りはじまる。

 



 ***




 大きな音で、直人は目を覚ました。

 目を開けたまま、しばらく直人は呆然として天井を見つめる。先ほどと違い、どうやら屋内にいるらしい。見覚えがある場所だ。

 …否、見覚えがあるどころか、殆ど毎日見て通る場所だ。直人が今倒れているのは、澤杜高校の北門入り口から入る、下足ロッカーのある廊下だった。

 先ほどのけたたましい音は、朝礼を告げるチャイムだ。

 いつの間に、こんな場所に来ていたのか。

 直人にはまったく覚えがない。


「……学校……なんで、…うぐ、っ!」


 声を出すと、直人はせり上がる吐き気ともつかない感覚に、思わず胸を押さえて呻く。

 痛みがじんわりと胸部に広がる感覚に、直人は、自分の記憶にある今までの一連の出来事が夢ではないことを実感した。


「……ッぅ゛…なんで俺は…無事なんだ…?」


 夢ではないのなら、刺されたのも間違いない。であれば自分は重傷のはず、と直人は混乱した。

 痛みに胸を押さえていた手を、ゆるゆると持ち上げて見てみると、直人の手のひらに血は一切、付着していなかった。

「…どういうことだ…?」

 どうにか上体を、肘をつくように起こし直人は刺された筈の自身の胸部を確認した。

「…!?」

 溢れ出ていた血は見事に止まっている。

 制服に血痕が付着しているものの、残っているのはそれぐらいで、服をかき分けて刺された筈の箇所を見てみるも、そこには傷跡一つ残っていなかった。

「な……、!!」

 何故、どうして、と声を上げて動揺する前に、視界にある人物が写ったことで直人はそれどころではなくなった。


「原川っ!」


 直人の傍には、冬璃が倒れていた。

 さっきの砂の世界での出来事がデジャヴのようにフラッシュバックして一瞬躊躇しかけるが、冬璃の顔色を見て、直人は冬璃に近づき声をかける。


「おい、おい、原川!しっかりしろ!」

「ぅ………ぁ……」


 冬璃の顔色は真っ青だ。先ほども倒れている彼女を見たが、その時とは比べものにならないほど顔色が悪い。直人の呼びかけに、冬璃は僅かにうめき声を上げるが目を覚ます様子はない。この短時間で、彼女に何があったのか。


「なんなんだよ、さっきから…!何が起こってんだ…?」


 色んな出来事が連続で起き、直人は頭をガシガシと乱雑にかく。

 冬璃の飛び降り、謎の景色と世界、そして、自分の悪夢に出てきたであろう金髪の女。

 答えも何も見つかっていない不可解な事象の連続に、直人の内に苛立ちが少しずつ確実に溜まっていった。

「ああ、クソ……」

 ――そしてしばらくして、それらは『考えても今、答えを出すことはできない』ということに直人は思い至る。

 ふーー…と深く息を吐き、こうしていても仕方ないと無理矢理気持ちを切り替えて、直人は辺りを見回した。下足ロッカーの周囲には、まだ人の気配はないようだ。


「とにかく、ここから…移動するか…」


 体の怠さは払拭されていない。だが、このままでいたら教師や用務員にでも見つかって大事にされかねない、と判断した直人は、気だるい体に鞭をうって、移動しようと動いた。

 まだ目を覚ましそうにない冬璃の片腕を自分の肩に回そうとし―――直人は、冬璃の手が汚れていることに気がついた。

 乾き始めているが、間違いなく血の汚れだ。


「……もしかして、お前が…?」


 直人は、自分の刺された胸部に目を落とす。

 傷跡のない肌、血痕だけが残った服。

 冬璃が自分の傷を治したのか?と直人は冬璃の手を見つめる。


 …そういえば、意識を失う前に、誰かが誰かと言い争う声を聞いたような気がする。


「…!くそ、後で考えるか…!」


 廊下の先から足音が聞こえ、直人はその場をあとにすることを先決した。

 とりあえず、目覚めていない冬璃を寝かせるためにも保健室をめざそう、と直人は冬璃を肩を貸しながら移動し始めた。



 ***



 ガラガラガラ、と保健室のドアを開ける音が静かな廊下に響く。

 先ほど目覚める際に聞こえたチャイムから察するに、もうとっくに授業が始まっているのだろう。直人は廊下で誰にも遭遇することなく、保健室に辿り着くことができた。


「よし…誰もいねえ」


 養護教諭や保健室登校のの姿がないのを良いことに、直人は躊躇なく保健室のベッドカーテンを開け放ち、連れてきた冬璃をベッドの上に寝かせる。そして保健室を物色し、ウェットティッシュを見つけ出すと、冬璃の手についた血を拭き取っていった。   

