俺は自分が部外者であることを誰よりも知っている
現状思考
ラナという少女
先週、俺は高校を卒業した。
正確には「してしまった」と言うべきか。
俺という人間が十八年の歳月を生きているのもびっくりだが、自分が高校卒業という人生における一つの節目を迎え経験してしまったことにこれまたびっくりしている。
こんな言い方をしてしまうと、俺が何かの大病を患っていて余命あと数年数日だなどと勘違いしてしまうかもしれないがそれは違う。残念ながらそんなことはない。これといった病気なんて患っていない。むしろ、状態以上なんて滅多に起こらない。元気過ぎて何の変哲もない。俺は普通に普通を重ねただけの、いや、日本のありとあらゆる平均を因果律並みに収束させたと言えるほどの、健康状態と容姿で構成された未成年一般市民である。
そんな俺ことーーー
晴れて?いや、快晴ではないな。やや、曇り気味だ。なんなら視界は霞みがかっていると言える。
大学生になったからといって何になるというのか。いや、何になるわけでもないだろう。俺の身体への変化は一切なく、一般市民のランクが繰り上がるだけのこと。それを変化と呼ぶには烏滸がましい。もしも大学生という肩書きだけで俺という人間にバフが掛かるのであれば霞も少しは晴れるだろうに。
例えばそうだな。移動速度とか?電車追い越せるくらい早く歩けたら通学楽だろうな。社会人になる頃には瞬間移動並みに早くなっているに違いない。交通費が浮いて時間削減にもなるとか、なにそれ最高かよ。
「ぁぁ……」
大学に何しに行くんだよ、俺は。
またそこでも何の変哲もない人間として時間に流されながら生きていくんだろうな。
高校の同級生どもは新生活について十人十色のことは言いつつも後ろ向きなことはあまり口にしていなかった。
すげえな。
人生楽しんでてすげえなあ。
その感覚が俺にはさっぱり分からん。
やりたいことがないからってのもあるけど、生きなきゃならない意味が分からない。心臓が止まるまでじっとしてちゃいけないのか?いや、いけないんだろうよ。だって、人一人死ぬと金が発生するもんな。うちの家族に迷惑かけてまで心臓を止めようとは流石に思わない。
でもなあ。
これ以上生きてどうするよ、ほんと。
今こうして四月に控える入学式までのこの休み期間中ですら、何もやりたいことないし、これからしたいことすら思い浮かばない状態だ。正直に言って暇を持て余している。
このまま大学生になってしまうことにこそ、俺は不安を感じていた。
大学デビューなんて単語がふと頭に思い浮かぶ。
デビュー?ビオレ以外にこれといったデビューした記憶がないんだが……。
「せめて、かけらでも何か見つけないとな」
でないと、高校生活以上に大学生活が辛くなってしまう!
だって知ってるかお前ら?大学って高校より年期が一年長いんだぞ!?
今でさえこんなに心が捻じ曲がってるのに、四年も通い続けたらどんなことになっているやら!
きっと、就活は適当にやってブラック企業しか内定貰えなくてなんとなくそのまま就職して一週間も経たずに辞めるんだろうな。うん。その可能性が高い。ていうか、絶対そうなる!
