第3章 ワンナイトマリッジ

 次に目覚めたとき、玲哉さんの顔がはっきりと見えた。

 カーテンの隙間からくっきりとした明るいラインがのびてきて白い天井を照らしている。

 腕枕ではなかったけど、私たちは同じベッドの中で向かい合っていた。

 玲哉さんはまだ穏やかな寝息を立てている。

 私たち、ずっと寄り添って眠っていたのかな。

 ふと気がつくと、つるりとしていた肌におひげが生えている。

 ――なんだか、かわいい。

 触ってみてもいいかな。

 おそるおそる手をのばしてみるけど、触って起こしちゃったらどうしよう。

 それに、なんだかすごく照れくさい。

 いいかな。

 触ってもいいかな。

 すごく撫でてみたいんだけど……。

「なんだ、どうした?」

 ひぁっ……。

 もう、びっくりした。

 もしかして、寝てるふりしてた?

「起きてたんですか?」

「いや、今目が覚めた。なんかもぞもぞしてたからな」

 良かった。

 触ろうとしてたのは気づかれてないみたい。

 玲哉さんが顎を突き出す。

「撫でたければ撫でていいぞ」

「もう、見てたんじゃないですか」

「目を開けたら手がのびてきたから殴られるのかと思っただけだ」

「じゃあ、遠慮なく」と、触りかけた手をグーにする。

「勘弁してくれ」

 玲哉さんが私の手を取って、顎に当てた。

 ジョリジョリというよりはニョリニョリとした感触で、意外と心地良い。

「おひげって柔らかいんですね」

「どうだろうな、人によるのかもな。あんまり太くないからか?」

 と、そんなとりとめのない話をしていたら、きゅるるるぅと、私のおなかが鳴った。

 ――ああ、もう、こんなときに。

 玲哉さんが起き上がる。

「朝食の支度でもするか」

「あ、手伝います」

「いや、一人の方がやりやすい」

 いつの間に着ていたのか、グレーのパンツとVネックのアンダーシャツ姿で彼はさっさとダイニングキッチンへ向かってしまった。

 私も起き上がったけど、自分が裸なのに気づいて思わず隠してしまった。

 ――誰も見てないのに。

 なんだか、それでも恥ずかしい。

 私の下着、どこだろう。

 ベッドサイドのコーヒーテーブルに、スカートとブラウスがきれいに折りたたまれていて、その上に下着も置いてあった。

 ――あれ、いつの間に?

 ずっと一緒に眠っていたのかと思ったけど、もしかして、玲哉さん、夜中に起きてたのかな。

 だからさっき下着だけ着ていたのか。

 たたんでくださったのはうれしいけど、自分の分身みたいな下着をじっくり見られちゃってたかと思うと、また体がむずがゆくなってしまった。

 と、どこからか機械がうなるような音が聞こえてきた。

 下着を着けてブラウスだけ羽織ってから、音のする方へ行ってみた。

 自分でも驚くくらい、バレエでも踊ってるみたいに軽い足取りだった。

 私、さっきからおかしいよね。

 どうしたんだろう。

 自分が自分でないみたい。

 ダイニングキッチンでは、玲哉さんがカプセル式のエスプレッソマシンを操作していた。

「飲むか?」

「いただきます」

「フォームミルクでいいか?」

 牛乳を泡立てる専用のマシンが動いていた。

「じゃあ、それで」

「砂糖は?」

「いえ、いつも入れてません」

「そうなのか」

 私たち、お互いのことを何も知らないんだな。

 なのに、あんなことしたり、あんなところ見られちゃったり。

 自分から様子を見に来たのに、なんか顔を上げられない。

「ほら、どうぞ」

 先に作っていた分を私にくれて、もう一杯新しく作り直している。

「お先にいただきます」

 同じ機械の音がしているのに、なんだかダイニングキッチンが静まりかえっているような気がするのはなぜだろう。

 なにかしゃべらなくちゃって、焦ってる自分を意識すると、ますます言葉が引っ込んでしまう。

「猫舌なのか?」

 カップに口をつけない私を見て、玲哉さんが顎をさすりながら笑っている。

「あ、あの……」

「なんだ?」

 できあがったエスプレッソにフォームミルクをドボドボと足している玲哉さんに、さっき気になったことをたずねてみた。

「夜中に、起きてたんですか?」

「ああ、いつものことだ。日付が変わる頃にニューヨークのファンドマネージャーとネットでビデオ通話をするんだ。時差の関係で向こうは昼だからな」

「その格好でですか?」

「上にワイシャツだけ着たぞ。部屋は暗いし、カメラには上半身しか写らないからな」

 ああ、なるほど。

「真宮ホテル出資の件について、関心のありそうな連中にあたってくれるように頼んでみたのさ」

「あ、ええ……」

 ん?