 血が誰かに気づかれれば、余計なことを聞かれかねない。このままにしていては良いことはないだろうという判断だった。

 ひとまずやれることはやった、と直人が息を吐くと、身体の気怠さを改めて実感してしまい、直人はベッドの端に思わず手をついた。

「……っ…あーー…俺も、寝るか…」

 とれていない身体の怠さは、無理矢理動いたことで、悪化しているようだった。

 身体の疲れに従って、直人も別のベッドに倒れ込もうとする。


 ……が、そうしようとした瞬間に、保健室の扉が音を立てて開かれ、養護教諭が入ってきた。


「……あら、何で開いて…。…!」

「……チッ」


 直人は思わず舌打ちした。誰もいないから、ゆっくり休もうと思っていたのに、これでは寝るどころではない。質問責めはごめんだ、と直人はどうにか立ち上がり、黙って保健室を出て行こうとする。


「ちょっと待ちなさい、光井君あなた、勝手に入ってなにを――」

「用があったから来た。文句あんのか?不用心に開いてた方が悪ィだろ」

「…、…何があったの、酷い顔色よ。とりあえず座って、ベッドに横になってもいいから……」


 直人は養護教諭の言葉を無視して、保健室からずかずかと出て行く。

 後ろから待ちなさい、と養護教諭が直人を呼ぶ声がしたが、直人は振り返ることも返事をすることもしない。反応することが最早億劫で仕方がなかった。

 とにかく誰もいない場所で、今は一人になりたい。

 そう言わんばかりに、直人は廊下の先へと歩いていった。



 ***



 澤杜高校中庭。

 そこに幾つか設置されているベンチで、直人は身体を休めていた。

 中央部にあるサークルベンチの他、並んでいる木製ベンチは木々や建物の影がかかって昼寝や昼食にちょうど良く、直人もサボりの場として気に入っている。


 1限目の開始を告げるチャイムを聞きながら、直人は日光が当たらない位置のベンチに横になっていた。

 体調がだいたい回復するまでになると起き上がり、ベンチに座って空を眺めながら、整理したい出来事に関して、改めて考え込む。


(……一体、どう関係してやがるんだか、さっぱりわからねえ)


 まず原川冬璃と、自分を刺した女。

 女は、直人の悪夢に出てきた人物で間違いないだろう。夢の内容と、砂塵の世界での出来事を思い返し、直人は一旦そう仮定する。

 問題は何故、冬璃を追っていた筈なのに女が出てきたのかという点だったが、それについては直人は考えても仕方ないとし、保留にした。


(わからねえのは、あの世界に関してもだ)


 崩れ去った街と砂塵と曇天が覆う世界。

 あそこにあった砂の感触も空気の乾きも全て本物のそれであったが、その情報しか得ていない直人にしてみれば、『あの世界は幻覚の類ではない、確かにそこに実在するものである』ということしか分からない。


(やっぱり原川に、聞いてみるか)


 疑問を解消する糸口は彼女しかいない。直人はこのあと保健室に寄るかと考え――さっきの今で戻るのは癪だなと思い、教室を見てみるかと結論付けた。

 冬璃とはクラスメイトなのだから、体調が回復したかどうかだけでも確認するのは容易いだろうし、彼女に余裕があれば、話を振れそうなタイミングを見計らい呼び出す、という形になるだろうかと直人は考える。

 正直なところ、聞くタイミングを引き伸ばすメリットもないので、可能なら今日中に話を聞いておきたいというのが直人の所感だった。


 (『話がある』…で、いいよな?…急に声かけんのもアレか……『見ちまったんだけど、なんであんなとこいたんだ』…なんかやましい言い方だな……他に聞き方……つっても思い浮かばねえし……いや、にしても切り出し方もうちょっと考えた方がいい……)


 直人は悶々と、冬璃との会話の切り出し方を考え込む。

 だんだん直人の中では、一連の不可思議な出来事に対する疑問の解消よりも、冬璃との会話の切り出し方や質問の順といった方向に比重が傾いてきていた。

 …というのも、直人がそうなる理由は至極単純なもので。

 数少ない、顔を知っている人間であり、普通に会話をのぞめる同級生に、距離を置かれたくないからであった。


 そんな直人を無視するように、時計の針は進み続ける。

 もうじき、1限目の授業終了を告げるチャイムが鳴り響こうとしていた。



 ***



「とりあえず、何もなくて良かったよ。いや、倒れたんだから、何もなくはないけど」

「貧血だっけ。気分悪くなったら、また言いなね」

「うん。もう大丈夫、ありがと」

 

 千佳子と彩の言葉に、冬璃は微笑みながら応える。

 冬璃が目覚めて、養護教諭との話を終えてから教室に戻る頃には、ちょうど1限目が終了する時間になっていた。

 次の授業が始まるまでの休み時間、冬璃は心配させてしまっただろう友人達に事情を説明すると、二人は「そういうことか」と安心したように笑って冬璃の言葉を受け入れる。

 …養護教諭に対しての時と同様に、事情を「貧血による体調不良」と偽って伝えたのだが、真実を伝える訳にもいかない冬璃は、後ろめたさを感じ取られないよう努めて平静を装った。


