第4章 荒れ果てた楽園
婚姻届に署名した後、私たちはスーツ姿の玲哉さんが運転するセダンで千葉へ向かっていた。
真宮薔薇園の現状を確認するためだった。
初めてのドライブデートと言いたいところだったけど、経営コンサルタントの妻として、そんな浮かれた気分で同行するわけにはいかなかった。
玲哉さんの表情もすっかり仕事モードに入っていた。
「とにかく、現場を見てみないことには再建計画も立てられないし、出資者を納得させることもできないからな。君が一番最後に行ったのはいつだ?」
「祖父が亡くなる前、もう五年以上前ですね」
千葉に入ってからしばらくは順調に流れていた高速道路が、房総半島の手前あたりで混み始めた。
ほんの数キロを進むのに三十分もかかってしまった。
平日の午前中で、トラックが多い。
「ここは分岐と合流が複雑で、有名な渋滞ポイントなんだ。休日はレジャー客でもっと混む。距離はそれほどでもないのに、東京方面からのアクセスはあまり良いとは言えないんだ」
「別の道はないんですか」
「神奈川方面からアクアラインがあるが、そちらも休日は混雑が激しい」
「公共交通機関はどうなんでしょうか」
「真宮薔薇園の最寄り駅は朝と夕方しか走っていないローカル線だし、そこからバスも出ていない」
「昼は電車がないんですか」
「平日はなくて、休日に一本だけだ。朝夕に通学で利用する高校生がいなくなったら廃線だろうな」
ようやく渋滞が途切れて玲哉さんは流れに乗ってスピードを上げた。
「ただ、交通機関の問題はそれほど深刻ではないんだ」
「どうしてですか?」
「観光客のほとんどは車を利用する。今時ローカル線の本数に期待する客はいない」
「でも、渋滞で移動に時間がかかると、足が遠のきますよね」
「休日に出かける人は、どの方面でも渋滞するのはしかたがないと、ある程度は諦めてるものだ」
白いセダンの前方には薄い雲に覆われた空が広がっている。
さっきまでの渋滞が嘘のように、前後に他の車がいない。
心地よいドライブでほんのりと眠気に包まれたとき、玲哉さんが私に出題した。
「真宮薔薇園に人が来ないのはなぜだと思う?」
「交通の問題ではないんですよね」
ここまでの話から前提条件を確認すると、玲哉さんはステアリングをつかんだまま左手の人差し指を立てた。
「そう、それはあまり問題ではない」
「花が咲いていないからですか」
違う、と前を向いたまま短く切り捨てる。
「でも、ネットで検索して花が咲いていないなんて書き込みを見たら、わざわざ来たいとは思わないですよね」
「たしかにそうだが、それは本質ではない」
なんでだろう。
花の咲いてない薔薇園なんて、私も行ってみようとは思わないけどな。
あ、おじいちゃん、ごめんなさい。
悪口じゃないんです。
必ず再建してみせますから。
と、考えてみても何も思い浮かんでこないせいで、私はまた少しうとうとしかけていた。
高速道路から一般道に降りる。
国道なのに道幅は狭く、相変わらず対向車はほとんど来ない。
沿道に瓦屋根の立派な農家がならぶ里山の風景が続くばかりで、コンビニすら見かけないし、小さなガソリンスタンドはロープが張られて定休日なのか廃業したのかも分からない。
信号機のある交差点に真宮薔薇園の案内看板が出ていた。
でも、文字は色あせ、全体的に赤茶色の錆びが流れている。
矢印の示す方向に左折しながら玲哉さんがつぶやいた。
「廃墟に招かれてるみたいだな」
辛辣な指摘だけど、同意するしかない。
「これじゃあ、せっかく来た人も帰りたくなりますよね」
「それもそうなんだが、もう一つ気づいたか?」
「なんですか? 何かありましたか」
「逆だ。ないんだ」
何がないんだろう。
「さっき高速道路を降りただろう。そこに看板がなかった」
ああ、そういえばそうだ。
今の左折看板が初めての案内だった。
「あの高速道路は平成の終わり頃に延伸開通したんだ。その時に新しく看板を立てなかったってことだ。高速道路が来るまでは、もっと手前から一般道を利用していたから、その国道沿いにしか看板がないわけだ」
「ああ、しかも、古いままなんですね」
「君だって、数年前には来ていたんだから、気づいていなかったのか?」
ごめんなさい。
運転手さんにお任せしてて、後ろの座席でずっと寝てました。
「まったく」と、あきれたような声で玲哉さんがつぶやく。「眠り姫を起こしに来る王子様はいなかったんだな」
あれ、なんで考えてたことが漏れてるんだろう。
「さっきも寝てただろ」
「頑張って起きてました。ずっと問題の答えを考えてたんですよ」
できの悪い生徒の言い訳にしか聞こえない。
「で、答えは考えついたのか?」
――ええと。
「質問はなんでしたっけ?」
「真宮薔薇園に人が来ないのはなぜか」
あ、ああ、そうだった。
「遠いし、看板も汚れてるから」
「それは今思った感想だろう」
うっ……、先生、厳しすぎます。
「渋滞とか距離とかは運転する人間しか気にならないものだ。同乗者は寝てたら着いてるんだからな」
新婚早々夫に嫌味を言われてしまう。
じゃあ、なんだろう。
生徒のできの悪さにしびれを切らしたらしく、玲哉さんが話を続けた。
「人が来ないのはそこに価値のある物があると誰も知らないからだ。宝の地図に印が付いてなかったら、誰も洞窟の奥になんか入ってこないんだよ。だけど、そこにとんでもないお宝が隠されていると分かったら、どんな危険が待ち受けていても、みな喜んでやって来る」
「でも、それって、花が咲いてないってことと同じじゃないんですか」
「似ているようで違う」と、玲哉さんが左手の人差し指を立てて振った。「花が咲いてなくても宝があればいい」
「宝って、何ですか?」
「まさに、それだ」
何が?