 あれ?

「でも、もう契約は済んだんじゃないんですか」

「おいおい」と、玲哉さんがコーヒーを噴きそうになる。「破談にしようとしたのは、君じゃないか」

 そして、鼻の頭をこすりながらつぶやいた。

「俺も共犯だけどな」

 あ、そうか。

 こんな既成事実を作ってしまったら、当然結婚は破談だし、一橋家からの出資契約も破棄されるに決まっている。

 だから別の出資者を一から探し直さなければならなくなったのだ。

 自分がそう望んだくせに、いざ動き始めるとなんだか実感がわかない。

 玲哉さんにされたことだけは、すぐまた思い返してしまうのに。

 私は照れくささをごまかすためにカップを口に持っていった。

 深煎りコーヒーのいい香りがする。

「自由になりたいんだろ」

 ――え?

「あ、はい」

「俺は請け負った仕事は必ず依頼主に満足してもらえる結果を出す。そうやって信用を積み上げてきた」

「よろしくお願いします」

 玲哉さんがカップを置いて冷蔵庫を開けた。

 見るともなく顔を向けたら、思わず声が出てしまった。

 冷蔵庫には食材や調味料が整然と詰め込まれていた。

「ふだんから料理してるんですか?」

「基本的に在宅仕事だからな。調理の手間はかかるが、外食の方が時間の無駄になる」

 すごいですね、と褒めようとしたけど、昨日のことを思い出して飲み込んだ。

 これもこの人にしてみたら当然の努力というものなのかもしれない。

「アレルギーは?」と、玲哉さんが振り向いた。

 ――え?

 急に何の話?

「あ、はい、花粉症が少し」

「食べ物の話だよ」と、苦笑されてしまう。

「ああ、それなら、ないです」

「じゃあ、お任せでいいな」

「何か作ってくださるんですか?」

「コンサルタント業務の付帯サービスだ」

 玲哉さんはパンや卵などを手際よく選び出してキッチンカウンターに並べていく。

「料理、お好きなんですか?」

「俺は中学高校と男子校の寮生活だった。そこで勉強のために夜食を作り始めたのがきっかけだな」

「そうなんですか。ご家族は?」

「中学の時に両親が交通事故で亡くなって以来、一人だ。だから寮に入った」

 さらりと言われてびっくりしてしまった。

「すみません。よけいなことを聞いて」

「気にするな。奨学金を出してくださった篤志家のおかげでこうして立派な大人になれたんだからな」

 立派かどうかは、今はまだ賛成しかねますけど。

 仕事のできる人なのは間違いなさそう。

「中学生は法的にアルバイトで稼ぐわけにいかないから、代わりに寮で調理の手伝いをさせてもらうことにしたんだ。材料を少し分けてもらえれば、自分用の夜食を作れるだろ」

 自立心がある人って、やっぱり子供の頃から違うんだな。

 私なんか、そんなこと考えつかないな。

「自己流で料理を覚えたんですか」

「最初のうちは野菜の皮むきとか、煮込んでいる間に焦げつかないようにかき混ぜるとか、その程度だったが、見ているうちにやり方を覚えた。料理というのはどんなものでもほとんど同じ概念の派生形態なんだ。どんな食材を使うか。どうやって熱を加えるか。どうやって味をしみこませるか。そして、その調味料は何を使うか。それはすべて違うようで同じ基礎の上にある。つまり、普遍性と再現性だ。世界には様々な料理があるが、その根源は実は一つと言っていい。熱を加えない料理、例えばサラダにしろ、それは熱量をゼロとする調理法と考えれば筋は通る。変数をマイナスにすれば、それはつまり冷やしたり凍らせたりするということだ。料理が科学と言われるのはそういうところだ」

 私はただ呆然とうなずいていた。

 途中からあんまり聞いてませんでしたけど、おいしいものが出てくるなら、何でもいいですよ。

 材料を並べ終わったところで、玲哉さんが親指を洗面所に向けた。

「待ってる間、シャワーでも浴びてきたらどうだ?」

「あ、はい、そうですね。お借りします」

 もしかして、私、臭う?