「ねえ、ところで、光井君って…来てない?」


 冬璃は教室を見渡し、そう問うた。するとそれを聞いた彩と千佳子は、一瞬目を合わせ、「…やっぱ光井となんかあったの?」と逆に冬璃に聞き返す。


「えっううん、私が倒れた時、近くにいたのが光井君だったから…運んでくれたの、多分、光井君だと思って…」

「光井が?フユを?…マジ?」


 冬璃の言葉を聞いて、友人2人は「アイツが…?」と半信半疑の様子だったが、冬璃を疑っているわけではないようで、反論をする様子はない。

「…あっ!」

 そんなやり取りをしていると、教室のドアが開き、直人が教室へと入ってくる。

 冬璃はそれを見つけると、良いところにと言わんばかりに、机の合間を縫って直人へ近づいた。


「あっ、あの、光井君」

「ちょっと待て」

「えっ?」


 話しかけようとした冬璃を、しかし直人は彼女に対して静止をかけた。

 居心地悪そうに、直人の目線が一瞬で教室内を一周するように巡る。

 教室内の人間の視線が、直人と冬璃に向けられていた。皆、不在だった2人が話す場面を好奇心からか、邪推からか、ちらちらと見つめている。

 周囲の視線を鬱陶しく感じ、思わず直人は眉間の皺を深くする。

 こういった状況を回避するためにもタイミングやら話の切り出し方だのを考えていた直人なのだが、まさか教室に入った途端、冬璃から声をかけてくるとは想定していなかった。既に冬璃に掛けようと思っていた言葉は全て直人の頭の中から飛んでいってしまっていた。

 冬璃の方はというと、そんな直人の胸中などいざ知らず、どうしたのだろうかと言わんばかりに直人を上げている。


「場所変えるぞ」


 直人は短くそれだけ言うと、背を向けて教室を出た。場所を変えると言ってもどこに向かうのか分からなかった冬璃は、彩と千佳子に断りだけいれて、急いで直人の後を追った。


 冬璃が教室の外へ出ると、直人は立ち止まって冬璃を待っていた。

 追いついた冬璃に、直人は指で上を指す仕草をする。

「屋上行こうぜ」

 冬璃は何も言わず、小さく頷いた。



 ***



「運んでくれてありがとう。あと―――本当にごめんなさい、光井君。身体は、大丈夫?」


 誰もいない澤杜高校の屋上に辿り着くと、冬璃は開口一番そう言った。

 冬璃も直人も、同じことを話そうとしていたのは間違いではなかったようだ。


「やっぱ、お前が治したんだな。俺の怪我」

「……ごめんなさい、わたし、これで罪滅ぼしだなんて、思ってないけど、でも、やらないとって」

「おい、」

「突然ごめんなさい、助けてくれようとしたのに、あの時、飛び降りた私を、なのに」

「おい原川、」

でも、わたしを探して…それで…わたし、本当に、………なんてこと」


 教室でこそ普段通りの振る舞いをしていた冬璃だったが、直人と二人きりになり本題に入るとどんどん冷静さを失い始め、早口でまくし立てる。

 まるで『自分が直人を傷つけた当事者である』とでも言わんばかりの冬璃の語り口に、直人は怪訝な顔をした。 

 しばらくその状態が続くと思われたが、冬璃は小さく「あやまるのも間違ってるよね」と呟くと、それきり俯いて顔を上げなくなった。

 そんな冬璃の様子を、口を挟むことが出来ずに黙って見ていた直人だったが―――少し考える素振りを見せた後、口を開く。


「…事情は詳しく聞きてえとこだけど……いや、その前に、ありがとうな。原川」


 直人の言葉に、冬璃がぴくりと反応する。

 直人は意識を失う前のことを思い返していた。

 女性二人の言い争う声。

 やはり、あの声の主の片方は冬璃で、もう片方は件の金髪の女―――ローゼ、と呼ばれていたような気がする――その女のものだろうと直人は分かった。

 その言い争いの理由は、おそらく、直人自身であるということも。

 刺した女……ローゼの行動を見咎めた冬璃が、彼女と言い争いになり、そして彼女を振り切って、冬璃は自分を治療した。

 直人は、あの状況にそう推測を立てた。

 金髪の女・ローゼと、冬璃がどういった関係なのかは直人にはまだ見当がつかない。冬璃の言葉にも引っかかる点はある。

 だが、どんな関係があったとしても、冬璃から治療したことを裏付ける言葉を聞けた時点で、直人から冬璃へ言うべき言葉は決まっていた。

 