私には全然分からない。
「経営側にすら、宝が何かが分かっていない。だから人が来ない。それを逆転させるんだ。そこに宝物があることを示し、都心から離れたこんなところまでわざわざ来たくなるように仕向けるんだ」
それができれば誰も悩まないと思うんですけど。
「薔薇園の宝が花とは限らない。人に興味を持ってもらい、そこでお金を使いたいと思わせる仕組みを作れば、それが宝の山になるんだ」
そんなの言うのは簡単ですけど、うまくいくとは限らないんじゃないのかな。
私が黙り込んでいたせいか、ちょっと玲哉さんの言葉が厳しくなった。
「やる前から放り出すのか?」
「やる気はあります。でも、私にできるか自信はありません」
「だから俺がいるんだろ。俺を誰だと思ってる」
――ええと。
誰って……。
「私の大事な旦那様?」
「お、おう……」
セダンが減速して玲哉さんが前のめりになる。
到着したのは、『真宮薔薇園』という色あせた看板がなければ通り過ぎてしまうような山奥の廃墟だった。
◇
田舎道に接続した正門にあるスライド式門扉は、開放されているというよりも、錆びついてずいぶん前から動かされていないようだった。
門を入ってすぐのところにある駐車場の発券ゲートには、『営業中』という真っ赤な文字をペンキでなぞり直した大きいだけが取り柄の案内板が立てかけてあるけど、逆になんだか帰りたくなる雰囲気を醸し出している。
「こんな田舎でガラガラなのに駐車料金で五百円も取るのか」
玲哉さんがあきれるのも無理もない。
広さだけで言えば立派すぎる駐車場は二百台分以上あって、それとは別に観光バスが止められるスペースも十数台分そろっているけど、もちろんバスどころか、一般乗用車の姿すらない。
おまけに駐車場の舗装は広い範囲でサーフィンができそうなほど波打ち、ところどころ隕石でも落ちたのかというような穴が開いていた。
「三角コーンなんて置いてないで補修すればいいのにな」
玲哉さんは愚痴を言いながら注意深くセダンを奥の方へ進めていく。
一般駐車場の奥にある事務所らしい建物の前に、メタリックというのか、ギラギラとした塗装の青いスポーツカーが駐車してある。
太いタイヤがハの字型についていて、車体が地面にこすりそうなのは故障しているからなのかな。
「これだから千葉の……は」
玲哉さんが吐き捨てるように何かつぶやいていたけど、なんと言っているのかは聞き取れなかった。
薔薇園の入場口近くにセダンを止めた玲哉さんは、車を降りると腰に手を当ててあたりを見回していた。
「想像以上にひどいな」
私も同じ感想しか出てこない。
おまけに、ドアを開けて外に出たら、いきなり舗装のひび割れにパンプスが引っかかって脱げてしまった。
バリアフリーどころか、行く手を阻む魔王の城みたいだ。
カジュアルな古着にフォーマルな自前のパンプスが似合わないことなんて、そんなことどうでも良かった。
母から譲られたハンドバッグだってちぐはぐだし。
それにしても、おじいちゃんの薔薇園って、こんなのだったの?
実はどこか別の所に本物があるんじゃないのかな。
入り口が違うとか。
「場所は間違ってないぞ。カーナビの登録地点もここだ」
さすが有能なコンサルタント。
私の困惑などお見通しですか。
玲哉さんが大きな歩幅で歩き出す。
「先に行ってるぞ」
もう、新婦を置いていかないで。
ちょっとぐらい優しくしてくれてもいいじゃない。
薔薇の花を背景にお姫様みたいに抱っこしてとは言わないから。
と、文句も言いたいけど、あまりの状況に、さすがの私も浮かれたことを言う気にもならなかった。
薔薇も咲いてないみたいだし。
経営をなんとかしなくちゃとは思うけど、そもそも、こんな状態でまだ潰れてないのが信じられない。
「本当にやってるんでしょうか」
玲哉さんに追いついて聞いてみたところで、肩をすくめるばかりだ。
薔薇園入り口には案内所の小屋がある。
薄桃色というよりは、ピンクのペンキが色あせた感じで、窓は磨りガラスかと思ったら、埃で汚れているのだった。
チケットの券売機があるのに、ガムテープがバツ印に貼られていて、入場料は無料だった。
「あれだけ強気な駐車料金を払ってるんだ。これで入場料まで取られたら訴訟ものだろ」
今まで来ていたときは身内としてだから、何も気にしなかったけど、お客さんとして来てたら、入る前から後悔してただろうな。
「口コミ評価2.7でも、まだましな方ですね」
「2.3だ!」と、玲哉さんが声を張り上げる。「あ、いや、つい……、すまん。だが、正確な数字は経営の基本だからな」
はい、気をつけます。
入場ゲートには私と同じ年頃くらいの小麦色に日焼けした女性が立っていた。
「わぁ、お客さんですかぁ。いらっしゃぁい。どうぞぉ」
名札に手書きの丸文字で『あかね』と書いてある。
「パンフとか、そこにあるんでぇ、いるなら持ってっていいっすよ」
台の上に置かれた箱の中に無造作にパンフレットが積んである。
満開の薔薇のアーチが表紙になっているけど、学校の図書室にあった昭和の図鑑みたいな写真だ。
「あー、この写真昔のっすかね。こんなに花咲いてないんですもん。マジ受けるっしょ」
金色に染めた髪の毛をくしゃくしゃに揺らしながらあかねさんが笑う。
「我々は真宮家の関係者だ」と、玲哉さんが名刺を差し出した。
「え、誰?」と、受け取った名刺を見てあかねさんが首をかしげる。「これ、なんて読むんすか?」
「クリュウレイヤだ」
「マミヤじゃないじゃないっすか」
「真宮はこの人だ」と、玲哉さんが私を親指で指す。「私は薔薇園の調査に来た経営コンサルタントだ」
――あのぅ。
私、もう久利生紗弥花なんですけど。
あなたの大事な妻ですよ。
話がややこしくなるから今は言わないけど。
「ていうか、真宮って誰っすか?」
「ここの経営者だろう。そもそもここは真宮薔薇園という名前じゃないか」
「ああ、そうなんだぁ。へぇ」
あかねさんは初めて知ったらしく、腰に手を当ててあらためてあたりを見回していた。
「君は本当にここの職員なのか?」
「あたしぃ、これでもここで働いて六年? なんですけどぉ。まあ、名前とか気にしなくてもここに来てればお給料もらえるんで困らないじゃないですかぁ」
玲哉さんが拳を握りしめて震えている。
私が袖を引くと、蛇のようにギロリと睨まれた。
おさえて、おさえて。
それにしても、前に来たときにこんな感じの人いたかな。
持ち場とか担当が違ってたのかもしれないし、会ってないのかも。
「ああ、そういえば」と、急にあかねさんが手をたたく。「前におじいちゃんみたいな人がいたけど、もしかしてあの人が真宮さん?」