 そんなことはないだろうけど、ちょっと洗いたいところ、あるよね。

 ベッドのシーツも汚しちゃったし。

 やだ、またなんか思い出しちゃった。

 あんなこと、こんなこと、いろんなことされちゃってたのが夢のようだけど、目の前にいる玲哉さんを見ると、全部本当のことなんだなって実感して破裂しそうなほど顔が熱くなる。

「なんだ、顔が赤いぞ。熱でもあるのか」

「い、いえ、違います。シャワー行ってきます」

 滝にでも打たれた方がいいかも、私。

 洗面所が脱衣所兼用になっていて、縦型の洗濯機が置いてある。

 その横に玲哉さんの下着と丸めたバスタオルの入ったランドリーバスケットがあった。

 脱いだ下着を置く場所がなかったので、洗濯機の上に置かせてもらうことにした。

 磨りガラスの引き戸を開けると、浴室には私には大きすぎるバスタブと余裕のある洗い場があったけど、椅子はなく、ボディタオルも玲哉さんが使っているものだけだった。

 どうしよう。

 とりあえず、全身にお湯を浴びて髪を洗うことにした。

 シャンプーとコンディショナーは私が家で使っているのと同じオーガニックブランドだった。

 これは真宮ホテルの客室でも使われているものだ。

 髪通りが良くて慣れた香りで安心する。

 シャワーヘッドから降ってくるお湯が柔らかいのに勢いがあって心地いい。

 気がつくと私は鼻歌を歌っていた。

 もしかして、私、浮かれてる?

 でも、なんかこんなふうに気分がうきうきドキドキはしゃいでしまうのって、小さい頃おじいちゃんに遊んでもらった時以来かも。

 玲哉さんのボディタオルを使うのはさすがに遠慮して、ボディソープを手で泡立てながら体に塗って、ふだん、あんまり意識したことのなかったところも入念に洗った。

 ああ、もっとちゃんとしておくんだったな。

 まさか、こんなところを……、あんなふうにされるなんて。

 想像もしてなかったから、油断してたな。

 また思い出しちゃった。

 と、泡を洗い流そうとしたら、磨りガラスの向こうに人影が見えた。

 ――え、何?

 もちろんお化けとかじゃなくて、玲哉さんだ。

 脱衣所と洗面所が兼用だし、奥はトイレだから、べつに姿を見せること自体はおかしくはない。

 でも、洗濯機が置いてあるあたりで立ち止まって、何かをしているようだ。

 私は体についた泡を流しながらそちらに意識を集中していた。

 と、四角いブルーライトが浮かび上がった。

 ――スマホ?

 え、何してるんですか?

 嘘でしょ。

 まさか……。

 下着の盗撮?

 それとも、私が出てくるところを待ち構えて……。

 ――最悪。

 こんな男に辱められようと思ったのは私だけど、ホント世間知らずで浅はかな自分が情けない。

 いくら辱めてほしいと言ったからって、そんな撮影まで許したつもりはない。

 ネットに上げられたら大変だし、そんな映像を何に使おうというのか、想像するだけで吐き気がする。

 下劣で卑劣でサイテーの男。

 ちょっとでも気を許した私がやっぱり馬鹿だったんだ。

 磨りガラスの向こうの影が動く。

 明らかに私の下着を取り上げている。

 サイッテー!

「もう、何やってるんですか!」

 私は思いっきり扉を引くと、勢いを最大にしたシャワーを浴びせかけた。

「うおっ!?」

 左手にスマホ、右手にブラジャーを持った変態男が顔を覆って隠していた。

 証拠はバッチリ。

 現行犯逮捕!

 言い逃れできないんだから。

 びしょ濡れの男になおもシャワーを浴びせながら私は叫んだ。

「盗撮は犯罪ですよ!」

「おい、落ち着け」

「私だって、怒るときは怒ります。裸の写真を撮ろうなんてサイテーですよ」

「写真?」と、変態男がシャワーヘッドをつかんで向きを変えた。「何のことだ?」

 もう、何よ、この期に及んでしらばっくれて。

 もっとお湯を浴びせてやりたいのに、腕力で押さえつけられたのが悔しい。

 氷水のバケツないかしら。

「すまない」

 ずぶ濡れ男が情けない声でつぶやいた。

 罪を認めたって、許せないものは許せない。

「今さら謝罪なんていいですよ。私、ちょっとはあなたのことを……」

「ブラジャー用のネットがなくて洗濯できなくてすまない」

 ――は?

 水をしたたらせながら男がスマホの画面を私に向けた。

『ブラジャー 洗い方』

 え、あ……、ええと……。

「俺の洗濯物とついでに洗おうと思ったんだが、女物の扱いは気をつけなくちゃならないだろ。だから確認しておこうと思ったんだ」

 あ、ああ……、そういうこと……ですか。

 玲哉さんがスマホの画面をスワイプさせながら画像を見ている。

「ブラジャー用の型崩れ防止ネットというのがあるらしいんだが、もちろんここにはない」

 ――ですよね。

「あの……、ごめんなさい。私、勘違いをしていたみたいで」

「気にするな。誤解を与えるようなことをした俺も悪いし、スマホも防水だ。それよりも……」

 視線を泳がせながら男が口ごもる。

「なんですか?」

「いや、その……だな。目のやり場に困る」

 ――ハッ!?