「おおやべえな、明確なビジョンが思い浮かんじゃったよ。重いな〜、最悪だなあ〜」
ふう。
こんな未来が訪れるくらいならマシな人生送れるくらいにはやりたいこと探しさなきゃな。
「母さん。ちょっと出掛けてくる」
「あら、珍しい。どうしたの?友達?」
軽く支度を整えてリビングでテレビを観ていた母に一言言うと、驚いたような、それでいて感心したような声で聞いてきた。
おいおい、母さん。友達なんて俺は知らないぞ?いるのは同級生兼知り合いだけだ。
「ちょっと大学の下見に行ってくる」
「下見?あんたそんなに楽しみだったの?」
「いや、ぜんぜん」
「あっそ。だったらちゃんと観ておいでよ。それと帰りにお肉買ってきて。豚ね、豚。駅前のいつもの」
「お金は?」
「明日、渡すから」
明日か。財布いくら入ってたっけか。場合によっては昼飯食わずに直帰だな。まあその分、晩飯いっぱい食えばいいか。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
学園都市と呼ばれるほどに教育機関が密集しているのが、ここ八王子。東京都の端に位置していて関東圏内の癖に冬にはしっかりと雪が積もる都会っぽくない都会だ。いや、俺からすると田舎と言っても大差ない。神奈川の南側と変わらないまである。しかし、そこはディスられてもやはり学園都市。若者が多いのなんの。渋谷や新宿が若者の町だなんて言われてはいるが、パリピ以外の若者もひしめき合っているこの町は十分に若者の町と言えるだろう。
で、だ。
俺はそんな町の一角にある、これから通うことになってしまっている大学へと到着した。
オープンキャンパスも行かずに適当に選んだ大学。
この施設に足を踏み入れるのはこれが二回目だった。
「試験会場探す時、ほんと迷子にならなくてよかった」
あの時は案内役の学生がとても優秀な人で助かった。あらぬ方向に進んでいってしまった俺を止めてくれなければ、またどうでもいい別の大学を受けに行く羽目になるところでした。
「そうなんだよなあ。この大学ですらどうでもいいんだよな。……本気でそう思ってしまっている俺がマジでやばいな」
高校生活中、部活に入らずずっとバイトばかりしていた俺は、貯金からこの大学の試験費用や入学金、その他諸々全てを自腹で支払っている。
まあ。
どうでもいい俺の無気力な進路選択に、流石に親に迷惑を掛けるわけにはいかなかったからな。それに、さほどの趣味も物欲もなかった俺は金を持て余していたというのもある。だから、そのせいもあって両親は俺の進路について特に言及してこなかったのだ。
「せめて金に見合うだけのなにかがありますように」
俺は校門に柏手を打って一礼すると、ようやく中へと入っていった。ふう、視線が痛いぜ!
そうして、広い敷地内を当てどなく歩き続けて一時間が過ぎた頃、俺は学生食堂の一角に腰を据えてため息を吐くのだった。
「……疲れた」
ホットコーヒーをズズズーゥっと啜りながら現状の感想だけを口にする。
大学施設に関しての感想は特に思い浮かばなかったのだ。
それはそうである。春休み期間はなにも高校生だけのものではない。大学もその例には漏れず、居るのは部活だかサークルだかの集まりの者だけ。講義などはもちろん行われておらず、自分がこの大学で何を目標にしてやってくべきなのかその指標となるものは一切得られなかった。いくら敷地内を自由に歩くことができても、建物以外に見るものもない。正真正銘、ただ散歩しただけで終わってしまったのである。
「そういえば俺、何学部入るんだっけ」
良い天気だなあ。
「自分の学部の専門分野くらいには興味持たないとな。……家に帰ったら合格通知と資料漁ろう……」
自分で改めて思ったが、てきとーに選び過ぎたなぁ。やばいわ〜。自分が怖いわ〜。
俺はホットだったコーヒーを飲み終えるとゴミを捨て、学生食堂を出た。
「バス停ってあっちだったよな」
俺は散々散歩して覚えた道を頼りに駅と大学を行き来するシャトルバスの乗り場へと向かっていく。施設内を西に直線で進んでいくと奥の方に駐車場が見えてきた。
「……と、おかしい。たしかこっちだったような」
学内へは車やバイクでの通学も可能らしく、そこには仲間内でワンボックスカーに乗り込んでいる学生たちや、友人にスポーツカーを自慢している者がいた。
さすがに春休みのこともあり広い駐車場もスカスカで、それをいいことにスポーツカー自慢を声高にしている学生が友人を連れ込んで駐車場内を乗り回し始める有り様だ。
「うわぁ、あんなことして停学にならないのか?」
めっちゃタイヤをキュウキュウ言わせてるんですけど。もしかしてドリフトがしたいのかな?タイヤ痕残したらそれこそアウトじゃね?絶対あとで問題になるよ?大丈夫かこいつらの頭?