「お前のおかげで死なずにすんだ。綺麗さっぱり傷痕もねえし……すげえな、お前」



 ぶっきらぼうな言い草になったが、直人は直人なりに感謝を冬璃に伝えた。

 実際、冬璃がいなければ、直人はこの世から消えてしまってもおかしくなかったのだ。

 冬璃の処置があと少し遅ければ、直人は間違いなく命を落としていただろう。

 死なずにすんだ、と口に出したことで、直人は今になって自分の命が一度、瀬戸際まで追い詰められたことを改めて実感し、心臓の辺りが冷たくなるような感覚を覚える。



「デケェ借りができちまったな。原川は、俺の命の恩人だよ」



 …一概に、『恐怖』と呼ばれるそれに見て見ぬ振りをして、ぎこちなくだが、直人は冬璃へ「自分は問題ない」と示すように、口端を上げてみせた。

 笑っていると相手に伝われば良いが、と直人は懸念を抱いたが、直人の言葉を聞いた冬璃は静かに顔を上げ、…彼女も、控えめにだが笑ってみせたことで、直人の懸念は杞憂になった。


「…話戻すけど、さっきまでのこと…詳しく聞いていいか?」


 落ち着きを取り戻した様子の冬璃に、直人は本題の質問を投げかける。


「あの世界は、一体何なんだ?お前が、……飛び降りた途端、急にあんなふうに変わった」

「……あの世界は、この世界の…の世界、なんだって」

「…………一枚向こう?」

「ピンと来ないよね。急に言われても…でも、本当に、私たちのいるこの世界の、ベール一枚めくった『向こう側』には、そういう、別世界が在るんだって…」

「…それを言ったのは、もしかして…アイツか?」


 直人は、自分を刺した、自分の悪夢に出てくる金髪の女を脳裏に浮かべて聞いた。

 冬璃はそれに対して、控えめに頷く。


「アイツとお前の関係は、なんなんだ?急に出てきて……アイツと、なんつーか、言い合ってたよな」


 直人の言葉を聞いて、冬璃の顔色が再び陰る。

 慌てて別の言葉を言おうした直人だったが、しかしそれを制して、冬璃は先ほどより落ち着いた様子で、静かに直人の問いに答えていく。


「……彼女……ローゼは、…………小さい頃から、ずっと一緒にいるの」

「……今もいるのか?」

「ううん。……あの世界じゃないと、出てこない」

「はあ…あの世界の住人とかか?」

「………………………違う」


 冬璃は、唇を震わせて静かに告げた。

「ローゼがいるのは……わたしの、中」


 「……それは二重人格、みたいな…ってことか?」と直人はどうにかついていこうとする頭で言葉を絞り出す。

 「ちょっと違うかな」と冬璃は首を振り、「誰にも見えないし、分からないけど…私の隣にいて、たまに私に話しかけてくる感じ……かな。向こうの世界に入ると、私とローゼの立ち位置が入れ替わるの」と説明した。

「……なるほどな…」

 冬璃の説明に対して、直人は事情を理解しようと情報を咀嚼する。

 直人の頭の中の冷静な部分が、『だから先ほど冬璃は自分が刺したような言い方をしたんだな』と勝手に腑に落ちていた。


「アイツ…ローゼ、だっけか。…何か、俺に対して凄え殺意向けてきたんだけど、何でか分かるか?」

「それが……ごめんなさい。わからないの。問い質したんだけど、よく分からないことばかり言ってて……『このままではいけない』とか…」


 なんだそりゃあ、と直人が首を傾げた。

 その時だった。

「……?」

 音が聞こえた。



 【ジジッ

 ジジジジッ】



 羽音のような音だ。



「…光井君!走って!!」

「え?は!?」

 突然冬璃が声を上げる。「向こうに走って!」と冬璃は、向かい側にある校舎の屋上を指しながら直人に向かって叫び、その方向へと走り始めたため、直人は突然の冬璃の行動に戸惑いながらも従うことにした。

 どうやら冬璃にも、羽音のような音が聞こえているようだった。羽音から離れるように冬璃は移動している。


「こっちにいって、そしたら…」

「原川、ちょっと待て!この音なんなんだ!?」

「すぐそこまで来てるの!一旦離れないと…!」

「何が来てるってっ?」


 冬璃は迷うように一瞬口ごもったあと「残骸デブリが」と答えた。

 デブリ?と続けて聞こうとした直人の言葉は、先ほどよりも大きく騒ぎ立てる羽音によってかき消された。


【ジジジジジジジジジジジジジジジジジッ!】


「うわっ!」

「光井君っ!」

 

 自分の身体の真後ろからが凄まじいスピードで通り抜けたのを感じ、直人は冷や汗をかく。咄嗟に頭を庇うように腕でガードする直人の前に、冬璃が直人を庇うよう両手を広げてと直人の間に立ち塞がった。


「原川、何して…!」

 ばちぃっ!ばちっばちっ!