 慌てて体をよじってみたところでもう遅い。

「昨日散々あんなところとか、全部見たくせに、今さら何言ってるんですか」

「それとこれとは違う。濡れた髪とか、したたる滴とか、その……なんだ……」

 耳まで赤くしてスマホを持った手をぶんぶんと振り回す。

 冷徹な男の狼狽ぶりにこっちまで恥ずかしくなる。

「もう、言わなくていいです。またお湯かけますよ!」

「勘弁してくれ」

「とにかく、いったんあっちに行っててください」

 私は思いっきり戸を閉めた。

 磨りガラスの向こうでは、ランドリーバスケットにあった使用済みバスタオルを使って玲哉さんが床を拭いていた。

「あの、ごめんなさい。水浸しにしてしまって」

「気にするな。べつにバスタオルで拭けばいいだけだ。俺の下着の替えはいくらでもあるしな」

 磨りガラス越しに会話をしながら、乾いたバスタオルを棚から出した玲哉さんがずぶ濡れの下着を脱いで体を拭き始めた。

 無造作に脇を開いて荒っぽく髪の毛を拭いている姿が、ローマ時代の彫像みたいで神々しい。

 磨りガラスで見えそうで見えないところがつい気になってしまう。

 ――だめ、見たらだめ。

 わたしもあんまり他人のことを非難できないじゃない。

 ひと通り体を拭き終わった彼が磨りガラス越しに声をかけてきた。

「なあ、いいか」

「なんですか?」

「新しいバスタオルを置いておく。ドライヤーもよかったら使ってくれ」

「ありがとうございます」

 彼の姿が見えなくなってから浴室を出てバスタオルで体を拭く。

 ウィンザー様式の英国王室紋章がついた分厚いタオルで、柔らかくて吸水性が抜群だ。

 ドライヤーで髪を乾かしていたら、洗面所のドアがノックされてかすかに開いた。

 隙間からワイシャツの新品パッケージが差し込まれる。

「そこにあったブラウスも濡れただろ。着替えを手配しておいたから、届くまで悪いがとりあえず俺のシャツを着ていてくれ」

「はい、ありがとうございます」

 悪いのは私だし。

 ――あれ?

 手配?

 ネットで注文したってこと?

 そんなに早く着くのかな。

「あの、自分の下着だけ、手洗いしますね」

「ん、そうか。洗剤は洗濯機の上の棚だ。ピンチハンガーもある」

「ありがとうございます」

「もうすぐ朝食の準備もできるから、終わったら来てくれ」

「はい。洗ったらすぐ行きます」

 何ができたか楽しみ。

 そういえば、昨日のお昼から何も食べてないんだっけ。

 素肌に羽織った玲哉さんのワイシャツはだぶだぶで、袖をまくった自分の姿を鏡で見ると、なんだかいかにも二人だけの秘密を共有した仲みたいでドキドキする。

 洗面台で簡単に下着をもみ洗いしていたら、鏡の前に置かれた歯ブラシが目に入った。

 一本だけ。

 一人暮らしだから当たり前。

 でも、当たり前が、当たり前なのかな。

 なんだか、いちいち気にしてしまう。

 そういえば、私、全然考えてもいなかったな。

 玲哉さん、おつきあいしてる人いるのかな。

 もしかして既婚者?

 ベッドは一つだけどキングサイズで一人で寝るには広すぎるし、冷蔵庫の食材だって、多すぎるような気もする。

 独身だとしても、おつきあいしている人がいたっておかしくない、というか、いない方がおかしいよね。

 弁護士で有能な経営コンサルタント。

 悔しいけど、経済誌の表紙を飾りそうなくらい見た目もいいし、肩幅の広い体つきも鍛え抜かれていた。

 それに、昨日のあんなことだって……。

 どう考えたって、女の人のことをよく知ってるに決まってる。

 比べられちゃったら、私なんて物足りなかっただろうな。

 どうせ、ただもてあそばれただけ。

 その他大勢の獲物の一人としてすぐに忘れ去られてしまうんだろう。

 今さら気づいたって遅いのに。

 はしゃいじゃって馬鹿みたい。

 世間知らずで経験のない愚かでだまされやすい女が自分から罠に飛び込んでいって怪我をしただけ。

 べつにそれでいいと思ってそうしてくれってお願いしてその通りになっただけなのに、なんか……、なんだか、今さら悲しくなってきた。

 いったん疑念が沸き起こると、せっかくシャワーで温まったばかりの体の奥が震え出す。

 女性の洗濯物のことまで気をつかってるってことは、それなりに深い関係だってことなんだろう。

 もしかしたら、ここに来るかもしれない。

 鉢合わせなんかしたら玲哉さんに迷惑だろうし、相手の人にも軽蔑されるだろうな。

 ――なんで?