「あ、バス来てる」
奇怪な蛇行運転をし続ける可哀想なスポーツカーを眺めていた俺は、視界の端から駐車場に入ってきたバスに気付き慌ててそれを追いかけていった。
駅から大学と大学から駅で発着場が違うのは頂けないなぁ、まったく。走る羽目になっしまった。
すると、追いかけていたバスは一度止まるとバックし始めた。その進行方向に視線を向けると建物の影に隠れるようにしてバス停がそこにあった。どうやら学内の敷地を散歩している時に見つけた場所とは随分と違う道から来てしまったらしい。
「そういえばあのバスどっから出てきたんだ?」
地下通路でもあるのだろうか。それで駐車場に上がってきたのか。シャトルバスの車庫が地下にあるのなら頷ける。そんなことを考えつつ、俺はようやくバスに追いついた。
バス停では意外と多くの学生たちが乗り込んでいた。散歩してる時は気付かなかったけど、こんなにいたのね。座れないじゃん。
俺は十人以上いる列の最後尾に並び付くと前の人が進む跡についていった。だが、どうしてだか前がぴたりと止まった。しかも、後ろに下がり始めて来やがった。
「と、ぅぁ、いっ!……てぇ」
訳が分からず後ろに下がって来た奴に足を踏まれながら押し飛ばされる。俺は足がもつれて体勢を保てず、尻餅をつくようにして後ろ向きに倒れていった。
「く、なんなーーー!?」
なんなんだよ、もう!
俺はそう悪態を吐こうとした。しかし、それは言い切る前に途中で阻まれてしまう。何かが唐突に身体にぶち当たって来たのだ。
パーーーーーーーー!!
クラクションが鳴っている。
ずっと。
ずっと鳴っている。
うるさいな。誰だよ、長押ししてる奴は。
「………………」
にしても、なんだこれ。最悪な気分だ。やけに息苦しいな。体も怠い。瞼を持ち上げるのでさえ精一杯だ。
「…………」
靄がかかった様な意識の中、俺は自分の身体に押し当てられているそれをようやく目にする。
「……ぁ」
白一色の見覚えのある車のバンパーがそこにはあった。
ミミズ走りしてたやつじゃんか。
俺は車から離れようと身じろぎをしてみたが、それは叶わなかった。
理由は二つ。一つは身体に全然力が入らなかったから。もう一つは自分の後ろに後進を遮る何かがあったから。
視界の下にレンガっぽい石が見える。どうやらバス停近くの植え込みだか、花壇だかに突っ込んでその間に俺が押し潰されているのだろう。なるほど。そりゃ動けんわけだ。……いやぁすげえな、こんなぼんやりとした意識でも推察できるなんてな。しぶといな、俺。おそらく側から見れば、俺の身体は目も向けられないほど凄いことになってるだろうに。よく生きてんなぁ。
「あ、ああっ!救急車っ!救急車呼んで!はやくっ!やべえ!ど、どうしよう、おい、大丈夫、大丈夫ですか?!」
あ、こいつ。この車の。大丈夫に見えるのか?お前こそ大丈夫かよ。ったく、ドリフトの練習は今度からはサーキットか、誰もいないもっと広い場所でやれよな。学内で人轢いたら洒落にならんべ。俺が言うのもなんだけど、痛みなんて感じる暇ないくらい辛ぜ、これ。
「おい!車早くどかせよ!」
「で、でも、うご、動かないんですよ!エンジンが……」
ああ、人がすげえ集まってる。
あんま見るなって。俺、人当たりはいいけど、緊張強いなんだよ。猫被って無理してるその場限りのいい奴なんだって。だからさ、ちょっと静かにしてくんない?じゃないと……。
じゃないと?