「私の祖父です」と、玲哉さんの後ろから顔を出して私が答えた。
「ああ、そういうことね」と、納得したようにコクコクと頷く。「すげえいい人でぇ、あの人がいた頃はまだなんとかなってたんですけど、最近は荒れ放題でねぇ。おじいちゃんがっかりするだろうな」
玲哉さんが顔を前に突き出す。
「だから、我々が経営を引き継ぎに来たんだ」
「へえ、そうなんすか」と、うなずいてからあかねさんが私を向いた。「おじいちゃん元気?」
「三年前に亡くなりました」
「マジっすか?」と、髪に手を入れて頭を振る。「なんだ、そうだったんだ。チョー残念。いいおじいちゃんでぇ、うちの子熱出たときに預けらんなくて連れてきたら、面倒見てくれてたんですよ。マジ、リスペクト」
へえ、おじいちゃん、そんなことしてたんだ。
そういえば、私も生まれたばかりの頃に真宮ホテルの庭園でおじいちゃんに抱っこしてもらってる写真があったっけ。
「そんでぇ、熱が下がって退屈してたうちの子をおぶい紐でおんぶして花まで見せてくれちゃってて」
あかねさんがスマホを取り出した。
「写真見ますぅ?」
玲哉さんは渋い表情で興味なさそうな態度を取っているけど、私はおじいちゃんの写真を見てみたかった。
「これ、ママ友グループでこの前バーベキューした時の写真。ほら、うちの子、今年から小学生でぇ、めっちゃ食うんすよ。マジ受けるっしょ」
え、写真って、そういうのなの?
小麦色の肌で髪の毛が茶色い女の子がペロッと舌を出してダブルピースではにかんでいる。
お母さんにそっくりですね。
「ええとぉ、おじいちゃんのはずいぶん前だよねぇ、何年前だっけ?」
「五、六年前じゃないのか」
「なんで知ってるんすかぁ。もしかして……、なんだっけ、あの、ほら……、ワトソンくん?」
――おしい。
玲哉さんまで、「そっちかよ」と苦笑いを浮かべている。
「で……、あ、あった、これこれ」
あかねさんのスマホの中で、赤ちゃんを背負った作業着姿のおじいちゃんが笑っていた。
社長の座を、入り婿だった私の父に譲ってホテル経営から退いた頃だ。
この後すぐに入院しちゃったのよね。
この頃はまだ背景の薔薇はそれなりに咲いていたようだ。
あんまりじっと見ていたせいか、あかねさんが私の顔をのぞき込んできた。
「その写真、あげましょっか。スマホあります?」
「あ、いえ、私、持ってないんです」
「ガラケーっすか?」
「いえ、ケータイ自体持ってないんです」
「へえ」と、宇宙人でも見るような目で見られてしまう。
じゃあ、とあかねさんが玲哉さんにスマホを突き出した。
「お兄さんに写真送りますから、ついでに連絡先交換しましょうよ。お兄さん、チョーかっこいいから」
――はあ!?
玲哉さんは渋い表情をしつつも、スマホを取り出している。
え、なんで?
「あ、あの……」
私は二人の間に割って入った。
「自己紹介がまだでした。妻の紗弥花です。旧姓真宮の久利生紗弥花です」
「そっすか。あたし、南田茜です」
ちゃんと夫婦だとアピールしたのに、連絡先の交換が終わってしまって、玲哉さんが自分のスマホに送られてきたおじいちゃんの写真を私に見せる。
え、ちょっと待って。
これって普通なの?
なんだろう。
なんかすごくモヤモヤする。
私がスマホを持ったことがないから知らないだけかもしれないけど、初対面の異性と連絡先を交換するのって、当たり前のことなの?
なんかスッキリしないのは、やっぱり私が気にしすぎでおかしいの?
そんな私の気持ちなど無視するように、玲哉さんが茜さんにいろいろと質問している。
「君はこの辺の人なのか?」
「そうっすよ。いやほら、子供いるんで、やっぱ近くがいいし、ここお客さんいないから保育園から連絡来たときとか、今井さんに頼んでてぇ、あ、今井さんって、花の手入れしてるおじちゃんなんだけどぉ、優しいから代わり頼むと引き受けてくれてぇ、早めに帰れていいんすよ」
玲哉さんが事務所の方を指さす。
「あの車は君のか?」
「ああ、あれ、あたしのっすよ。別れた元ダンナのやつなんすけど、このへん車ないと生活できないじゃないですかぁ」
さらりと離婚歴を披露されても、話についていけない。
「見た目馬鹿みたいだけど、意外と燃費いいんすよ。浮気とDVで別れたんで、それくらいもらっておかないとっていうか、借金だらけであれくらいしか持ってなかったんで」
南田さんが胸の前で腕を組んでふるるっと肩を震わせた。
「あいつ、酔っ払うと顔とか殴るんすよ。子供できたときなんか悪阻ひどいのに無理矢理やろうとして、やめろっつったら腹蹴ろうとするし。マジ最悪でぇ」
なんだか急に重たい話になってきたところで、玲哉さんが顔をしかめながら話題を変えた。
「今井さんっていう人は、今日は出勤してるのか?」
「いますよ。この遊歩道ずっと行って、テラスのところで小さな脇道あるんで、そこ行くと温室あるんですよ。たぶんそこにいますよ」
玲哉さんが目で私に合図してきたので園内に入ろうとしたときだった。
茜さんが私を指さした。
「ていうか、その服、微妙な色っすね」
「ええ、間に合わせの古着なので」
「古着っすか、めっちゃおしゃれっすね」
どっちなのよ、もう。
会話を交わしただけで疲れちゃった。
でも、いってらっしゃぁい、と遊園地のキャラクターみたいに朗らかに両手を振ってくれる。
気分だけは、同じ千葉にあって東京と名のつく夢と魔法の王国に招き入れられているみたいだ。
この薔薇園も東京と名前をつけたせばお客さん増えるかも。
東京でもないし、薔薇も咲いてないしと、苦情が増えるだけかな。
アスファルトの割れ目から雑草がのびる遊歩道を歩く。
せっかくなんだから玲哉さんと二人並んで歩きたいところだけど、道が狭くて後ろを歩くしかないのがつまらない。
噂に聞いていたとおり、薔薇はほとんど咲いていなかった。
つぼみもあまりついていないし、よく見ると、アブラムシがぎっしりとついている株も多かった。
そういえば、ずいぶんと茜さんと話してたけど、その間、お客さんは一組も来なかったな。
「ひどいもんだ」と、玲哉さんがつぶやく。
「やっぱり花が咲いてないんですね」
「何を言ってる。南田さんの話だ」
え、ああ……。
ちょっとこういう場所には似合わないタイプかもしれないとは思うけど。
「でも、子供の都合に合わせやすいとか、安心して働いてもらえる体制って、悪いことではないですよね」
「そうじゃない」と、玲哉さんが声を荒げた。「顔や妊婦の腹を殴るような男は最低だ」
――え?