 どうして?

 正面の鏡の中で私が泣いている。

 なんで泣いてるの、私。

 泣いちゃだめ。

 泣いたりしたらだめ。

 昨日は悔しくてこらえていたけど、今は悲しくてこらえきれない。

 私、玲哉さんのことを……。

 ホント、馬鹿な女。

 ほんの思いつきだけで、馬鹿なことしちゃって。

 今さらなんで本気になんかなってるのよ。

 コーヒーにミルクを入れるかどうかすら知らなかったくせに。

 朝ご飯なんてごちそうになってないで、早くここを出なくちゃ。

 涙を拭いていると、洗面所の扉の隙間から玲哉さんが顔をのぞかせてこちらを見ていた。

 もうワイシャツとスラックス姿に着替え終わっている。

「どうした? まだかかりそうか?」

「いえ、終わりました」

 ――そう、終わり。

 一夜だけの夢は終わり。

 泣かないでお別れできる?

 最後くらい、強がりでもいいからちゃんとお別れしなくちゃね。

 私は鏡の中の自分にそう問いかけて両手で頬をはたいた。

 そんな私を玲哉さんが怪訝そうに見ている。

「朝食、冷めるぞ」

「あの、すみません。せっかく用意してもらって申し訳ありませんけど、私、すぐに出ます」

「その格好で?」

 ああ、そうだ。

 着替えが届くまでは外に出るわけにいかないんだ。

 びしょ濡れでもいいから自分の服を着ようかな。

「どうした。さっきは誤解させて悪かった」と、彼が私の手をつかんだ。「率直に謝る。すまなかった。だから気を悪くしないでくれ」

「そういうことじゃないんです」

「じゃあ、なぜ?」

「女物の洗濯に気をつけないといけないって、どうして詳しいんですか?」

「それくらいは学校の家庭科でも習ったし、洗濯機の取扱説明書にも書いてあるだろ。男物の下着は形がシンプルだし、金具とかもないから俺は普段は洗濯ネットは使わないけどもな」

 はぐらかそうとしているようには見えないけど、私は疑念をぶつけてみた。

「間違って洗濯してカノジョさんに怒られたとか?」

 彼は遮るように首を振った。

「そんなのいるわけないだろ」

 なんで断言できるんですか?

 聞きたいけど言葉にはならない。

 そんな私の表情を読み取ったかのように彼がため息交じりにつぶやいた。

「俺は恋愛とか同棲に向かない男だぞ。仕事しか興味のないつまらん男だからな」

 ずいぶん具体的で、的確な分析だ。

「昔、言われたことがあるんですか?」

「悪いか」

 そうつぶやいて視線をそらした玲哉さんの顔が赤く染まる。

「学生時代に散々言われたよ」

 そして、彼は私の手を優しく引いてダイニングテーブルへといざなった。

「とりあえず、食事にしよう。歴史の勉強は今でなくてもいいだろ」


   ◇


 気まずい空気の中、テーブルに着くと、玲哉さんが次々と料理を並べ始めた。

 コンソメスープに茹でキャベツのサラダ、メレンゲみたいなスクランブルエッグとパリッと皮が弾けていい焼き目の付いたソーセージ、そして、とろけたバターの塊がつるりと滑るトーストに濃厚なしぼりたてオレンジジュース。

 二人分の朝食でテーブルが満開の花園のようだ。

「口に合うといいんだが」

「いただきます。短時間ですごいですね」

「このキッチンにはコンロが三つある。スープと茹で野菜用に二つ、それと湯煎用に沸かすお湯が一つで、同時進行可能だ。ソーセージはオーブントースターでトーストと一緒に処理する。調理プランの調整は料理の基本だ。スープはコンソメの素を溶かしてカイワレを落としただけだけどな」