「……!?」


 が先ほどと同じくらいのスピードで直人と冬璃に向かって突っこんでくる。――――すると、両手を広げて立つ冬璃の周囲から、『何かをはじく』ような音がしたかと思うと【ジジ、ギギ】とノイズの走った羽音が聞こえてきた。

「……今のうちに!」

 羽音が僅かに小さくなったのを見計らい、その隙に冬璃は固く瞑っていた目を開いて、直人を連れて場所を移動するため再び走り出した。

 

「今のは…」

「私の能力。能力って言っても、ちょっとしか使えないんだけど…光井君、あれ、見えてないよねっ?」

「あ、あぁ」


 何が何だか分からないままに、それでも必死に冬璃についていく直人。冬璃は、直人を連れ屋上の入口にたどり着くと、入口の扉の中へ押し込むように直人の背を押した。

 そのまま冬璃は続ける。


「分かった。じゃあ、私がひきつけるから、光井君はその間に」

「ちょっと待てお前、何やろうとしてる?」

「私が引き付けて、そして、向こうの世界に入る。そしたら、ローゼが全部倒すから…!」


 冬璃の言葉に何か返そうとした直人を、しかし冬璃は続く言葉で遮った。


「だから、光井君は来ないで!また殺されちゃう!」

「……っ」


 悲痛な表情でそう叫ぶ冬璃に、直人は何も反論できない。

 実際、冬璃の言う通りだった。再びあの砂塵の世界――冬璃曰く「向こうの世界」に行けたとしても、冬璃についていこうとするなら、確実に向こう側でのみ現れるというローゼに鉢合わせることになる。

 冬璃のおかげで直人の身体の傷は跡形もなく消え去ったが、ローゼが直人を殺そうとしていた事実は消えない。

 ローゼの瞳にあった殺意は、まごう事なき本物のそれだった。次に直人とローゼが出会うことがあれば、今度こそ本当に殺されるだろう。

 だから今、直人には「冬璃を見送る」以外の選択肢は存在しない。

 眉根を寄せて黙ってしまった直人に、冬璃は「あのね、光井君」と微笑みながら話しかける。


「ビルの上にいたとき、誰か来てくれると思わなかった」


 ありがとう、と冬璃は小さく笑って言った。

 それだけ言うと、冬璃は屋上の入り口から離れ、屋上を囲うフェンスへと向かっていった。冬璃を追うように、羽音が続いて飛び去って行く。

 それほど高さのないフェンスに迷わず手をかけ、屋上の淵へと降り立とうとする冬璃を見て、直人は、また飛び降りる気なのだと理解した。あの時、冬璃がビルから飛び降りたのは、今のこの状況のように『見えない何か』に追われていたからだったのだろうか。

 合点はいったが、しかし一日に二度も、級友が飛び降りる姿を見なくてはならないなんて嫌なものだった。

「原川…」

 直人が屋上の扉に手をかけたまま静止していると、風を切る羽音が、直人の耳に届く。嫌な予感がし、直人は咄嗟に扉から離れた。

 ―――ズガァン!

「ぅおっ…!?」 

 前のめりに地面に転がると同時に、屋上入口の扉に轟音を立てて『何か』が激突した。

 僅かに凹んだ扉のあたりから、ジジジビヂヂヂ、とくぐもった羽音が未だ鳴っている。


「こっちを狙ってんのか…!?」


 直人は、ぱっと目線をあげて冬璃の姿を探したが、彼女はもう屋上から飛び降りてしまった後のようで、その姿はどこにも見当たらない。先ほどまで聞こえた大きい羽音も一切聞こえないところを見ると、彼女の後を追い『向こうの世界』へいったのだろう。

 ならば今襲い掛かってきたものは。

 

「別のやつかよ…!何匹いんだ!?」


 直人はすぐさま起き上がり、屋上を蛇行するように走る。背後でジジジジッと再び羽音が鳴り、直人を追跡する。ガシャン!ドカン!と屋上のフェンスやベンチに激突する音が、直人に追いすがるように響いた。

「くそ、一か八か!」

 端まで追い詰められた直人は、屋上のフェンスを掴んでよじ登った。

 冬璃に倣うように、ここから飛び降りれば、『向こうの世界』に行けるかもしれない。……それが叶わなければ、ただでは済まないが、即死するようなことにはならないだろうと算段をつけ、腹をくくる。


(即死はしねえから、問題ないってわけじゃねえのにな。……死にかけて、なんか、その辺り馬鹿になっちまったのかもな、俺)


 普段の自分では考えられないほど安易で楽観的な思考に、直人の口端が自嘲と呆れで歪んだ。


 (で、もし『向こう』に行けたとしても、ローゼアイツが待ち構えている可能性がある。…けどまぁ『あれ』に直撃しても、ただじゃ済まねえのは確かだ)

 

  止まっても脅威が襲い掛かり、進んでも脅威が待っている。ならどうせなら進んでやると、立て続けに起こる出来事にヤケになったのか、吹っ切れてしまったのか、直人はフェンスの向こう側を目指した。