ーーーああ。
「やっとか……」
十八年に幕を閉じるわけだ。
周りからしたらさ、短い人生だって思われるだろうけど。
俺からしたら長かった。
十二分に長かった。
ただただ時間が過ぎるのを待つ毎日で何にもかもに気力が湧かなくて。
そんな日々に今、終わりを迎えようとしている。
なんだろうな、この気持ち。
上手く言い表せないや。
俺は全身の力が抜けていく感覚に身を委ねていった。
瞼を閉じ、まるで眠る様に意識を暗い底の方へと落としていった。
あ、やば。忘れてた。
母さん、ごめん。
豚肉、買って帰れないわ。
それだけ。
それだけ、ごめん。
「おい、しっかり!君!私の声が聞こえますかっ!聞こえたら手を握って下さい!ダメだ、脈拍がもう……。救急車が来るまで間に合わないぞ」
「ぇ、嘘だろ……。俺、人を……俺が、俺が?うあ、うあ、ぅあぁああああああああああああ!!!」
「え、あの人」
「逃げたぞ!あいつ捕まえろ!!」
「ねえ、どうしたの?」
「いや、わっかんないけど。誰か車に轢かれたっぽい」
「やば」
「うわ、事故ってる」
「馬鹿じゃん。廃車決定〜」
「ちょっと、誰か状況わかる人教えてもらっていい?怪我してる人はいますか?」
「はいまたまた先生とうちゃーく。これ大事だわ。ニュースで絶対騒がれんべ」
「それな。インタビューの練習しとこ」
「ウケんだけど」
俺の耳が音を拾わなくなっていく一方で反比例するように俺の周囲には人だかりと喧騒が増していった。
だが、それはもう俺の知るところではない。
どんどん。
どんどんと意識が薄らいで。
俺はぷつりと、事切れた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ーーーはずだった。
「…………気持ち悪い……」
目が覚めたら薄暗い部屋に居て、それが鉄格子の中で、自分が今、檻の中に閉じ込められていることを瞬時に理解した。
疑いもせず理解するのに然程苦戦しなかった。
だって見たまんまだし。
さすがに、ここを病院の施設の一部だと言うには無理があるだろう。医療機器の一つくらいあればまだ疑いを持っただろうが、それすらもない。
あるのは、俺が座っている椅子ただ一つ。
しかも、両手足を椅子に縛り付けられているという有難迷惑なオプション付き。
一体誰がどうしてこんな事をしたのか。なぜ俺にそんな仕打ちをするのか。一切の検討がつかなかった。
更に分からないことを付け加えて言ってしまえば、車に押し潰されたはずの俺の身体がどういうわけだか、無傷だと言うこと。まあ、痛みに永遠と苦しむ様なことがなくて助かったが、どうして超回復しているのか理解が及ばない。
と言うわけで。
自分の現状を比較対象にすれば、自分の周りがどうなっていようとそこに対して理解に苦しむことはないのである。大事なのはこの狭い檻の中の様子ではなく、自分の身に何が起きたのかという一点のみ。
故に、俺はどこだか知らない檻の中にいる事についてとやかく考えるをやめているのである。
それにどうせ、自分の事を理解すれば、自ずと周囲の状況が紐付けされている事の様に分かるものである。
「ぅぅうぅ…………おぇえええええ…………」
だから、今考えるべきは俺自身のこと。
あれから何がどうなって今に至るのか。
その経緯を知らねばならない。
正確な答えがーーー。
「ぉえええええええええ…………」
……。
正確な答えが分からなくてもその片鱗さえ推測し、知ることができれば、この檻のーーー。
「ぅ、ぅうぅぅぅ……、くそ……おえええええ…………」
……この、この檻の中に何者かがきた時に正しい対処が出来るかもーーー。
「ぉぉおええええええええぇぇェェ…………」
っだ!くそっ……ダメだ。
「はぁ……はあ…………はあはあ……う、おええええええええええ……」
目が覚めてから数十分。
俺は途方もない吐き気に襲われていた。
胃の中に何もないのに。
「く、なんだ、……くそぅぉえええええ……かは、はぁ、はあ、はぁ……」
脱水症状が出ているのか、手足の指先に痺れを感じ始めた。
ボロ布一枚着せられた俺の体には何度見返しても外傷一つ見当たらない。
中?