 すごくおいしいんで、解説は結構です。

 スクランブルエッグはすごくふわとろで、かすかに酸味がある。

「湯煎でクリームチーズと一緒にホイップしながら作った」

「そんな手間がかかってるんですか」

「手間というなら、切って湯通ししてあく取りした茹でキャベツの方が手間だな。ドレッシングは市販の胡麻ダレだけどな」

 粗挽き黒こしょうがひと手間のアクセントになっていて、生のサラダよりも甘みがあっておいしい。

「うまそうに食べるんだな。餌付けしてるみたいだ」

 あれ、はしたなかったかな。

「だっておいしいですよ」

「そうか」と、照れくさそうにトーストを一口かじる。「それはうれしいよ」

「本当においしいです。すごく」

 それからしばらく私たちは無言で食事を進めた。

 実は、奥歯に挟まったカイワレのせいで、気になって落ち着いて話もできなかったのだ。

 ――どうしよう。

 男の人の前でみっともない真似はしたくない。

 なんとか舌でとれないものかと気づかれないようにやってみてもうまくいかない。

 玲哉さんもときおり何か言いたそうにしているけど、会話は始まらない。

「おいしい以外に言葉が思いつかなくてごめんなさい」

「いや、俺の方こそ」

 どんどん気まずくなっていく。

 そもそも男の人と二人きりで食事をすること自体初めてだから、私にできることなんてなにもない。

 だいぶ食事が進んだところで、何の脈絡もなく玲哉さんがつぶやいた。

「調子はどうだ」

「え、何のですか?」

「体調とか、その……、気分とか」

「どこも悪くないですよ。あ、さっき言ってた熱のことですか?」

「そうじゃなくて、その……だな」

「なんですか? はっきり言ってくださいよ」

 私の方からこんなことを言うなんておかしいけど、玲哉さんの態度の方がもっと変だ。

 お皿に残った最後のスクランブルエッグをスプーンですくい上げると、玲哉さんが視線をそらしながら続けた。

「初めてだったんだろ。どこか体に痛みがあるとか、違和感とか、あとは……、俺に対する嫌悪感とか、そういうのはないのかってことだ」

 はっきり言ってほしいと言ったのは私だけど、はっきりたずねられるとそれもまた恥ずかしい。

「まあ、浴室で鼻歌を歌ってたくらいだから、大丈夫だったんだろうがな」

 やだ、聞かれちゃってたの?

「これでも俺なりに気をつかってるんだ」

「私のことなんか気にするだけ無駄なんじゃありませんか?」

「無駄……なんかじゃない」

 食事を終えた玲哉さんは立ち上がってお皿をシンクへ運びながらこちらを向いて頭を下げた。

「昨日はすまなかった」

「何がですか」

「怖くなかったか?」と、戻ってきた玲哉さんはオレンジジュースをグラスに注ぎ足した。

「あ……、まあ、あの……、少しは」

「言い訳に聞こえるかもしれないが、わざと怖がらせて、思いとどまらせようとしたんだ」

 そうだったんだ。

「やめてくれと言われたら、いつでもすぐにやめるつもりだった」

 今思えばずいぶんと芝居がかっていたような雰囲気だったのは、そういうことだったんだ。

 と、納得しかけたところで、玲哉さんが思いがけないことを言った。

「だけど、我慢できなかった」

 はあ?

「俺も、あんなに自分が抑えられなくなるなんて、思ってもみなかった」

「あ……、そ、そうなんですか」

 思わず体が熱くなる。

「君のせいだろ」

 ――私の?

「俺を夢中にさせたんだからな」

 冷徹な男の表情が、さっきからいたずらがバレた少年のようにころころと変わっている。

「でも、私なんか、玲哉さんには物足りなかったんじゃないですか」

「何を言ってるんだ。君こそ、俺をもてあそぼうっていうのか」

 なっ……。

 そんな駆け引き、できるわけないのに。

「一回きりの契約だっただろ」

 ええ、まあ……。

「だけど、さっき、ずっと君のことを考えながら料理をしていた」

 ――え?

「おいしいと喜んでもらえるだろうか。そんなことが気になってしかたがなかった」

 それって……。

 もしかして、そういうことなの?

 そう受け取ってもいいってことなんですか?