あ、ああ、そっちですか。
「暴力にはいろんな種類があって、身体的なDVもそうだし、精神的に支配しようとする心の暴力もある。研修時代に刑事事件で嫌というほど見てきた。そういう連中は、『ふつう』っていうのが分からないんだ。人の物は奪い取り、心は追い詰めて支配しなければならないと思い込んでいる。そいつらにとっては、それが普通なんだ。理由なんかない。最初から世界のルールが違うんだ。同じはずなのに見ている景色が違う。そんな相手と話し合いをしても無駄だ。逃げるしかない」
――逃げるしかない。
それは自分のことだった。
何不自由ない生活という檻に閉じ込められて、良家の娘という名札をつけさせられて自分の気持ちを出さず、常に言われたとおりにさせられてきた。
それが当たり前だと教え込まれ、疑問を持つことすら許されなかった。
体を殴られればアザができる。
でも、心を殴られても、外からは見えない。
みんなからは豊かな暮らしをうらやましがられるばかりで、助けてくれる人は誰もいなかった。
そんな私を初めて理解してくれたのが玲哉さんだったんだ。
私は後ろから夫の腕にしがみついた。
「おっ」と、彼が立ち止まる。「ん、なんだ。虫でもいたのか?」
「なんでもないです」と、腕をはなす。
ちょうど、茜さんに言われていたテラスに出たところだった。
二人並んでウッドデッキに上がる。
「へえ、見晴らしはいいんだな」と、玲哉さんは身を乗り出すようにして眺めている。
「開放的ですよね」
テラスの正面は、両側を樹木に囲まれたゆるい下り坂になっていて、薔薇園全体を見渡すことができる。
坂の奥には池が広がり、何かの鳥が水面を漂っているのが見える。
ただ、ところどころ花が咲いているとはいえ、全体的に色合いが茶色っぽくて薔薇園らしくない風景かも。
「登記簿によれば、ここは元々ゴルフ場として開発されたんだ」
「だから両側が囲まれていて細長いんですね」
「このテラスがある場所はティーグラウンドで、遊歩道もカートの誘導路として作られたのをそのまま使ってるんだろう」
ああ、なるほど。
何度も来てるのに、そんなことにも気づいていなかった。
薔薇しか見てなかったから全体を見通せてなかったんだろうな。
「資料によれば、バブル崩壊で営業開始前に計画が中止になったのを昭一郎氏が買い取ったらしい。十八ホールの敷地のうち、薔薇園として使われているのはここだけだ」
「じゃあ、残りの土地は?」
「それを調べるのが今日の目的だ」
玲哉さんは経営コンサルタントの目で細かなところをチェックしていた。
テラスに置かれた金属製のベンチは泥で汚れていて、等間隔で並べられた天使の像は羽がもげたり鼻先が欠けていたりした。
その背中に向かって私はどうしても気になっていたことをたずねた。
「連絡先交換してましたけど、南田さんとメールするんですか」
玲哉さんはまるで関心がないかのように、点検を続けている。
「仕事で必要な内容は直接聞いた方が早いだろうな」
と、予想とは別の方へ話が変わっていった。
「経営陣が入れ替わったら、あの人には辞めてもらうしかないだろうな」
「え、どうしてですか?」
「悪い人じゃないんだろうが、薔薇園のイメージには合わない。民間営利企業の経営は慈善事業じゃない。無駄な人員は経営にはマイナスだ。赤字が増えるわけだ」
「そうでしょうか」と、なぜか逆に茜さんの弁護に回ることになってしまった。「そんな単純な話ではないと思いますけど」
相手は本物の弁護士なのに。
「平常時ならともかく、経営再建がかかってるんだ。リストラはされる方も残酷だが、する方だって断腸の思いだ。君がその判断を誤れば会社は潰れるんだぞ」
そう言われてしまうと何も反論できない。
私は経営なんて何も知らないんだし。
やっぱり、なんとかしたいという気持ちだけじゃだめなんだろうな。
「昭一郎氏も、なんであんな人を雇ってたんだろうな。子守りをしたいなら保育園でも作れば良かったんだ」
おじいちゃんの名前が出たことで、私は不意に思い出した。
「昔、おじいちゃんが言ってました。ホテルにはいろんな人が来る。中には好ましくないお客さんもいる。だけど、そういう人を拒むのではなく、お帰りになる時にはまた来たいと思わせられるような接客ができるようでなければいけないって」
「なるほど」と、玲哉さんが背筋を伸ばして薔薇園を見回した。「言いそうな話だ」
――あれ?