 直人の内面とは裏腹に、『死』に向かう行為に対する萎縮が、直人の身体を固くさせる。それを振り切るように、直人は力任せにフェンスを乗り越えた。屋上の縁に立つと、フェンスを隔てたすぐ真横に、ガシャァ!と勢い良く『何か』が激突した音がする。

 直人は背後からの脅威を横目で見ながら、フェンスに背を預けた。

 ジジジジジジッと旋回する羽音。そして、質量あるものが風を切る音を聞き届けると、直人はぐっとフェンスに背を押し付けてから、一気に起き上がった。その勢いに従い、屋上の縁から跳び上がるように、両足を離す。

 宙に跳び上がれたのは一瞬。次の瞬間には、無慈悲な重力が、直人の身体を地面へと吸い込んだ。





「……………ぁああああぁぁぁあああ…!!」


 飛び降りた直人の視界に広がったのは、学校敷地内のアスファルトではなく、なんとも言い難い、未知の、得体のしれない空間だった。

 灰色と闇がマーブル模様に入り混じったそれが目の間に広がることか、そんな空間に放り出され自由落下し続けていることからか、直人の喉から、何年ぶりかの叫び声が自然とあがる。

 視界がはっきりしない灰色と闇に侵され、落ちていながらも耳に届く、なにかもわからない何種類もの音に、聴覚が襲われる。

 いつまで続くのか、と急速落下でかかるGにより酸欠になりかけている直人は意識を持っていかれかけるが、突然ぷっつりとその時間は途絶え、直人をまた別の景色へと放りだした。

「……ッ!!」

 直人が、つい今朝に見た景色。

 差異があるのは建築物くらいで、崩れ去った校舎や風化し尽くした道路が見て取れるそこは、変わらず砂塵に見舞われていた。

「ぁ…ッ!?」

 上空から砂塵舞う世界に無事たどり着いた直人は、積み重なる砂の山へとダイブする。砂山に着地してもなお勢いを殺せず、そのままゴロゴロと転がって、風化した建築物の残骸に受け止められ、ようやく直人は目を開けられた。


「かひゅ…げほっ!げほ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 建築物の残骸に背中を打ちつけ、転がったことで体中の節々に痛みがある。酸欠によって視界が明滅している。しかし、奇跡的に直人の体にはそれ以外の外傷や不調はなかった。

 視界の明滅が治まったあと、顔の砂だけどうにか払い除け、冬璃……否、ローゼがどの辺りにいるのかを確認するために、直人は顔をあげる。

 が、探し出す必要はなかった。


 ドガァン!

「…………あっちか………うわ!」


 ちょうど直人がいる砂丘の向こうで、衝撃とともに戦闘音がした。

 キイィン、と澄んだ音が鳴ったかと思うと、次の瞬間、直人の目の前にあった砂丘の上半分がばさりと音を立てて消え去り、空中に大量の砂粒が散布される。

 直人は顔を片腕で隠して、砂から庇いながら、その場を少しずつ移動しようと足を踏み出した。その時、ザァァッ!と巻き上がる空中の砂が、少しずつ晴れはじめた時、直人の目に冬璃の姿が見えた。


「…原川?」


 ただの小規模な砂山と化した、砂丘であったものの向こうで、彼女は膝をついていた。冬璃の姿に一瞬見えたかと思うと、ローゼの姿に変わり、また冬璃の姿に、というのを繰り返している。

 彼女の周りにある砂は黒く染まって、その上に「真っ二つにされた生き物らしい物体」が無残に散らばっていた。羽のようなものと管のような形をした器官があるその物体たちは、先ほどまで冬璃と直人に迫っていた『見えない何か』の正体だろう。

 見た事のない生き物の形をしているそれらは、しかし再び直人達の頭上から同じ羽音を響かせて降りてきた。

 自分を追いかけてきた個体だ、と直人が身を固くしたのと同じタイミングで、冬璃ローゼの周囲にある物体たちがザラザラと形を崩し出し、冬璃ローゼの周囲を覆うように黒い膜を作り出した。姿が安定していない様子の冬璃とローゼを中心にし、その黒く薄い膜は半球体状になる。

 その数秒後、羽音の主が姿を見せ、直人は息を飲んだ。

 自分を追いかけていたであろう個体は、先ほどまで冬璃ローゼの周りに散らばっていたものたちよりも大きいサイズだった。体躯に見合う大きな羽虫のような羽と、口に当たる場所にある、太い吸引器官。異形と見まがうその大きさに、直人は思わず気圧された。見えていなかったとはいえ、これに後を付けられていたのだと理解するとぞっとする心地だった。