 と、そのときだった。

 インターホンが鳴った。

 玲哉さんが立ち上がって応対に出る。

 女性の声のようだ。

「おう、上がってきてくれ」

 そう言って、玲哉さんは玄関へ向かった。

 今のうちに、こっそりと奥歯に挟まったカイワレを取っておく。

 しばらくして二人で現れたのは、私と同じか、やや年上くらいのパンツスーツ姿の女性だった。

「司法書士の高梨さんだ」

「どうも」と、あまり私に関心なさそうに奥まで入ってくる。

「初めまして。真宮です」

「店、開いてたか?」

 玲哉さんがたずねると、高梨さんが手提げ袋をカウンターに置いた。

「恵比寿のごちゃごちゃしたところに、夜から昼前までって変な営業時間の古着屋があるんですよ」

 カウンターにあるデジタル時計を見るとまだ朝の七時前だった。

 六月の日差しが高いせいで、そんなに早いとは思わなかった。

「ショーツとキャミソールは古着ってわけにはいかないんで、コンビニで買ってきました。一番無難なやつです」

 注文ってそういうことだったんだ。

「お手数をおかけしまして申し訳ありません。ありがとうございます」

「気にしないでください。仕事のついでなんで」

 高梨さんは他にも封筒をいくつか抱えていた。

「綿貫ビルの再開発の件、書類もらってきました」

「ああ、ようやくか」と、玲哉さんが中身をチラリと確認してカウンターの上に置く。「お疲れさん」

「自治会長さんになんて言ったんですか?」

「俺は何も」

「本当ですか。あんなにごねてたのに」

 無表情を貫く玲哉さんを見て高梨さんが役者のように肩をすくめる。

 なんだか聞いちゃいけないようなお仕事の話だったので、私はおいしそうなソーセージをいただいていようっと。

 ジューシーで、後からほんのりハーブとスパイスが香って、とっても素敵。

 いつの間にか話は私たちの件に移っていたらしい。

「ていうか、女物の服を買ってきてくれって、どういうシチュエーションなんですか?」

「水がかかって濡れてしまったんだ」

「びしょ濡れって……」と、高梨さんが顔をしかめる。「朝飯一緒に食べてる二人に聞くだけ野暮ってやつですか」

「違う」と、玲哉さんも声を張る。「そういう意味じゃない。文字通り水がかかったんだ」

 私は心の中でそっと挙手をした。

 すみません、私が悪いんです。

「あのう……」と、私は横からたずねた。「高梨さんは、久利生さんとはどういう関係なんですか」

 高梨さんの返事の前に玲哉さんが割り込んできた。

「だから仕事関係に決まってるだろ」

 高梨さんもきょとんとした表情で小刻みにうなずく。

「法学部の先輩後輩で、役所とか裁判関係の手続きとか引き受けてますけど」

「あの、プライベートとかは?」

「はあ、どういう意味ですか?」

「その……、交際してるとか」

「やめてくださいよ。ありえないです」と、毒を盛られたかのように今にも吐き出しそうな顔になる。「地球がひっくり返っても、逆立ちして逃げます。全力で」

 なんだかよく分からないけど、そこまで言わなくても。

 と、腕組みをして高梨さんが胸を反らした。

「私、もっと素敵なカレシいるんで」

 あ、そうなんですか。

「二次元ですけど」

 あ……、ああ、そうですか。

 と、私に人差し指を突き出した。

「そっちこそ、本当に大丈夫なんですね?」

「えっ、ええ」

「この男に無理矢理変なことされたんだったら、私が手続きしますから、遠慮なく相談してくださいよ」

 ――されたの……かな。

 してもらった……のかも。

「いえ、大丈夫ですから」

「こんなのよりよっぽど優秀な弁護士紹介しますからね。慰謝料ばっちり取れますよ」

「あんまりよけいなことを言うな」と、玲哉さんがにらみつける。

「はいはい。お邪魔ですかね」

 高梨さんはご丁寧に私に名刺を差し出して去っていった。

「まいったな、まったく」

 気まずそうに玲哉さんが鼻の頭をかいている。

「俺に交際相手がいると思ってたのか?」

 私はコクリとうなずいた。

「いたらよっぽど物好きな女だろ」

 ――いますよ、ここに。

 世間知らずでだまされやすい物好きな女。

「皿洗ってるから、寝室で着替えてくるといい」

「え、あ、ごちそうになったんで私がやりますよ」

「余計な気をつかわなくていい。せっかく服が届いたんだから、着替えればいいさ」

 そう言いながら、もう玲哉さんは洗い物を始めていた。

「じゃあ、すみません」

 私は高梨さんが持ってきてくれた紙袋を抱えて寝室へ向かった。

 中にはカジュアルなポロシャツとキュロットスカートが入っていた。

 新品の下着をパッケージから取り出して身につけ、ちょっと生地の硬いライムグリーンのポロシャツをかぶる。

 ベージュのキュロットスカートは膝丈で、今の自分に似合うかちょっと不安。

 どうなんだろ。

 ちょっと色合いが微妙な感じがするけど、贅沢を言ったら朝早くに届けてくれた高梨さんに失礼だよね。

 覚悟を決めてキッチンへ行くと、玲哉さんが洗い物の手を止めて私を見た。

「いいんじゃないか。似合うと思うぞ」

「そうですか」

「なんだ、さえない声だな」

「ふだん、あんまりこういう格好しないので」

「そうか、新鮮でいいじゃないか」

 そうかなあ。

 やっぱりなんかしっくりこないな。

 洗濯物が乾くまでしょうがないか。

 私はカウンター越しに玲哉さんにたずねた。

「あのう……。私、もう少しここにいてもいいですか」

「家に帰らないのか?」

「はい」

 迷いはなかった。

 もう、あの家には帰らない。

 何不自由ないけど、自由もない家。

 自分の気持ちを押し殺して、じっと息を止めていなければならない場所。

 それだったら、生きたまま土の下に埋めてもらったって同じだ。

「かまわないが、一つ条件がある」と、玲哉さんが手を拭いてこちら側へ来た。

「何ですか?」

「俺の妻になれ」

 ――はい?