「祖父を知ってるんですか?」
「いや、なに」と、玲哉さんは少し曇ってきた空へと視線を逃がしながら軽く首を振った。「ホテル経営者の言いそうなことだなっていう意味だ」
ああ、そういう……。
「よし、次行くぞ」
玲哉さんがいきなり歩き出す。
「そういえば、真宮グループには介護サービスもあったな。ここ数年は赤字だったが、真宮ブランドのホスピタリティで市場調査の評価はかなり高かった」
何か使えるかもしれないな、とつぶやきながら私をおいて脇道をどんどん進んでいってしまう。
もう、妻を忘れないでくださいよ。
いくら仕事熱心だからって、ちょっと寂しすぎます。
脚が長いからって大股すぎて、こっちは小走りでもおいてかれる。
パンプスなのに、全然配慮してくれない。
靴、買わなくちゃ。
なんとか追いつくと、隣のショートホールの敷地に温室が何棟か並んでいた。
意外なことに、こちらはちゃんと整備されているらしく、茜さんがいた案内所の窓よりガラスの壁がきれいだった。
明るい温室内は鉢が整然と並んでいて、薔薇の苗を栽培しているようだった。
「すみません。どなたかいらっしゃいますか」
玲哉さんが声を掛けると、奥の方から軍手をした中年男性が顔を見せた。
「はい、なんでしょう?」
「案内所で聞いてきたんですけど、今井さんですか?」
「はい、そうですよ」
玲哉さんは自己紹介をして、用件を伝えた。
今井さんが私に気づいたようだ。
「あ、もしかして、紗弥花お嬢様ですか」
「はい」
失礼ながら私は存じ上げなかったけど、おじいちゃんと一緒にいた孫だから今井さんは覚えていてくださったようだ。
「いや、どうもこれは失礼。ずいぶん久しぶりで、すっかり大人になられて」
社交辞令だと分かっていても、外見はともかく、中身はそうでもないから恥ずかしい。
玲哉さんが早速仕事の話を始めた。
あまり花が咲いていないのはなぜか、駐車場などの設備が荒れているのはなぜか、事前に調べてきた帳簿の内容など、質問事項はたくさんあるようだった。
今井さんはその問いに一つ一つ的確に答えていた。
「ここはバブル時代にゴルフ場として開発されたわけですけど、バブルが弾けて開発は中止、森林を伐採して虫食いみたいになった土地だけが残ったんですよ。先代の真宮さんは羽田に向かう飛行機の窓から房総半島を見下ろして自然破壊のひどさを嘆いたんでしょうね。それで、ここを買い取って薔薇園にしたそうなんですよ」
へえ、そういうことだったんだ。
「現状に至った経緯なんですが、いくつかの災害が重なりましてね。まず、東日本大震災の時に、あまりニュースにはならなかったんですけど、房総半島のこのあたりは断層があるんで結構被害が出たんですよ」
「なるほど」と、玲哉さんが薔薇の苗を見つめながらうなずく。
「それで、駐車場のアスファルトが波打ったようになってしまいましてね。おまけに、三年前に大型台風が房総半島に直撃したじゃないですか」
「ああ、そういえば」
私もそのニュースはよく覚えていた。
停電や断水だったり、大きな山崩れで道路も寸断されて陸の孤島になったところも多かったようだ。
今井さんが私の方に向きを変えて話を続ける。
「その影響で、アスファルトの下の土壌が流されたところがありましてね。それであんな風に穴が空いてしまったんです。他にもね、コース沿いの木がずいぶん倒れましてね。ほら、ゴルフ場って、風が吹き抜けるじゃないですか。それで木も倒れやすいんですよ。コースを囲ってるのは根の浅い針葉樹ですから、なおさらね。他にも、下の池があふれたり土壌も流されたりして、散々でしたよ」
薔薇から視線を戻した玲哉さんがたずねた。
「で、補修はしなかったんですか?」
「穴を埋めるだけなら、資材も機材もあるのですぐにでもできますよ」
「じゃあ、なぜ?」
「親会社から何らかの話があるんじゃないかと思ったんですけど、何もなかったんですよ」
え、なんで?
私の表情を読み取ったかのように玲哉さんが代わりにそれをたずねた。
今井さんは肩をすくめるだけだった。
「被害状況を調べて報告してたんですけど、上からの指示がなかったのでね。許可がなければ我々は動けませんよ。会社の資材ですからね。目的外に勝手に使うわけにはいきませんし。まあ、本当なら、台風でやられたときに薔薇園としては閉鎖していてもおかしくなかったんです。駐車場くらいならすぐ修繕できますけど、全体を復旧させる資金なんて出せないんでしょうからね」
三年前はおじいちゃんが亡くなった頃だから、引き継ぎもうまくいかなかったんだろう。
「組織として成り立ってないんだな」
玲哉さんがため息をつくと、今井さんが温室内をぐるりと指さした。
「元々うちはこういった苗木や鉢植えの花の販売がメインでしてね。薔薇園自体は営業してなくてもあまり問題がないんですよ」
「え、そうなんですか」
そんな会社の仕組みなんて全然知らなかった。
「お嬢様はご存じなかったかもしれませんが、定評ある真宮ブランドの品質で、園芸界ではそれなりのシェアがありますから。苗木は薔薇園と違って人が来なくても出荷すれば儲かるのでね。だいぶ前からホームセンターとかにも卸して販路は拡大してますし、母の日のカーネーションなんかも南田さんの知り合いに臨時のアルバイトに来てもらったりして先月は忙しかったですよ。もちろん真宮ホテルの結婚式場もここの花です。だから、親会社としては現状維持の考えなのかと思ってたんですよ」
ああ、そうだったんだ。
「ゴルフ場の空き地もほとんど苗木の培地として利用されています。珍しい蘭もありますよ」
「なるほど、決算資料を見て疑問だったことがよく分かりました」
玲哉さんはポンと手を叩くと、腕組みをしながら私に顔を向けた。
「昭一郎氏から引き継いだお父さんの経営がある意味いい加減だったから、赤字会社を精算せずに放置していたんだろうな」
お母さんと反対で、優柔不断な性格だものね。
褒めちゃいけないんだろうけど、ここが残ったのはお父さんのおかげか。
「理由やきっかけはどうであれ、ここは今こうして残ってるんだ。それをどうするかは君が決めることだ」
と、言われても……。
私もお父さんの血を引いているのか、自分で決める自信がない。
「今井さんは、薔薇園を立て直すことはできると思いますか」
私の質問に、今井さんは首をかしげながら苦笑を浮かべる。
「お金がかかりますね。何もかも新しく作るくらいの資金が必要ですよ」
「いくらくらいかかりますか」
「ちょっと待ってください。試算表があります」
今井さんは温室を出て駐車場の奥にあった事務所の方へ駆けていった。
「やっぱり無理でしょうか。真宮グループ自体が赤字なんですから、ここに回す資金なんかありませんものね」
玲哉さんと二人だけになって、つい弱音を吐いてしまう。
「本当にそう思うのか?」
――え?