 そうこうしているうちに羽音の主は、ギイギイと鳴き声ともつかぬ音を立てて物凄いスピードで冬璃ローゼに突貫していき、彼女の周りを覆う黒い膜とばちぃ!と衝突した。

 ばちっ!ばちっ!と膜が防ぐ音なのか、羽音の主が発する音なのか分からない音があたりに響く。

 冬璃とローゼは、未だ膝をついたまま、姿も安定していない様子で、どうにか防御の体勢で持ちこたえていた。


 その状態で数秒が経ち、………また新たな羽音がする。

「だから、何匹いるんだよ…!」


 直人は、砂塵の世界を覆う曇天を弾けるように見上げると、曇天を突き破ってこちらに向かってくる複数の気配を確認した。

 冬璃ローゼは、まだ立ち上がる様子はない。

 ローゼの戦闘能力を直人は詳しくは知らない。しかしこの後繰り広げられる光景が「多勢に無勢」というほかの何物でもなくなる、ということは瞬時に理解できた。


 ばちッばちばちばちッ!ギイギイィ!ギイイ!

「………ぅっ…!」


 羽音が、鳴き声が、一段と大きくなり、冬璃ローゼを護る黒い膜が揺らいだ。中心にいる少女の表情が歪み、か細いうめき声が漏れる。

 周囲の音にかき消されそうなその声を、しかし直人は聞き取った。

 聞き取って――――走り出す。


 ジジッジジッジジジッジジッジジジジジジッッッ!

 気配は風を切り、あと上空10mのところまで迫っている。

 

 ジジジジッッジジジジッッジジジジジジジジッッジジジッッ!

 黒い膜を破らんと奮闘していた羽音の主――残骸デブリ――が、直人の姿を捕捉した。吸引器官が一瞬伸び縮みし、直人の足元の砂を抉る。

 冬璃ローゼが、直人の存在に気づき目を見開いた。

 ジジジジジジジジジジジジッッッッ

 足元を崩されつんのめりながら、直人は、黒い膜に覆われる彼女の唇が動いて、自分の名前を呼ぶのを見た。

 ジジッッジジッジジッッ!ギギギギチギチギチ、ギチギチギチ!

 残骸デブリが、羽を震わせて鳴く。

 直人には、それが自分に向けられているとわかり。嗤われていると理解した。



 ――――それを理解した瞬間、直人の中のフラストレーションと感情の大半が、怒りへと変貌した。



 気圧されるほどの体格差。しかし先ほどまでそれに怖気づいていたという事実は、直人にとって怒りを燃え上がらせる燃料になる。

(――――なめやがって)

 何もできないという悔しさと無力感が、目の前の存在を消し去ってやりたいという強い感情を裏打ちする。

(――――ふざけやがって)

 直人達を囲まんとしている残骸デブリの羽音は耳障りで、これを黙らせる力があればと直人はこの瞬間に強く欲した。

(ああ、うるせえ。だまれ。だまれ。黙れ)

 黒い膜はどんどん歪み、冬璃の表情が直人によく見えた。

 屋上で見た時と同じ、不安に染まった顔だった。

 ――――そんな顔をさせる奴等を××てやりたい、という思いがよぎる。



(…俺にも、お前みたいに能力ってのがあったらな)

(ローゼみたいに戦えたらな)

(そうしたら、お前が多分ずっと、一人で戦ってきたこいつらを)

(俺も消し去ってやれるのに)



 直人が冬璃のもとへたどり着くのと、残骸デブリ達が一斉に攻撃を仕掛けたのは、ほぼ同時だった。

 そして――――



『……………………馬鹿な』

 直人は、自身が気絶する前にも感じた光を目にした。

 目を開けていられないほどの光に、直人は目を閉じる。


『馬鹿な、何故!?』

 直人の耳にその声はしっかりと聞こえた。ローゼの狼狽するような声だ。


『何故ここで、権能が……!よりにもよって、こいつに………!?』

(――――…何を言ってんだ?)


 ローゼの言っている言葉の意味が分からず、直人は内心で首をかしげる。

 瞼に当たる光が弱まってきたように感じ、直人はゆっくりと瞳を開けた。

 妙に、周りがあたたかい。


 ――――否、熱い。


「……………あちぃ…?」

 どういうことだ、と目を開けた直人が見たのは、


「な………なんだ、これ……!?」

 

 目の前の、砂と瓦礫が転がる世界。それが、赤く揺らめいている熱のせいで歪んでいた。砂に片膝をついた態勢から、直人はゆっくりと立ち上がる。一瞬立ち眩みのようなものが起こるが、それどころではない。直人はそのまま周囲を呆然と見回した。