「どういうことですか?」

「契約における重要事項を二度言わされるのは嫌いだ」

「すみません。言葉は聞こえたんですけども、『妻になれ』という意味が分からないんです」

「言葉通り、文字通りだ」

「妻ですよね」

「だから、そうだ」

「どうしてですか?」

 玲哉さんは私と向かい合って、じっと目を見つめてきた。

 ちょっと照れくさくて目を伏せようとすると、顎に手を添えられて顔をのぞき込まれた。

「昨日、わざと俺にめちゃくちゃにさせて、死ぬつもりだったんだろう」

 心の奥を見抜かれていた。

「俺が君を突き放していたら、君はどうなっていたか分からなかった。だったらいっそのこと、他の男に渡すくらいなら、俺が君を受け止めてやりたかった。あれが俺なりの責任の取り方だった」

 それはつまり……。

 私のことを愛してくれたってことですか?

 なのに、彼の言葉は期待外れだった。

「俺のせいにして死なれてはかなわないからな。だから、俺に最後まで責任を取らせろよ」

 なんだか、あんまり納得できない。

 聞きたいことはそんなことじゃないのに。

 なんだか急に心の温度が冷めていく。

「でも、いくらなんでも急すぎますね。心の準備ができてませんよ」

「書類の準備なら整ってるぞ」と、玲哉さんがリビングの窓際に置かれたライティングデスクの引き出しに飛びついた。「俺は経営コンサルタントであり、弁護士だぞ。書類なら何でも揃ってる。なんなら、これもあるぞ」

 離婚届の用紙も出される。

「いつでも契約解消可能だ。ビジネスは常に出口戦略を用意しておくべきだ」

 ――違うの。

 大事なのはそんなことじゃないのに。

 玲哉さんが先に婚姻届に記入する。

 ペンを渡されて、仕方なく私も署名した。

「初めての二人の共同作業だ」

 言葉だけはそれらしいけど、こんなのただのお役所仕事じゃない。

「あと、これは君に預けておく」

 玲哉さんが離婚届にも署名して、私の欄は空白のまま渡された。

「どうしてですか?」

「続けたくなくなったら君の意思を尊重する。ビジネスは常にフェアであるべきだ。俺の人生の師の教えだ」

 そんなの私には関係ないし。

 婚姻届に署名しちゃったけど、なんだか本当に離婚届も同時に必要かも。

「コンサルタントの人ってまわりくどくて面倒ですね」

「なんだと?」

「そんなことより、一番大事なことを忘れていませんか」

「……なんだ?」

「ちゃんとプロポーズしてください」

 虚を突かれたように、玲哉さんが一瞬目を伏せる。

 耳が真っ赤だ。

 ためらいがちに顔を上げて、彼がつぶやく。

「勘違いするな。これはただの契約だったはずだぞ」

 私は人差し指を立てた。

「契約には手続きが必要です」

 お、おう……と、玲哉さんは口ごもった。

「お役所仕事かもしれませんが、規則は規則ですので、ご協力ください」

 私は手のひらを見せて両手を差し出した。

「では、契約手続きをお願いします」

「分かったよ」と、彼は軽く頭を振った。「二度は言わせるなよ」

「はい」

 私は耳に手を当てた。

「紗弥花、俺と結婚してくれ」

 彼はしっかりと私を抱きしめてくれた。

 そして、優しいキスの後に私の目をじっと見つめて彼がささやいた。

「俺だけの花になってくれ」

 私は彼の鼓動を聞きながら胸に顔を埋めて答えた。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 最悪の出会いからまだ二十四時間も過ぎていないのに、私たちは将来を誓い合っていた。

 生まれて初めて自分で決めたことだけど、不安も後悔もなかった。

 どうなるかなんて誰にも分からない。

 だから、自分で決めればいい。

 そんな私を受け止めてくれる人がいる。

 ――玲哉さん。

 私の大事な旦那様。

 リビングの窓から見える東京タワーがすっかり高くなった日差しを受けて輝いていた。

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