「経営者に必要なものはなんだ?」
「お金じゃないんですか?」
「それは経営に必要なことだ。経営をする者にとって必要なものだ」
何が違うんだろう。
「明確なビジョンとやり遂げる意思だ」
ちょうど今井さんが戻ってきた。
「こんなものを作ってみたところで意味なんかないだろうと思って誰にも見せてなかったんですよ。役に立ちますか?」
それは損害の評価と復旧にかかる費用を詳細にまとめた再建計画だった。
「今井さん、すごいじゃないですか」
おじさんは照れくさそうに、土のついた軍手で頭をかいた。
この試算表があれば、少なくとも道筋は描ける。
あと必要なのは経営者としての自分の覚悟だ。
私はもう一つ質問をした。
「薔薇園の花が咲いてないのはなぜですか」
「台風で土壌がやられて病気になりましてね。害虫も駆除したんですが、もう株自体が古くてだめなんですよ」
「植え替えできないんですか?」
今井さんの答えはあっさりしたものだった。
「できますよ。苗ならいくらでもありますから」
「じゃあ、なぜ?」
「このあたりは赤土とか粘土が多いんで、堆肥で土壌改良をしないといけないんですよ。そのための費用もそこに書いてあります」
ええと……、一、十、百……。
玲哉さんが横から瞬時に金額を読み上げた。
「材料費だけで億単位か」
そんなにかかるの?
「しかも、土壌改良は毎年追加で必要ですからね。金額的にはそこまで行きませんけど。苗木販売と違って、見せるだけだと薔薇は金がかかります。仮に再建しても薔薇園単体での黒字化は難しいでしょうね。苗木販売でもカバーしきれないです」
そうか。
やっぱり甘くないんだな。
おじいちゃんの趣味みたいな感じだったから、会社全体としてやってられたんだろうな。
経営から退いたら、そんな道楽にお金なんか出してもらえないよね。
「実は、もう一つ計画がありましてね」と、今井さんが巻いた紙を広げた。「薔薇だけだと一年の半分しか花は咲かないので、作り替えるなら冬でもお客さんを呼べるように、他の花やハーブを植えたらどうかと思いましてね。そのガーデンデザインも考えてありますよ。資金がないから実現しないだろうなって諦めてたんですけど、どうせできないのなら、逆にとことん、花好きが喜ぶ思いっきり夢みたいな計画にしてやろうってね。夢を見るだけならただですから」
今井さんの広げた想像図に描かれているのは夢と魔法の花園だった。
池や森と一体化した敷地一杯に四季折々の花が咲き乱れ、陸地だけでなく、池には睡蓮を咲かせて、モネの絵画のように楽しんでもらえるカフェやレストランを配置するというのだ。
本当にこれが実現するなら、お客さんがどれだけ喜んでくれるだろう。
来た人が、もう一度来たい、他の人にも教えてあげたいと思うような理想的なフラワーガーデンになるんじゃないだろうか。
玲哉さんはイタズラっ子のようにニヤニヤしながら私を見ていた。
「で、君は経営者としてどうするんだ?」
どうせできないんだろうと思われてるのかもしれないけど、ここで引き下がるなんてできない。
「やります。今井さん、もう一度薔薇園をやりましょう。よろしくお願いします」
私が頭を下げると、今井さんは困惑したように背中を丸めて軍手を外した。
「あ、はあ……。まあ、私は指示されたとおりに動くだけですけど、本当に大丈夫なんですか」
「任せてください」と、玲哉さんが横から今井さんに手を差し出す。「私がサポートしますので」
なんか、いいところだけさらわれたみたい。
困惑顔の今井さんと握手をして私たちは温室を出た。
と、急に膝が震え出す。
勢いでやるなんて言っちゃったけど、何の根拠もないんだよね。
バンジージャンプの落下台に来るまでは自信満々だったのに、綱をつけられて下を見た途端に無理無理無理としゃがみ込んじゃう人みたいだ。
口で言うだけならなんでもできる。
今までの私は、それを口に出すことすらできなかった。
意思を表明することすらヒマラヤ登山なみの大冒険なのだ。
なのに、玲哉さんは余裕の笑みを浮かべている。
なんか悔しい。
「どうせできないだろうって思ってるんですか?」
「ん?」と、玲哉さんが立ち止まって私と向かい合う。「怖いのか?」
私は玲哉さんのスーツの袖をつかんだ。
「怖いです。自信がないですし」
「そうか」と、玲哉さんが私の肩に手を回して、レストランを指す。「向こうで話そう」
玲哉さんに包まれるように歩いているのに、あんまりロマンティックではない。
両側から薔薇の枝が張り出して通路が狭く、ジャングルをかき分ける探検隊みたいに歩かなければならない。
玲哉さんはスーツに棘が引っかからないか気にしてばかりいる。
レストランと売店が入った建物は、ゴルフ場のクラブハウスを利用したものだった。
メニューはカレー、ラーメン、うどん、ハンバーグ定食しかなかった。
「全部、出来合いのものを温めて出すだけだな」
カフェメニューはコーヒー、紅茶、オレンジジュースだった。
おまけに係員もいない。
食券売り場に、『御用の方はインターホンで呼び出してください』と張り紙がしてある。
「ここまでひどいと笑うしかないな」
私たちはお手洗いを借りて、それから売店にある自販機でペットボトルのドリンクを買うことにした。
玲哉さんは紅茶、私は緑茶だ。
お金を持っていない私に玲哉さんが小銭をくださった。
「初めてのお使いか?」
「そんなことはないですよ」
さすがに私だって自動販売機の使い方ぐらい知っている。
「でも、学生時代以来、久しぶりですけどね」
テラスまで戻ってウッドデッキに上がる。
キャップをひねって一口紅茶を飲んだ玲哉さんがたずねた。