身体の中に何かされたのか?
なにそれ?どこのソウだよ!
「……うぉぇええええぇぇぇ……」
これで脱出ゲームとか開催されたらたまったもんじゃない。命を弄ぶ奴らにいい様にされるのなんて真平だ。
だけど。
だけど、だ。
この状況、可能性がないわけでもない。
そんな事をする奴はフィクション作品の中だけだと思いたいが、いやはやどうして、俺のこの状況。
類似点が多くないか?
考えたくないが、例えば……。
例えば、ね?
身体の傷をある程度治して、傷口を化粧で隠していたとしたらどうだ?手足を椅子に固定されている今の俺にはそれを確認する術はない。つまり、見てくれは怪我をしていないが、臓器は事故った当初のまんまズタボロ。何かの薬を打たれていて痛みだけは感じず、瀕死のままの体は吐き気というある種の危険信号を出し続けている……、と。
「ぉええぇぇぇぇっ!!!くっはぁ、はあっ、吐くっ!おぇえええええ!!」
極限状態の今の俺なら心臓が出るまで吐き続けるっ!
体が拒絶反応を示さなくても俺の心がその状況を拒絶するわっ!どこぞのクソ野郎に面白がられる前に自力で心臓吐き出して死んでやるわっ!!!
ああくそぅ……。目覚めた瞬間、「あ、ここが死後の世界か」とか一瞬でも「これから異世界転生への手続きがあるかもしれん」なんて期待を膨らませていた時期が俺にもありましたよくそっ!
「おっぼぇええええええええっ!!!!」
吐け!
「うおっおおおおぼえええええええええええ!!!」
俺の羞恥心と共に!
「ぅおおおおおおおおっぼえええええええっっ!!!!」
心臓を吐けぇええええっ!
「ぅうっ!!!おぼっ…………?」
「ふむ。思ったより生き生きしておるな」
「…………ぼええええぇぇぇぇ〜〜〜〜?」
「吐きながら疑問符を立てるでない」
鉄格子の前。
その人物は檻の外から俺のことを真っ直ぐと見て言ってきた。
「今、少し話せるかや?」
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「ティシム・ケイト。お主の経緯は大方理解した。それで今後の処遇だが」
「千島海斗です」
「うん?」
「ちしま、かいと、です」
「ああ、分かってある。ティシム・ケイトじゃな。何度も言わんでも覚えたわ」
「いや、違うから!全くの別人になってるから!せめてカイト!カイトだけははっきり発音して下さい」
「んん?そんなに違ったかのう。どうもお主の名前はこちらの言葉と相性が悪い様じゃな。すまぬが、慣れるまで時間をくれ。それくらいよいじゃろ?ケイ」
「おい、ケイトでもなくなったよ……」
「ふむ。……けい、け、くぅ?けいと。くぅえいと。けい。クゥエ、くえ〜。クゥケイ……?ケイト?ティシム・ケイト?んん?」
心臓を吐き出す勢いだった俺を止めた人物は、小首を傾げながら俺の名前を小声で練習し始めた。
(おそらくこのままずっと“ケイ”と呼ばれるパターンだな、これ)
俺は困った様に肩を竦める。
ほんと、困った。
困ったわぁ。
ほ〜んとこまったわぁ。
こまった。困った。
もうどれくらい困ったかって言うと、困ったという単語が既に原型を留めてないくらい困っていて、そのままゲシュタルト崩壊を引き起こし、更に困り果てる状況が多段畑の芋づるを引き抜いてしまったかの様に終わりのない途方もない連鎖を引き起こしてしまっているくらいには困っている状態を維持し続けていると言っても過言ではないくらいに困っている。
だってさ。
聞いてくれや、みんな。
ここさ。
ーーー異世界なんだって。
「まずは、そうじゃな。ようこそ、異世界へ」
突然、囚われの俺を訪ねてきたこの人物はぶちまけられた吐瀉物など気にせずにそう言ってきた。