 ――――辺りが、火に覆われていた。

 直人と、冬璃ローゼ。二人の存在を残して、あとの全てが炎に包まれている。

 残骸デブリ。砂丘。近場の瓦礫。それらが黒ずんだ塊と化している。

 ギチギチ、ギチ、ギィィ…ギ…と、炎にまとわりつかれ、原型を失くしていく残骸デブリ達の鳴き声がどんどん小さくなっていく。


「どういうことだよ……これは………、…あちッ!」


 顔の近くに持っていっていた手が、頬の皮膚にほんの少し触れて、直人は驚いて自分の手に視線を落とした。

 直人の手もまた、異常な温度を持っていた。

 チリッ、と火の粉が掌から漏れたのを見て、直人は目を見開いた。


「……………これ、俺が?」


 そう言い立ち尽くす直人の視界に、うごめく影が映る。ギギギ……と、炎に体と羽をなめられながらも、宙に飛び立とうとする残骸デブリがいた。

 一番遠くにいるその個体を見て、直人は、逃げられる、と思うと同時に、思わず「待て」と手を伸ばした。


「テメェ、逃げんな!」


 その瞬間、再び炎が残骸デブリを襲う。

 直人の伸ばした手を伝うように炎が迸り、飛び立とうとしていた個体を捉え、燃え上がった。

 呆然としたままの直人を余所に、ギ………という鳴き声を最後に、直人達の周囲にいた残骸デブリは、一匹残らず灰燼と化した。

 残されたのは、焼けた砂と黒く染まった砂、そしてそこに立つ直人と、冬璃ローゼのみだった。


「………始めはこれほどのものだろうな」

「ッ!!」


 直人は声に振り返り、身を固くした。

 直人の近くにはローゼがいた。ほどかれた髪と、鋭い視線。先ほどまで安定していなかったのが嘘のように、はっきりとローゼの意識が表層に出ている。攻撃を危惧して、直人は形だけだが拳を構え、戦闘態勢をとった。

 しかしローゼは直人を一瞬見たあと、言葉を零すのみで、何も行動に移す様子はない。


「…………芽吹いてしまったものを、土に戻すことは出来ない、か」

「……はぁ?さっきから、何を言って…」


 直人はローゼの顔をはっきり見たのはこれが初めてだが、冬璃の姿を借りているらしいその姿は、しかし冬璃の面影は微塵も感じさせなかった。

 正しく別人のその姿は、どこか遠くを見つめるような瞳をして、………そして静かに瞳を閉じた。


「………………業腹だが。致し方ない」

「えっ、お、おい!」


 それだけ言うと、ローゼは右腕をかざす。

 かざしたローゼの右腕に、ぶわりと――先ほどの半球体のものと同じ、黒いものが纏わりついたかと思うと、それは細長い形状を作り上げた。

 ――――剣、のようにも見えるそれをローゼが振るうと、

 間違いなく、切り込みの先は、直人達のよく知る世界。元の井原木市だった。

「ぅお…ッ!?……マジか…」

 切り込みの中へ割って入るように進むローゼは、直人を振り返らない。こちらを見向きもしない彼女からは、もう殺意を感じ取れない。 

(………殺され、はしねえっぽいか?)

 警戒は解けないが、目の前の見知った風景を無視出来ず、直人は恐る恐る彼女の後を追う。

 切り込みを通る瞬間、ずるり、と重い液体から上がるような感覚が直人を襲うが、それは一瞬で、それを超えたらいつも通りの世界にたどり着いた。

 こうやって戻れるのか、と直人は自分が通ってきた切り込みを振り返ると、切り込みは既に半分以上閉じている。

 前に向き直ると、そこはどうやら澤杜高校北門入口のようだった。

「……帰ってきた…」

 そう直人が口に出した時、直人の目の前の――ローゼから冬璃へと戻ったらしい――身体がふらつき、地面に倒れそうになる。

 咄嗟に直人は、冬璃の肩を支えた。

「は、原川!」

「……っ……光井、くん…」

「大丈夫かよ…さっきも膝ついてたしよ…」

「…ありがとう……また、助けてもらったね」

「え、あぁ……まぁさっきのは、殆ど……なんつーか、…俺もわかってねぇんだけど…」


 肩を支えたことかと思ったが、あの世界のことだと理解して直人は返事を返すも、自分自身でもよくわかってないため曖昧な返答になる。

 どこか現実味がない風に言う直人に対して、冬璃は首を僅かに振りながら「ううん」と続けた。


「光井君の、力だよ。あれは」

「……俺の」

「………光井君も、なったんだね…」

「?何に?」


「――――異能持ちに」

「……いのうもち?」

 

 何だそれ、と首を傾げる直人に、冬璃はあまり良くない顔色でありながらも、苦笑を浮かべた。

「光井君。屋上でまた話そう。話の続きを。まだ…話せてないことがあるから」

 冬璃はふと、校舎の方を見上げて、「2限目のあとになっちゃうけど」と小さく笑う。

 その時、キーーーーンコーーーーン、カーーーーンコーーーーン、とけたたましくチャイムが鳴り響いた。

 ちょうど、2限目の予鈴を告げる時刻になったようだった。




***




 遠目に、校舎へ向かう二人の生徒を見つめる者がいた。

「…………異能持ちになったか。それにあれは…」

 自身が見届けた結果に、少し考える素振りをしてから、その人物は口元にうっすらと笑みを浮かべた。


「これは重畳」

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