「今、どうして緑茶を選んだ?」
「あんまり深い意味はありませんけど。他に飲みたいものがなかったからかな……」
実際、他は炭酸飲料やスポーツドリンクなどで、甘くない飲み物の選択肢がなかったのだ。
「選ぶときに緊張したか?」
私は首を振った。
玲哉さんはもう一口飲んで微笑んだ。
「なぜ緊張しなかったと思う?」
なんでだろう。
「分かりません」
「まあ、理由はいろいろあるだろうけど、ようするにたいしたことじゃないからだろうな。緑茶は極端にはずれることはないし、仮に失敗しても人生に影響するほどではない」
当たり前のように聞こえるけど、玲哉さんの口ぶりには何か意味があるようだった。
「緑茶を選ぶときには緊張しないのに、薔薇園を再建するかどうかを決めるときにはどうして緊張するんだと思う?」
「金額とか、責任が重いから、ですか?」
「だが、それが錯覚だとしたら?」
「でも、緑茶と薔薇園では金額が明らかに違いすぎますよ」
「金額は、な」と、玲哉さんは私に考える時間を与えるように紅茶に口をつけた。
他に何か理由なんてあるんだろうか。
でも、私は何も思いつかなかった。
できの悪い生徒でごめんなさい。
「金額っていうのは、ただの数字の大小だ。そこに意味はない。たとえば二三が六というかけ算九九と、二億足す三億という足し算をするときに、どっちが緊張するかなんて考えないだろう」
「それは算数の問題だからじゃないですか」
「百円振り込むのと、百万円振り込むのと、百億円振り込むのは、手数料が違うだけで同じ手続きだ」
それはそうですけど。
「訓練なんだよ。だれだって、やったことがないことをしなければならないときは緊張する。裁判所に呼ばれるなんて、一般の人なら人生で一度もない人の方が多い。自分が被告でなくても、ほんのちょっとした証言を求められただけで眠れなくなるほど緊張する。だが、俺は何度もあるから緊張なんかしない」
「そういうものですか」
「それに、俺は初めて出廷した時も緊張はしなかった」
「それは玲哉さんが優秀だからじゃないですか?」
「違う」と、声を張った玲哉さんが両手を広げた。「いや、すまん。まただ。つい議論していると高ぶってしまう。自分でも気をつけてるんだが、申し訳ない」
「大丈夫ですよ。分かってますから。それより、どうしてなんですか?」
今は彼の情熱を吸収したい。
彼と話をしていると、私の体が熱くなっていく。
私は答えを知りたかった。
「常に練習してるからだ」と、彼は声を抑えて続けた。「頭の中で予行練習をする。事前に想定される問答をすべて洗い出し、どう対応するか、事前に準備をしておく。そうすればいざ現場に出ても緊張しなくて済む。そういう練習を常日頃からあらゆる場面で積み上げていくんだ。そうすればどこに出ても緊張しなくなるし、決断も迷わなくなる」
「でも、決めたことが間違いだったら、落ち込みませんか?」
「もちろん、そうなることもある。だが、やはりそれも経験で補えるんだ。自分で選んだ物事というのは、自分で責任を負えばいい。失敗は確かに嫌なことだ。だが、案外あきらめもつくし、自分が努力すれば挽回できる。だが、他人に選択を委ねた場合、その責任は誰も取ってくれない」
ああ、そうだ。
ただ押しつけるだけで、その後のことなんか放っておかれるんだ。
「自分が決めたわけじゃないのに、自分一人では解決できないんだよ。だから、いつまでたっても後悔だけが残るんだ」
――私だ。
それって、私そのものだ。
心の奥の深い海に沈んだ後悔が積もり積もって硬い岩になって私はそこに埋もれた化石なんだ。
何億年もたって地上に露出して、キメラレナカッタヒトという標本になって博物館に展示されるんだ。
「紗弥花」と、玲哉さんは私の名を呼んで向き合った。「君は今まで、何不自由ない生活で、すべてを与えられてきた。だが、それは自分で決める力を奪われてきたってことなんだ。本当は、小さなことでも一つずつ、失敗したりしながら、自分で決めるべきだったんだ。子供は失敗して学ぶ。駄菓子屋で百円玉を握りしめて、どのお菓子を買うかで何十分も迷うんだ。しかも、本当は飴がほしかったのに、クジに釣られてチョコを買ったらハズレだったなんて馬鹿みたいな経験を積みながら学んでいくんだ」
私は駄菓子屋さんに行ったことなんかない。
いつも真宮ホテルの焼き菓子やケーキが用意されていた。
だけどそれは常に与えられた物だったのだ。
「そういったくだらないことでも、自分が決めたことに責任を持つ練習になるんだ。大人になって、車を買ったり、家を買ったりと、金額は大きくなっていく。そのたびに決断の器が大きくなっていく。結婚だってそうだ。そもそも学生時代の恋愛だってそうだよ。自分が選んだ人と幸せになるつもりが、そうならないこともある。相手が悪いこともあれば、自分が悪いこともあるし、たいていは双方それぞれに言い分がある。良かれと思って選ぶのに、結果はそうならないことも多い」
南田さんも、最初はそうだったんだろうな。
だけど、逃げて正解だったんだろう。
自分と生まれてくる子供を守るために、南田さんはその決断を自分で下したんだ。
「人間は不完全だし、判断材料が足りない場合もある。下した決断は間違いの方が多いかもしれない」
だが、と玲哉さんは言葉を継いだ。
「その一つ一つの決断がその人を作るんだ」
じゃあ、今まで何一つ決めてこなかった私は……。
じっと私の目を見つめる玲哉さんの口から、ぽろりと言葉がこぼれ落ちた。
「人として扱われていなかったってことさ」
すうっと血の気が引いていく。