俺は固まっていた。
なにせ、この惨状だ。
(別に口元を覆われても何も思わないが、よくこの状況で平然と話しかけてくるな。なんだコイツ?すげぇな)
異世界というパワーワードが耳に入っていなかったのである。
いや、だって。
デスゲームへの参加を回避する為に心臓を吐こうと必死になってた最中ですよ?『ねぇ、ちょっとお茶しない?』みたいな感覚で誘ってきたら頭追い付かなくても仕方なくない?そこは『さあ、ゲームを始めよう』とかじゃないの?どんな事にもセオリーってあるでしょうよ。胃の中をぶちまけていた直後に『ようこそ、異世界へ』なんて言われたってさ。ねえ?頭入ってこないでしょうよ。ねえ?そうだろ、みんな?異世界転生だの、異世界転移だのとそういったジャンルがあることは無気力に生きていた俺でも知っている。クラスの知り合いからもいくつか勧められて話を合わせる為に読んださ。でも、どの話にもなかったよ。
獄中スタートなんてっ!!
「混乱させてしまったかの。なに、我がお主に害を加えることはせぬ。安心せよ。その証にその吐き気を止めてやる」
混乱の坩堝へと飲み込まれていく俺に向かってその人物は手を差し伸べる様に鉄格子の隙間へ腕を伸ばし、俺に向けて指先をパチンッと鳴らした。
「っ!?あ、れ?」
瞬間、腹の底から込み上げてくる吐き気が治った。手足の指先の痺れも次第に引いていく。俺はようやくその時、しっかりとその人物を見た。
俺よりも低い身長。着痩せしているわけでもない様子で、その小さな肩幅は頭から足元まですっぽりと外套に覆われていても分かる。言葉遣いとは裏腹に澄んだ声音から察するに子供の女の子だろうか。
「何を、したの?」
年下だと判断してそう聞いたらくすりと小さな笑いが彼女から聞こえた。
何か間違えただろうか。それとも返す反応を誤ったか。
すると、彼女は薄暗いこの場で表情の一切を隠しながらも、その奥に輝く翡翠の瞳を俺に向けながら優しく声音を響かせた。
「治ったようでなによりじゃ。これで話もできようて。我の名は、ラナ。世界各地を転々と旅する流浪の魔法使いじゃ」
ラナ。
そう名乗った人物は外套のフードを払うと予想通りの幼い顔を露わにして、にししっと笑った。
「お主のことが知りたい。なんでもよい。知ること全てを話せ」
吐き気を止めてくれたお礼と言うわけではないが、俺は自分の事を話し始めた。
なに?個人情報をいきなり話して大丈夫なのかって?それは分からん。でも、俺のことを異世界の人間だと知った上で話しかけてきたのである。俺が知りたい答えをこの少女がしているかもしれない。そう思ったのだ。だから、俺は代わりに俺の質問にも答えてもらう様に前置きをしてから話し始めたのである。安心してくれ。流石の無気力な俺でもこんな狭い牢屋の中で異世界セカンドライフを終えるつもりはない。理由はこんな不衛生な場所が生理的に嫌だからだ。
ーーーそして、現在。
「むむむ。やはり“ケイ”で構わぬか?中々にして難解な発音じゃ。すぐにはできそうにない」
「分かった。それでいいですよ」
俺はえへへと笑いかけて言ってくる幼女に仕方ないと笑顔を返す。
俺だって日本語以外話せない。発音が滑らかに出来ないことを怒ることはしない。
さて、さっきラナは俺の処遇に関することを何やら話そうとしていた気がするが、その前に俺の質問に答えてもらわねば。
「それでラナ……ラナさん。そろそろ俺も質問いい、ですか?」
「なんじゃ?お主、先程から少し変な喋り方をするな。普通に話せないのかや?それともそういう話し方をする文化なのかや?」
あぁ、やっぱ気になりますよね。
「いや、そういうわけでもないんだけど。敬語を使うべきか。丁寧語を使うべきか。いまいち分からなくってですね」
薄暗がりの中でも分かる絹の様に綺麗な金色の長髪を揺らしながら小首を傾げるラナは、そのすぐに思い当たったようで手をぱたぱたと振ってきた。
「あれじゃな。畏まった方が良いのか。それとも、幼子に接する様に話せば良いのか。そいうことじゃな?よいよい!好きに話せ。我は年相応に敬われるのも好きじゃが、幼子の様に可愛がられるのも大好きじゃ。我を甘やかしてくれるのであれば存分にするが良い!」
んー、と?つまり、それは自分は幼くないということですね。世界各地を旅すると言っていた時点でそれ相応の時間を弄していることは何となく察していたが、やはりそうか。見た目と年齢は比例しないのが異世界らしい。
「ラナさん。俺がどうしてここに拘束され、閉じ込められているのか教えて下さい」
「なんでじゃっ!!?」
え、教えてくれないの?話が違くない?
「お主、そんな顔して案外鬼畜じゃな……」
「あの、ラナさん。どうしても教えて欲しいんです。俺が陥っている状況とこれからどうなるのかを」
「ぐぬぬ……、こやつ真面目じゃな」
そりゃ、いろはの一つも分からない異世界の中の、その更に陽の光も届かぬ獄中にいるんですよ?流石の俺でも無気力にはいられませんでしょうよ。そう何回も状況も分からずに殺されちゃたまらないって。
「ラナさんが俺に尋ねて来た理由だけでも教えてください。お願いします」
「ああ分かった。分かってるわい。元々、そのつもりじゃ。教えてやるからそう急くでない」
そう言ってラナはため息を吐く様に一息付くと話し始めた。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「と、いう訳じゃ。じゃから、お主の処遇に関しては」
「ええ……と、つまり……?」
「ケイ。貴様、ちゃんと聞いておらんかったのかや?」
「…………全部聞いてましたよ?」
全部聞いた。
全部、ちゃあんと聞いたよ?
聞いた上でだよ?
「なにがどういうことなんでしょうか?」
「はぁ〜〜〜〜……」
おいおいおい、そんなあからさまに残念な反応しないで下さいよ。
こればっかりは仕方ないと思うんです。だって、国らしき名前やら、知らない制度の名前やら、よく分からない現象の名前やらが多く出てきて、まるで何かの専門知識をオタクが「これくらいは常識でしょ?」みたいな感じで話されたんですもん。耳がザルになってしまったのは致し方のないこと。
だが、俺もそこまで馬鹿じゃない。なんとなくの状況は飲み込んだつもりだ。
「専門用語が分からなかっただけですから。あの、すいません。事の流れは少しは理解したつもりです!」
「本当かや?」
おお、離れた距離なのに恐怖を感じるほどの上目遣い……。これが異世界人!子供でも侮れない!じゃなくて。
「その……この国の何とかって言う王城の宝物庫に俺が現れちゃって、物音を聞きつけた警備兵的な人が俺を捉え、さらに俺が持ってる紫色のビー玉が曰く付きの良くない道具に類似していて、意識を失ったままその城の牢獄に監禁され、いつまでも目を覚さない俺の処遇を決めかねていたお偉いさんたちが、特殊な伝手を持っているラナさんを専門家として呼び、こうして俺のところに会いに来た。…………そういうことですよね!」
あらゆる名称についてまったく覚えられなかったので適当に端折ったが、だいたいは今言ったような経緯だ。
俺は不法侵入及び不審物所持または銃刀法違反の様な容疑で捕えられてしまった、ということらしい。
因みに俺を襲っていた酷い吐き気は、どうやら世界を超えてきた者に生じる症状らしく、彼女の説明では俺の体がこの世界に順応しようとした結果、反動として吐き気や手先の痺れが出ていたのだそうだ。
なるほど。確かに脱水症状を引き起こしていたら今こうしてラナさんの話を聞くこともままならなかったかもしれない。
「むぅ……。あらかた間違ってはおらぬが、感想に困る理解力じゃな。……まあ、良いか」
異世界。異世界ねぇ。なんか、まだ実感湧かないけど、多分本当に異世界に来ちゃったのだろう。天国とか地獄とか、そういったものを見れなかったのは残念だ。
「それでじゃ」
すると、ラナはこほんと小さく咳払いをし、少々やるせないという表情を改め、椅子に縛られた俺を真っ直ぐと見て言った。
「ケイ。貴様、この世界で生きる覚悟はあるか?」
そう問いを投げかけてくるラナの表情は真剣そのものだった。そこには幼さなど既に無い。正に生死を問われている、と直感出来るほどだった。
俺は唾を飲んだ。
胃液でヒリヒリと痛む喉がこれが夢の出来事では無いとすぐに教えてくれる。だからこそ、俺は言葉に詰まった。
バスに乗ろうとして事故に遭って、車に押し潰されながら俺はあの時、安堵を胸の内に感じていた。死ぬことに安らぎを覚えていた。
そんな俺がこの世界で生きる覚悟があるかって?
「それは……」
ない。
危うくすぐにそう答えてしまうところだった。
でも、思いとどまったとて、無いものはやはり無い。
この世界で何をする?
牢獄収監獄中スタートの異世界生活?
前科有りのバッドステータスを背負って?
しかも、この世界の住人として俺は転生した訳では無い。修復された体を持って転移してきた異世界人だ。前者であれば順応は難しくないだろうが、後者は相当な適応力と努力が必要とされる。なにせ、この世界の常識を俺は何一つ知らない。経済も歴史も風習、文化。ありとあらゆる物を俺は知らないのだ。
そんな俺が『覚悟がある』と答えて、果たして生きていけるのだろうか?
もし、生きていけたとして何して生きていく?
何のために?
「それは……。それ、は…………」
俺の視線はどんどん下へと落ちていった。
ラナから向けられる眼差しがとても辛く感じてしまった。
黒ずんだ石畳の床が俺の視界を占める。
おそらく、覚悟がないと答えれば俺は打首になって死ぬのだろう。もしかしたらまともに人と話すのもこれが最後かも知れない。
「………………」
このまま何も知らない場所で何も知らないままに何も納得せず死ぬ、のか。
でも、それはそれで仕方ないのか。
無気力な俺がなるようになる。
ただそれだけのこと。
(……でも)
俺は少し顔を上げ、彼女の姿を少しずつ見上げていく。
「覚悟は、ない」
「では」
「でもっ」
俺は翡翠の瞳を真っ直ぐと見て言った。
「外の景色を。この世界を見たい。別に大層な覚悟なんていくら考えても出てこないし。俺にはあれがしたい、これがしたい、っていうのが一切ない。……だけど、このまま何も知らずに死ぬっていうのは、俺は納得できない」
「では、どうする?」
俺は短く息を吸った。
「ラナ、俺を外に出してくれ」
するとラナは俺から視線を切り、無言でその場を去って行った。
俺は彼女の姿が見えなくなってからも自分の胸の内に燻る熱にしばらく絆されていた。
なんとなくで生きていた俺が“納得”を求めるなんて、いったいどうしてしまったのか。
俺はラナからの返事など気にもせず、ただただ自分に驚いていた。
そして、数時間後ーーー。
「ケイ。今から貴様は私の所有物ーーー奴隷じゃ!」
満遍の笑みに俺はもちろん納得など出来はしなかった。
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