とっさに玲哉さんが私の両肩を支えてくれる。
「紗弥花、しっかりしろ。ここで崩れ落ちたら負けだ」
私は膝に手を当ててなんとか自分を支えきった。
気持ちの悪い汗がにじみ出て額から流れ落ちる。
そんな私を玲哉さんの言葉が優しく励ましてくれる。
「気づいたときから始めればいい。最初は怖いことだらけだ。不安に押しつぶされそうになる。だけど、大丈夫だ。俺がついてるんだからな」
――そうだ。
私は一人じゃない。
私が選んだ人が支えてくれている。
何一つ決められなかった私が初めて自分で決めた人。
玲哉さんが固い岩盤の中から私を発掘してくれたんだ。
――ありがとう。
涙がこぼれそうになる。
だけど、泣いちゃだめ。
絶対に泣いちゃだめ。
泣いたって何も解決しない。
ぎゅっと目をつむっていたって何も変わらない。
ちゃんと見るの。
目をそらさないの。
目の前で起きている現実を受け止める。
やるべきなのは、決断だ。
自分自身で責任を背負うこと。
この茶色い薔薇園に花を咲かせてみせる。
私が決めれば、その瞬間、世界が変わり始めるんだ。
「玲哉さん」
「ん?」と、私の大事な旦那様が私の目をのぞき込む。
「私、やります。なんとしてでもこの薔薇園を建て直してみせます」
「怖くないのか」と、玲哉さんが微笑む。
「怖いです。ほら」と、私は両手を差し出した。
その震える手を玲哉さんが握ってくれる。
「震えるくらい怖いのに、でも、なんだかすごく楽しいんです。こんな気持ち初めてです」
ポツリと雨が落ちてきた。
いつの間にか空はどんよりとした雲に覆われて、少し風も出てきていた。
私たちは手を握り合って、狭い薔薇の通路を子供の手を引く親子のように歩き始めた。
――柔らかい。
優しさの伝わる手に引かれながら、茨のトンネルを抜ける。
もう道に迷うことはない。
たとえ遠回りだったとしても、自分が決めたなら、それはただの寄り道なんだから。
◇
駐車場に戻った頃には、雨粒が大きくなって、アスファルトはすっかり雨に染まっていた。
車に乗り込むと、フロントガラスが雨でにじんでいく。
「有意義な視察だったな」と、玲哉さんが胸ポケットからハンカチを出して私に差し出す。
「私も最後に来た時のこと、すっかり忘れてたんですけど、いろいろ分かって良かったです」
ラベンダーの香りのするハンカチで、顔についた滴を拭かせてもらった。
なんだか記憶を呼び起こすような香りだ。
「入院した祖父に薔薇の絵を描いて見せたって話したじゃないですか」
「ああ、今朝のあの話か」
「あの時は実際にここに見に来たわけじゃなくて、思い出を絵にしたんですよね。本当はそのころはもう薔薇なんか咲いてなかったんだと思います。私、祖父に嘘の絵を見せてたんですね」
ハンカチを返すと、それをじっと見つめながら玲哉さんがつぶやいた。
「それは嘘じゃない」
――え?
「絵画というのは、写真と違って写実的であれば良いというだけではないだろう。画家が見せたいものを描くんだ。鑑賞者の心に映ってほしい光景を描くんだ。君は昭一郎さんに薔薇の咲いている風景を見せたかった。その風景は君の心の中に間違いなくあったんだ。そして、それは昭一郎さんの心にも同じ風景があったんだ。君の気持ちはちゃんと届いたんだよ。それが絵画の力だ」
そうか。
あれで良かったんだ。
ずっと心を覆っていた霧が晴れていくようだった。
ハンカチを胸ポケットにしまうと、玲哉さんが助手席の私に微笑みかけてくれた。
「紗弥花、これからまた、君の心の中にある風景をみんなに見せるんだ。受け止めてくれる人は必ずいる。その夢をみんなに届けるにはどうすればいいかを考えるんだ」
玲哉さんの熱が私に伝わる。
心が躍り出す。
私の絵、玲哉さんの言葉、人に伝える方法はそれぞれでも、ちゃんと気持ちが伝われば心が熱くなるんだ。
「はい」と、私はしっかりとうなずいた。「玲哉さんも手伝ってくださいね」
「ああ、もちろんだ」
シートベルトをつけようとした時、玲哉さんがまだじっと私のことを見ているのに気づいた。
視線を合わせると、ふっとごまかすようにステアリングに手を置いて前を見つめる。
「なあ、怒ってないか」
「どうしてですか?」
なんだろう。
何も思い当たることなんかないし、逆に、私の方がなんか悪いことしちゃったかな。
「初めてのドライブデートなのに、キスの一つもしてやれなかったからさ」
そう言ってエンジンをかけた玲哉さんの耳が真っ赤だ。
デートって……。
ちゃんとそう思っててくれたんだ。
「じゃあ、今してください」
私は目を閉じて唇を突き出した。
「小学生か」
ムッ……。
なによ、自分から言っておいて。
思わず口が曲がる。
「アヒルか」
プクッ!
「フグか」
もう、じらさないで!
「妻です。あなたを世界で一番愛してる妻ですよ」
「知ってた」
玲哉さんの手が私の頬を優しく撫で、唇が重なる。
誰もいない駐車場で、雨の音に包まれながらお互いを求め合う。
どれくらいの時間が過ぎたんだろう。
目を開けると、玲哉さんが照れくさそうに鼻の頭をかいていた。
「次は遠慮するなよ。俺にはいつでも言っていいんだぞ。与えられるばかりじゃなく、求めることだって練習が必要なんだからな」
すぐにコンサルタントの顔に戻っちゃうんだから。
もう少しだけ、私だけに見せる表情でいてほしいのに。
だけど、いつまでもそんな甘い雰囲気に浸っている場合ではなかった。
そのころ真宮ホテルでは、失踪した私をめぐって、とんでもない騒ぎが起きていたのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます