第5章 『私』との決別

 都心へ戻るにつれて雨脚が強まる中、玲哉さんの運転するセダンは順調に高速道路を進んでいた。

 車内では、薔薇園再建のためのアイディアを出し合い、現実的な改善点から夢をかなえるための具体的な段取りまで様々なことを話し合った。

 私の考えたとりとめのないアイディアでも、玲哉さんはしっかりと耳を傾けてくださった。

 自分の意見を受け止めてもらえたのが嬉しくて、つい話しすぎていたのかもしれない。

 車はいつの間にか東京タワーの見えるところまで戻ってきていた。

 でも……。

 ――あれ?

 何かおかしい。

 車の向きが違う。

 東京タワーが逆方向にある。

 セダンは玲哉さんのマンションから遠ざかっている。

「玲哉さん、どこに行くんですか?」

「真宮ホテルだ」

 ――え、なんで?

「今朝からずっと何通もメールが来ていた。昨夜家に戻らなかった君を探していたらしい。ホテルの駐車場係が君を目撃していただろう。俺の車に乗ったこともバレていた。君を連れてホテルに来るようにと、君のお母さんからの命令だ」

 さっき薔薇園でお手洗いを借りたときだ。

 先に用を済ませて待っていた玲哉さんが、私の姿を見てとっさにスマホをしまっていた。

 あのとき、もうすでにメールを見ていたんだ。

 なのに、どうして教えてくれなかったの。

 黙って私を連れていくつもりだったの?

「嫌です。行きたくありません」

 私の意思表示を突っぱねるように、玲哉さんが冷たく言い放つ。

「逃げるな」

 どうして?

 逃げるしかないって言ってたじゃない。

 なんで私には反対のことを言うの?

 玲哉さんは私の味方じゃないの?

「逃げてばかりでは解決しない。立ち向かうべき時は戦うんだ」

 無理。

 そんなことできない。

 できるわけがない。

 今でもこうして手が震えているのに。

 あの人の前に出たら、私は息ができなくなってしまう。

 そんな私の手に、玲哉さんの左手が重なる。

「だけど心配するな。俺がついてる。そばにいる」

 冷たい爬虫類みたいな手だ。

「俺を誰だと思ってるんだ?」

 誰……なんだろう。

 本当に信じて良いのだろうか。

 一橋家の出資契約を破談にするために私は玲哉さんに身を委ねた。

 それはつまり、玲哉さんだって契約破棄に対する責任を負わされるということだ。

 私を大切にしているように見せかけて、実は自分が助かるために私を生け贄として捧げようとしているのかもしれない。

『俺も共犯だけどな』

 玲哉さんだって、今朝、そんなことを言っていた。

 罪の意識があるのなら、自分の立場が危うくなったときに、この人は私をあっさり捨てるかもしれない。

 そんな相手を信じる根拠は何?

 車が真宮ホテルの地下駐車場に入る。

 もう時間がないのに。

 考えれば考えるほど、何を信じていいのか分からなくなる。

 車を止めてエンジンを切った玲哉さんが先に降りる。

 車から出ない私に外からドアを開け、心配するなと声をかけながら体をかぶせて私のシートベルトを外す。

 湿った雑巾のニオイがする。

「さあ、行こう」

「嫌です」

 言ってたじゃない。

 自分がしたいことを主張していいんだって。

 してほしいことを求めていいんだって、言ってたじゃない。

「玲哉さん、車を出してください」

「だめだ。ここで逃げたら、君は本当に逃げられなくなる」

 嘘つき。

 結局、私の話なんて誰も聞いてくれないじゃない。

 こうなるって分かってて、なのになんであんなに私のことを励ましてくれたの?

 世間知らずのお嬢様が得意げに語るお花畑の夢物語を笑って聞いていただけなの?

 ただからかっただけなの?

 全部嘘……。

 信じろって……。

 全部嘘じゃない!

 心の中に声が聞こえてくる。

 口答えをするな。

 口答えをするな。

 口答えをするんじゃない!

 はい、ごめんなさい。

 結局、私は私。

 何も決められないお花畑のお嬢様。

 ごめんなさい。

 私が間違っていました。

 生まれ変わるなんて、無理に決まってる。

 お母さん、わがまま言ってごめんなさい。

 口答えしてごめんなさい。

 もう何も言いませんから、だから、許してください。

 紗弥花は良い娘になります。

 真宮家にふさわしいお嬢さんになるために。

 口をつぐんで何も言わずに言うとおりにしますから。

 だから、今回の過ちを許してください。

 ――謝らなくちゃ。

 お母さんに謝らなくちゃ。

 今すぐ謝りに行かなくちゃ。

 私は自分から車を飛び出してエレベーターへと走った。

 驚いた玲哉さんが後を追いかけてくる。

「待てよ、紗弥花」

 さっきは待ってくれなかったくせに。

 嘘ばっかり。

 全部嘘。

 何も知らない馬鹿な女をもてあそんで都合が悪くなったら捨てるだけ。

 最初からそのつもりだったんでしょう。

 私だって、捨てられるつもりだった。

 そうすれば自由になれると思ってた。

 だから、それでいいと思ってた。

 だけど……、だけど……。

 だめ、泣いちゃだめ。

 こんな男に涙なんか見せたらだめ。

 言ったでしょう。

 ちゃんとお別れしなくちゃって。

 一夜限りの気まぐれに本気になるなんて。

 何もなかったみたいに、もっと、きれいにお別れしなくちゃ。

 ――だから……。

 泣いちゃだめ。

 エレベーターのドアが開く。

 中に入って地上階へのボタンを連打する。

 ゆっくりと閉まるドアの隙間にあの男が滑り込んでくる。

 壁際に下がった私に覆い被さるように、あの男が壁に手をついた。

「いいか、紗弥花」と、男が私の目を見つめる。「何があっても俺を信じろ」

 もう、いいです。

「迷うな。信じろ」

 だから、何を……。

 やっぱり、だめ。

 不安の渦に引き込まれたら、もう逃げられない。

 決められない。

 私には何も分からない。

 何を信じていいのかなんて分からない。

「愛してるよ」

「やめて!」

 唇を重ねようとする男を、私は拒んだ。

 それが最後の自己主張だった。

 エレベーターの扉が開いたとき、そこに待ち構えていたのは、昨日と同じ桜色のスーツを着た私の母だった。


   ◇


「まあ、何ですか、その格好」

 母は私の服装を上から下まで眺めて顔をしかめた。

「ごめんなさい。着替えがなかったので」

 私はハンドバッグをぎゅっと抱きかかえた。

 いつもそうだ。

 母と話す時はいつも何かをつかんでいないと不安で仕方がない。

「なんてみすぼらしいの」と、母は私を鼻で笑った。「和樹さんには何も伝えていませんからね。何もなかったことにしなさい」

 私の気持ちなど言ってはいけない。

 母の言葉が私の気持ち。

 私は母の言葉をなぞるだけ。

 それが正しい選択。

「はい。何もありませんでした」

「そう、それでいいのです」

 満足そうにうなずくと、母は玲哉さんに詰め寄った。

「とんでもないことをしてくれたものね」

 彼は何も言わない。

「あなたのしたことは顧客の利益に反する背任行為ですよ。真宮ホテルの莫大な価値を毀損して、補償できるのですか」

 男はただ観念したように目を閉じてうつむいている。

 ――そうよね。

『自分を大事にするのは自分だ』

 あなたはそう言ってたものね。

 私を励ましてくれていた言葉が、すべて反対の意味になって突き刺さる。

 あなたはただ自分を守りたいだけ。

 さようなら、玲哉さん。

 また母が腰に手を当てながら私に怒鳴った。

「財団も無断欠勤したそうね。社会人としての責任を自覚したらどうなの」

 すると、そこに男が割って入った。

「社会人としての人権を奪っておいて、その発言は容認できませんね」

「なんですって」と、母は語気を緩めず男と向かい合う。

「スマホなどの連絡手段も持たせず、現金もない。常識的な社会人の扱いではありませんよ」

「クレジットカードを持たせていますよ」

「親名義の家族会員ではありませんか。財団職員であれば、給与が支払われているはずです。しかし、紗弥花さんはそれを自分で管理させてもらっていません。これは財産権や自己決定権の侵害でしょう」

「法で揺さぶろうとしても無駄ですよ。真宮ホテルを汚そうとする害虫は徹底的に潰しますからね」

 母は落ち着き払って彼と向き合っていた。

「あなただって何も知らないうちの娘に暴行して精神的に支配したんでしょう。それは優位な立場を利用した洗脳ですよ」

 ――洗脳?

 やっぱり、私、この男にだまされていたの?

 何も知らないまっさらな私を手玉にとってニヤついていただけなのね。

「お言葉ですが、私と紗弥花さんは婚姻届に署名をしました。それは洗脳でも強制でもありません」

「そんなの、いくらでも無効申し立てはできます。一時的に世間に公表されたところで、こちらとしては、傷物の娘がこれ以上汚れたところでなんてことありませんよ。でも、あなたはこれまでのように羽振り良くやっていくことはできなくなるでしょうね。法的には何の問題もなくても、噂が広まれば社会的に抹殺される。あなたは、うちの娘がすすんで身を委ねたのだと主張するでしょうけど、そんなの誰が信じるのですか。潔白の証明は悪魔の証明と言われていることくらい、あなたには釈迦に説法でしょうけど」

 男は何も言わない。

 どうして?

 どうして反論しないの?

 お母さんの言うことが真実だから?

 いつも正しいのは母。

 正しく導いてくれるのはいつだってお母さんだった。

 だから、この男だって、母の前では無力なんだ。

 信じろなんて、ただの強がり。

 何の根拠もないから、だから、信じ込ませようとしていたのね。

 何もできない私と、無力なあなた。

 ごめんなさい、お母さん。

 やっぱり私が間違っていました。

 母は黙り込んでいる男に見切りをつけて私の前に立ちはだかった。

「和樹さんは、昨夜このホテルにお泊まりになっていたんですよ。あなたと二人で今後のことを話し合うために。なのにあなたはどこかへ行ってしまった。このような無礼が許されると思っているのですか」

「ごめんなさい。私が間違っていました」

 やっぱり私はお母さんに踊らされるマリオネット。

 勝手に動いてごめんなさい。

 たぶん、糸が絡まってたんです。

 玲哉さんと赤い糸で結ばれてるなんて、馬鹿なことを考えてごめんなさい。

「いいですか、和樹さんにお詫びするのです。今から部屋へ行って、まずはあなた自身の口からきちんとお詫びを申し上げ、許していただくのですよ。そして、私たちと今後のことについてあらためて話し合いを持っていただく。それが会社の存続にとっても、真宮家にとっても一番良い道筋なのですからね」

「分かりました」

 ちゃんと踊ります。

 お母さんの操る糸の通り、どんなに滑稽な踊りでも踊って見せます。

 だから……。

 だから、許してください。

 ごめんなさい。

「宮村」と、母が後ろに控えていたコンシェルジュを呼んだ。

「はい、奥様」

「紗弥花を和樹さんのお部屋へ連れていきなさい」

「かしこまりました」

 どうぞ、と宮村さんが手を廊下へと向ける。

 私は素直に従った。

「紗弥花」

 あの男が私の名を呼んでいる。

 宮村さんが立ち止まって振り向いたけど、私は先をうながした。

「よろしいのですか」

「行きましょう。私には関係のない人ですから」

「かしこまりました」

 和樹さんに許しを請い、出資契約を前に進めてもらうために。

 私は母の思惑通り、今からこの身を捧げに行くのだ


   ◇


 エレベーターで東新館の最上階へ上がる。

 スイートルームだけで構成されたフロアは静まりかえっていた。

 ラグビーで鍛え上げられた宮村さんの背中について歩く。

 刑務所の独房に送られる囚人のような気分だ。

 廊下の吸音カーペットにはアールヌーボー調の蔓草文様が織り込まれていて、小さい頃の私はこれをたどって歩くのが好きだった。

 ――あれ?

 ところどころに薔薇の花が織り込まれている。

 小さい頃は気がつかなかったな。

「宮村さん」

「はい、なんでしょうか」

「この床の素材は昔から変わりませんか」

「いえ、先代の昭一郎氏が引退する前に交換しております。以前の物と同じメーカーの製品ですが、デザインは昭一郎氏の意向を採り入れた当ホテルだけのオリジナルと聞いております」

 そうなんだ。

 こんなところにまでおじいちゃんの想いがこめられているんだ。

 そんな大事な真宮ホテルを私は潰してしまおうとしていたんだ。

 ごめんなさい。

 私は悪い娘でした。

 これからはちゃんと言われたことに従います。

 だから、許してください。

 インペリアルスイートの前で宮村さんが立ち止まる。

「よろしいですか」と、太い指でインターホンのボタンを押した。

 少ししてドアが開く。

 赤ら顔の和樹さんが顔を出した。

 ワイシャツにゆるんだネクタイ姿で、ジャケットを脱いでくつろいでいたらしい。

「ああ、紗弥花さん、どうしていたんですか。さあ、どうぞ」

「お待たせして申し訳ありませんでした」

 私が中に入ると、ドアを押さえてくれていた宮村さんが頭を下げる。

「では、わたくしはこれで」

「ああ、ご苦労さん」

 和樹さんが慌ただしくドアレバーを引き、後ろ手で鍵を掛けた。

 私は誘われるままに、部屋の奥へと進んだ。

 真正面の窓には東京タワーの脚が広がり、見下ろせば真宮ホテルの庭園が一望できる。

「何か飲みますか?」

 ソファセットのテーブルにはウィスキーの半分入ったグラスが置かれていた。

「いえ、結構です」

「遠慮しないで。二人の門出にシャンパンでも開けましょうか」

「いえ、まだ昼間ですし、私はお酒が飲めませんから」

「いいじゃないですか。どうせここには二人しかいないんだし。ずっとあなたを待っていたんだから」

 お酒臭い息がかかるほど和樹さんが顔を近づけてくる。

 私は思わず後ずさった。

 全身が粟立つ。

 毛虫が這い上がってくるような嫌悪感で体が震え出す。

「まあいいや。僕はこれをいただくよ」

 和樹さんはウィスキーのグラスを持ち上げながらソファに座り、隣を私に勧めた。

 ためらっていると、手が伸びてきて引っ張られそうになったので、私は自分からソファに腰を下ろした。

「紗弥花さん、僕はずっとあなたが好きだった」

 距離を保とうとしても、男が肩に手を回して大蛇のようにまとわりつこうとする。

「昨日はここで君と初めての一夜を過ごすはずだったんだ。僕たちはもう十年も前から、この日のために約束してきたんじゃないか」

 何を言ってるの、この人。

 全然言葉が頭に入ってこない。

 そんな約束したことなんて絶対にないし、単なる知り合い以上にこの人を意識したこともない。

 それは母が勝手に決めたこと。

 私の意思なんか関係なく、会社のため、家のために決められたこと。

 ――だけど、私はこの人の言いなりにならなければならないんだ。

 男が残りのウィスキーを一息にあおり、グラスをテーブルに置く。

「さ、あっちへ行きましょうか」

 ふらつきながら立ち上がった男がベッドルームを指す。

 ――嫌。

 気持ち悪い。

 嫌悪感が噴き上げてくる。

 本能が吐き気を催していた。

 私はもう知っているの。

 本当に大事な人が誰なのか。

 だけど、この人じゃない。

 こんな人なんかじゃない。

 絶対に違う。

 なのに、恐怖で声が出ない。

 私の声を押さえ込むように、心の中に声が響き出す。

 口答えをするな。

 言われたとおりに従え。

 おまえの気持ちなど聞く必要はない。

 指示に従いなさい。

 私はハンドバッグをぎゅっと抱きかかえた。

 消えて。

 お願いだから消えて。

 こんな声、聞きたくない!

「まあ、そんなに固くなることないさ。ほら、バッグなんか邪魔だろ」

 ――やめて!

 手を出そうとする男を払いのけて私は立ち上がった。

「私はもう、和樹さんの思っているような、清らかなお嬢さんじゃありません」

 酒臭い息を吐きながら男が飛び上がる。

「なっ……。なんだって」

「私は昨日、久利生玲哉さんのマンションへ行って、朝まで彼と二人きりでした」

「まさか! あいつと!?」と、男が両腕で私の肩をがっちりとつかんだ。「ちきしょう。裏切りやがって!」

「痛いです。放してください」

「言えよ。あいつに何をされたんだ!」

「私と玲哉さんは婚姻届に署名をして夫婦になりました。ですから、私はもうあなたと結婚することはできません。言うことを聞かせられる操り人形をお望みでしたら、他をあたってください」

「嘘だ!」

 血走った目で男が私をにらみつける。

 嘘じゃない。

 嘘なんかじゃない。

 私の大事な人、私が愛している人は玲哉さんなんだもの。

「お願いです。手を放してください」

「そんなことを言っていいのか」

 男は手を放すどころか、ますます力を込めて私をベッドルームへ連れ込もうとする。

「僕を拒絶したら、出資の話はご破算になって、真宮ホテルは倒産だ。君も、ご両親も無一文に転落するんだ。それでもいいのか」

 男の言葉が呪文のように私の抵抗力を奪う。

 ――ああ……。

 やっぱりだめだ。

 口答えなんかしちゃだめ。

 言うことを聞かなくちゃ。

 私の自己主張のせいでみんなが迷惑するんだ。

 だめ。

 おとなしく従いなさい。

 抵抗していた力が抜けていく。

 酒臭い息から顔を背けるのが精一杯だった。

 下品な笑みを浮かべた男が私をベッドルームに押し込み、そのまま力ずくで倒される。

「あのコンサルタントにやらせたんだったら、僕にもやらせろよ。いいだろ」

 ――嫌!

 なのに、声が、どうしても声が出てこない。

 かろうじて口づけを拒んだものの、男の手に顔を押さえつけられてしまう。

 このまま私はこんな男の言いなりにならなくちゃいけないの?

 口答えをしない良い娘として、こんな男の好きなように生け贄にされるの?

 それが正しい答えなの?

 答えて!

 誰か答えてよ!

 いつだって答えだけ押しつけて、誰も責任を取ってくれないくせに。

 私はまた自分の言葉を苦い薬として飲み込まされるんだ。

 だけど、嫌!

 こんな男に真宮ホテルに関わってほしくない。

 こんな人に出資なんかしてもらって続いたって、そんなのもう、みんなが大事にしてきた真宮ホテルなんかじゃなくなっちゃう。

 再度顔を近づけようとした男のネクタイが垂れ下がって指に絡む。

「ちきしょう、邪魔だな」

 体を起こした酔っ払いはネクタイの結び目に指を入れ、一気に引き抜いて投げ捨てた。

 と、その瞬間、別の男の顔が思い浮かんだ。

 ――助けて、玲哉さん!

 私の一番大切な人。

 自由になりたい私を受け入れて、そんな私のすべてを受け止めてくれて、私の苦しみも悲しみも寂しさも孤独も全部まるごと抱きしめてくれた人。

 何も知らない私をいたわってくれて、気遣いや思いやりで私のつらさをやわらげてくれた人。

 あれはもてあそばれたんじゃない。

 こんな卑劣な暴力なんかじゃなくて、洗脳でも支配でもない。

 私は自ら求めて彼を抱きしめていたんだ。

 私は愛を感じていたんだ。

 愛を抱きしめていたんだ。

 私を愛してくれた人。

 それは紛れもなくあの人だった。

 ――玲哉さん。

 どうしたらいいの?

 私の目から涙がこぼれ落ちる。

 お願い、玲哉さん、教えて。

 私を導いて……。

 そのときだった。

 ――声が、聞こえた。

『自分を大事にするのは自分だ』

 さっきは突き刺さった言葉が、今は私の盾となって守ってくれる。

 そうだ。

 自分が力を振り絞って抵抗しなくちゃいけないんだ。

 自分を守るのは自分。

 今はなりふりなんて構ってはいられない。

 とにかく声を出すの。

 叫んで!

 自分の意思を示すの。

 嫌だっていう気持ちを相手にぶつけなくちゃ。

 でも、なのに……。

 声がかすれて出てこない。

 叫ぼうとするのに体が震えるばかりで喉が詰まってしまう。

 しゃっくりのような音しか出てこない。

 男が私にのしかかってくる。

 いやです!

 やめてください!

 なんで……。

 どうして言えないの?

 どうして、声も出せないの、私……。

「うるさい! 黙れ!」

 目をつり上げた男が拳を振り上げていた。

 ――やめて!

 ぶたれる!

 私はぎゅっと目をつむった。

 固く閉じたまぶたから涙がこぼれ落ちた。

 でも……あれ?

 痛くない。

 いったい……、どうしたの?

「そこまでだ」

 落ち着いた声が聞こえて、そっと目を開けると、そこには酔っ払った男を羽交い締めにした宮村さんと、もう一人、拳をつかんでひねりあげた玲哉さんがいた。

 玲哉さん……。

 来てくれたんだ。

 やっぱり助けに来てくれたのね。

「い、痛いじゃないか。おい、やめろ」

 和樹さんが暴れて、かたわらに転がった私のハンドバッグからスマホが滑り出た。

 ――あれ?

 これ、玲哉さんのスマホだ。

 どうして私のバッグに?

「強姦未遂の現行犯で私人逮捕する」

 玲哉さんは現在時刻とホテルの住所を記録するために、淡々と自分のスマホに向かって録音した。

「これから警察を呼んで身柄を引き渡すまで、一橋和樹さん、あなたを拘束します。あなたの発言は裁判で証拠として採用されます。あなたには黙秘権があり……」

 押さえつけられていた和樹さんが叫ぶ。

「ふざけるな! こんなの茶番だ!」

「いいえ、私が証人です」と、宮村さんが太い腕に力をこめる。

 和樹さんは顔をゆがめながらなおも抵抗を続けていた。

「この女を使って俺を罠にはめようとしたんだろう。だいたい、おまえら身内だろう。そんな偏った人間ばかりの証言なんてあてになるもんか」

「私もいますけど」

 二人の後ろから顔を出したのは玲哉さんのマンションで会った司法書士さんだった。

 ――あれ、高梨さん?

「証拠もありますよ」

 手には別のスマホを持っている。

 スピーカーから音声が再生された。

『いやです! やめてください!』

 あ……。

 私の声だ。

 言えたんだ、私。

 言えたんだ……。

 ちゃんと言えたんだ。

 嫌だってちゃんと言えたんだ。

 喉が詰まって声がかすれてると思ってたけど、ちゃんと言えたんだ。

「高梨さん、どうしてここに?」

 ベッドから体を起こしてたずねると、慣れた調子で淡々と事情を話してくれた。

「三時間くらい前に久利生さんからメールが来て、真宮ホテルのラウンジで待機しててくれって言うんでアフタヌーンティーを楽しんでたんですよ。自分じゃ出せませんけど、経費で払ってくれるって言うんで。そしたら、さっき久利生さんから電話がかかってきたんですけど、なんか会話じゃなくて変な音がごそごそしてるんで、またなんかやってるみたいだなって、いつも通り録音してたんですよ」

 まあ、この人と仕事してるとよくあることなんで、と高梨さんは肩をすくめた。

「この女だって知り合いなんじゃないか。身内だろ」

 卑劣な酔っ払いはまだ抵抗を見せるけど、高梨さんは機械音声みたいに平板な調子を崩さなかった。

「私は今朝頼まれた荷物を届けただけで、一度お目にかかっただけの関係です。一般的に宅配便の配達員は顔見知りでも身内とは言えませんし、その証言は裁判で客観的証拠として正式に採用されますよ」

 宮村さんにがっちり抱え込まれて和樹さんがうなだれた。

 玲哉さんの姿を見て、私の気持ちも少し落ち着いてきた。

 地下駐車場で私が車から駆け出したときのことを振り返ってみると、いろいろと思い当たることがあった。

 あのとき、私に突き飛ばされた玲哉さんは少し遅れて追いかけてきた。

 歩幅が大きくて足の速い玲哉さんなら私がエレベーターにたどり着く前に追いついていたはずだ。

 なのに、エレベーターにぎりぎりのタイミングで滑り込んできたのは、スマホで高梨さんに通話をつなぎながら走っていたからなんだろう。

 そして、エレベーターで壁に手をついて『信じろ』と言っていたときに、玲哉さんは私のハンドバッグに通話状態のスマホを潜り込ませていたのだ。

 まるで手品みたいな手法で、部屋の外で状況を把握しつつ、全部録音していたんだ。

 こうなることも全部予想して、先回りして証拠を集めてくれていたんだ。

 だから母の罵倒にも黙って耐えていたんだ。

 全部、私のため。

 私を自由にするための演技だったんだ。

「玲哉さん!」

 私は和樹さんの腕をひねり上げている大事な旦那様の胸に飛び込んだ。

 玲哉さんは卑劣な男を宮村さんにまかせて私を抱きしめてくれた。

「すまない。怖かっただろう」

「はい、怖かったです」

「ああ、いいんだよ。怖いって言っていいんだ。嫌だって言っていいんだ。いつだって俺が守ってやるから、だから、もう大丈夫だ」

 こんなに頼りになる人なのに、一瞬でも信じられなくてごめんなさい。

 玲哉さんが優しい目で私を見つめる。

「ちゃんと自分で自分を守れたんだ。できただろ。もう心配いらない。俺がそばにいるんだから」

『自分を大事にするのは自分だ』

 私が自分を守ろうとしたから、玲哉さんが守ってくれたんだ。

 窓の外には大粒の雨が打ちつけていた。

 でも、そのときだった。

 悪意のこもった黒い声がそんな雨の音を遮った。

「ちょっと、あなたたち、これはどういうことなの。いったい何をしているのですか」

 インペリアルスイートのリビングルームから、父を引き連れた母が顔を出していた。

「あ、お母さん、助けてください。これは誤解なんです」

 和樹さんに哀願された母が宮村さんを叱りつけた。

「宮村、失礼ですよ。和樹さんをお放ししなさい」

「ですが、奥様」

「あなたはこのわたくしに口答えをするつもりですか!」

 宮村さんが渋々と和樹さんを放した。

 拘束を解かれたものの立ち上がる気力もないらしく、みんなに取り囲まれながら輪の中心でへたり込んだ男は、この期に及んでもまだぶつぶつと恨み言をつぶやいていた。

「こ、こんなのずるいぞ……。罠だ。ぼ、僕を陥れようとしたってこんなの無効だ。脅迫だ。捏造だ……。全部仕組まれたでたらめだ」

 玲哉さんが私の肩を抱きながら和樹さんに冷徹に告げた。

「それは悪魔の証明ですよ。あの録音がある以上、世間はどちらを信じるでしょうかね」

 自分の皮肉にあてつけられた母が渋い表情で玲哉さんをにらみつける。

「だいたい、君たちは失礼じゃないか」と、やけ気味に酒臭い息をまき散らしながら宮村さんに食ってかかる。「ここは僕の部屋だぞ。いくらホテル従業員だからといって、宿泊客に無断で客室に入ってくるなんて、おかしいじゃないか。真宮ホテルっていうのは、こんな三流の対応をおもてなしとか言うつもりか」

 宮村さんは淡々と事務的に答えた。

「失礼ながら、一橋様、ここはあなたの部屋ではありませんよ」

「何を言ってる。僕が泊まっていた部屋なんだから、僕の部屋に決まってるだろう」

 玲哉さんが冷ややかな目で男を見下ろす。

「あなたは昨日チェックイン手続きを行いましたか?」

「いや、僕は契約のために招かれた客だぞ。いちいちそんな手続きをする必要はない」

「宮村さん、この部屋は誰の部屋ですか」

「奥様からの依頼で、紗弥花お嬢様の名義でご予約を承っておりました」

 えっと、私は何も……。

 でも、昨日の契約の段階では、母は私と和樹さんを二人きりにするつもりだったんだろう。

 やっぱり私は自分からすすんで生け贄になるように仕向けられていたんだ。

 玲哉さんはそんな私の動揺を察知したのか、肩に回した手に力を込めてくれた。

 ――大丈夫。

 指先から立ち上る紫の香りとともに、そんな声が聞こえた気がした。

「予約者はあなたではないし、宿泊手続きもおこなっていない。つまり、一橋さん、ここはあなたの部屋ではないことは明らかです」

「だ、だが、僕だけを悪者にしようとしたって、そうはいかないぞ。お、おまえだって依頼人である僕を裏切ったじゃないか。僕の婚約者を奪い取って無理矢理結婚したくせに。僕もおまえらを訴えてやる!」

「まあまあ、和樹さん」と、母が間に入る。「それはなかったことにいたしますから……、なにとぞ穏便に」

 玲哉さんがそんな二人の様子を見て鼻で笑う。

「結婚? 何のことでしょうか」

「言い逃れするつもりか。紗弥花さんが言ってたぞ。夫婦になったって」

「これのことですか」

 玲哉さんは私に微笑みかけながら一歩退くと、スーツの内ポケットから四つ折りの紙を取り出して広げた。

 私たちの名前が記入された婚姻届だ。

 え、ちょっと……。

「なっ、ど、どういうことなんだ?」

 和樹さんまで驚いているけど、私の方が叫んでしまいそうだった。

「たしかに二人で署名はしましたが、役所に行く暇がなかったので、まだ提出していなかったんですよ。だから私たちは夫婦ではありません」

 あっ……。

 そういえば、そうだ。

 署名しただけで結婚が成立してたと思ってたけど、すぐに千葉の薔薇園に向かったから、確かに二人で区役所に提出に行く時間はなかったっけ。

 なんだ、舞い上がってたのは私だけだったんだ。

 私、やっぱり、お花畑のお嬢様なのかな。

 でも、そんなふうに落ち込んでいるどころではなかった。

 玲哉さんが取った行動は、予想のはるか斜め上だった。

「お望みなら、こうして」と、玲哉さんは婚姻届を破り始めた。「破棄しますよ」

 ――あっ!

 四つ折りにした婚姻届をためらいもなくびりびりとこなごなに破る。

 宮村さんがまるで手品師の助手のようにゴミ箱を差し出すと、玲哉さんは紙くずとなった婚姻届をあっさり捨ててしまった。

「つまり、私は依頼人であるあなたを裏切ってはいません。あなたが勝手に不法行為を働いただけです」

 和樹さんも呆然としていたけど、それは私も同じだった。

 なんで……、どうして?

 破いちゃうの?

 せっかく二人で誓い合ったのに。

 本当は結婚する気なんかなかったの?

 私はただのゲームの駒として使われただけなの?

 やっぱり、嘘は嘘だったんだ。

 つむじ風にあおられるのぼり旗みたいに気持ちが翻弄されて、もう、何が本当で、何を信じたらいいのか、さっぱり分からない。

 ちゃんと照れながらプロポーズしてくれたのに。

 署名した婚姻届まで破り捨てて。

 むしろゴミ箱から炎でも上がってくれた方がタネのある手品で良かったのかもしれない。

 玲哉さんはそんな私の困惑など気にせず、和樹さんと話を続けている。

「あらためて紗弥花さんは自由の身ですから、当初の計画通りご結婚なさって出資してはいかがですか。真宮ホテルも紗弥花さんもあなたの物ですよ」

 ちょっと待って。

 自由って、私が求めていたのはそんな意味の自由じゃない。

 私をこんな男と結婚させるつもりなの?

 冷たい汗が噴き出してきて、気持ちが悪い。

 玲哉さんの考えていることがまるで分からない。

 だけど、信じていいの?

 これも何かの演技なの?

 和樹さんは肩を震わせながら立ち上がると、吐き捨てるように叫んだ。

「うるさい。今さらこんな女、こっちからゴメンだ。契約は破棄だ」

 そっくりお返しします。

 私もあなたみたいな人はお断りです。

「こんな女……!」と、和樹さんは私に向かって人差し指を突き出し、何かをわめき散らした。

 それは私の知らない言葉だった。

 だけど、周囲の人たちはみな引きつったような表情をしていたから、おそらくひどい意味の言葉だったんだろう。

「俺の大事な紗弥花を侮辱するな!」

 次の瞬間、玲哉さんが殴りかかろうとするのを宮村さんが必死になって羽交い締めにしていた。

「久利生さん、駄目です」

「そうですよ。こんなクソ野郎と同類になっちゃいますよ」

 高梨さんも間に入って両腕を突き出している。

 ――俺の大事な紗弥花。

 今、玲哉さんがそう言ってた。

 やっぱり、信じていいんだ。

 よかった。

 全部、本当だったんだ。

 和樹さんの言葉は私には理解できない内容だったけど、玲哉さんが私のために怒ってくれたのがうれしかった。

「帰らせてもらう」

 宮村さんに抑えられている玲哉さんを避けながら和樹さんが出口へ向かう。

 あわてて母がすがりついた。

「まあ、和樹さん、そんなことおっしゃらずに、もう一度考え直してくださいな」

「断る。もう二度と関わりたくない」

「そんな」と、母が絶句した。「それでは真宮ホテルはどうなるのですか」

「知るか。こんなホテル潰れてしまえばいいんだ」

「和樹さん、お待ちになって」

 母の懇願も虚しく、卑劣な男は逃げていった。

「ああ、いったい、どうしたらいいの」

 膝から崩れ落ちた母に寄り添ったのは父だった。

「もういいから。あきらめなさい」

「だって、あなた……」

 涙がこぼれ落ちる目で母は私をにらみつけていた。

 ――どうして?

 どうしてそんな目で見るの?

 言いなりにならなかった娘がそんなに憎いですか?

 会社や家のために犠牲にならなかった私はあなたの娘にふさわしくないんですか?

 ――やっぱり、だめなんだ。

 手を伸ばせば触れあえる距離なのに、母との間には超えられない溝がある。

 そしてそれはますます深くなるばかりだった。

 山火事が消えてしまったかのように静まりかえったインペリアルスイートで、宮村さんから解放された玲哉さんが落ち着きを取り戻してスーツのほこりを払う。

「あんなやつ、警察に突き出してやりたかったんだが」

「もう、いいですよ」と、私は玲哉さんの腕にしがみついた。「私も関わりたくないですから」

「そうだな。危険な目に遭わせてすまなかった」

「それより、婚姻届が……」

 わたしは、本気だったんですけど。

 もう一度、署名してくれますか?

「ん?」と、玲哉さんはスーツの内ポケットに手を入れた。「これのことか?」

 ――あれ?

 出てきたのは、さっき破ったと思った婚姻届だった。

 ちゃんと私たちの署名もある。

「手品?」

「べつになんてことはない」と、玲哉さんは冷静な態度で私に手渡した。「最初から偽物を用意しておいて、わざと大げさに破いてみせただけだ」

 へえ……、そうだったんだ。

 ほっとして力が抜けてしまった。

「こうなると予想して準備しておくなんて、すごいですね」

「たいしたことじゃないさ。言っただろ。書類ならなんでも用意してあるって」

 横で高梨さんが笑いをこらえている。

 なんだろう。

 何か変なことあったっけ?

 ――えっと……。

 あ、もしかして。

 私は奇妙なことに気がついた。

「そういえば、さっき破った方にもちゃんと私の名前が書いてありましたよね。あれは誰が書いたんですか?」

 今思えば、私の筆跡ではなかったような気もする。

「そうだったか?」と、玲哉さんが急に視線をそらした。

「ありましたよ。だから私もてっきり本物だと思ってガッカリしたんですから」

「まあ、それは……だな。あれだ」と、玲哉さんが口ごもる。「俺が書いておいたんだ。まあ、本物らしく見せかけないとな。敵を欺くにはまず味方からとも言うし」

 高梨さんがこらえきれずにおなかを抱えて笑い出す。

「どうせ、紗弥花さんの名前が自分の名字と合うかとか、ドキドキしながら練習してたんじゃないんですか。そんな恥ずかしい証拠を残しておけないから、都合良く破り捨てただけでしょうよ」

 ――はあ?

 眉をつり上げ、耳を真っ赤にしながら玲哉さんが首を振る。

「そんなわけあるか。姓名判断というか、名字と名前のバランスがどうかなと、ほら、名字も名前も三文字ずつだから記入欄にちゃんと書けるかとか、いろいろ心配するだろ。事前の準備はなんであれ大事だからな」

 結局、書いてたんじゃないですか。

 でも、じゃあ、玲哉さんはあのときの流れでいきなりプロポーズしたってわけじゃなくて、私と一夜を過ごしている間にちゃんと考えてくれてたってことなの?

 冷徹なコンサルタントの仮面の下で、ずっと、ドキドキしてくれてたんだ。

「意外と乙女なんですね」

 お花畑の私でも名前が合うかなんて考えなかったな。

「違うと言ってるだろう」

 頬まで赤く染まってますけど。

「でも、良かったです。本当に破いたんじゃなくて」

「書類が命の仕事だからな。大事な婚姻届をそんなふうに粗末に扱うわけないだろ」

 もっともらしいことを言って、まだごまかそうとしてる。

 後ろで宮村さんまで笑いをこらえてますよ。

「だが……」と、玲哉さんは真面目な表情に戻って人差し指を立てた。「まだ問題が残っている。このまま役所に提出はできない」

「どうしてですか?」

「本人だけでなく、他に証人二人の署名がいるんだ」

 ああ、そうなんだ。

「そこで、お義父さん、お義母さん、こちらにご署名をお願いします」

 玲哉さんはソファセットのテーブルに婚姻届を広げて置いた。

 宮村さん以外のみんながそれぞれソファに腰を下ろす。

 父が胸ポケットから万年筆を取り出しながら宮村さんに飲み物を頼んだ。

「すまないが、コーヒーをみんなに頼む」

「かしこまりました」

「フォームミルクはありますか」と、玲哉さんがすかさずたずねた。

「ございます」と、笑顔で応じる。

「じゃあ、たっぷりで」

「はい、ただいま」

 手際が良く、部屋に備え付けのコーヒーメーカーからさっそくいい香りが漂ってくる。

 その間に父はあっさりと婚姻届の証人欄に署名してくれた。

 でも、やっぱり母は父から万年筆を受け取ろうとしなかった。

「私は嫌ですよ。こんなの認めませんからね」

 署名を拒む母を父が諭した。

「もういいじゃないか」

「よくありませんよ。出資してもらわないと、会社はもたないんですから」

 ため息交じりに父が首を振る。

「実は、一橋家の会長には、白紙にしてくれるようにさっき私が詫びを入れてきた」

「なんですって!」と、母が腰を浮かさんばかりに責める。「まあ、あなた、なんてことを。私に相談もなく」

「いくら会社のためとはいえ、紗弥花が望まないのなら、父としては無理にすすめるわけにはいかないだろう」

「お待たせいたしました」

 母が何か言いかけたところで、宮村さんがコーヒーをみんなに配った。

 相変わらずミルクたっぷりの玲哉さんに高梨さんが冷笑を浮かべている。

 コーヒーを一口味わったところで、父が話を続けた。

「契約を白紙にしてもらおうと頭を下げたら、向こうはそんな話は知らないと言うんだ。どうも和樹君が紗弥花を手に入れたくて独断で契約を結んだらしい。経営の決定権は代表者である社長の和樹君にあるとはいえ、向こうの実質的な代表者は会長であるお父さんだ。そのお父さんが結婚はともかく出資などできないと言うのだから、前提も何も、この話は最初から成立していないということだよ」

 母は頭を抱えてため息をついた。

「まあ、そんな……。なんてことなの」

「久利生くん」と、父は玲哉さんに向かって頭を下げた。「こんな事態になって非常にお恥ずかしいことだが、娘をよろしく頼む。それと会社のことも、あわせてお願いしたい。出資者を見つけてもらえないだろうか」

「ちょっと、あなた、何を言ってるんです。私は許しませんよ」

 そして母は私と玲哉さんをにらみつけた。

「どうやって娘をだましたのか知りませんけど、昨日会ったばかりで、もう結婚なんて、そんな話、通用すると思ってるんですか」

「お言葉ですが」と、玲哉さんはあくまでも冷静に答えた。「私は紗弥花さんを愛していますし、紗弥花さんのために、真宮ホテルや薔薇園を再建したいと思っています」

「ですから、口では何とでも言えるでしょう。あなたはただ単に会社を乗っ取る手段としてうちの娘を利用しようとしているだけじゃないの」

「違う!」

 思わず私は叫んでいた。

「……違うの」

 母に口答えするなんてできるはずもないし、感電したみたいに手が震えているけど、もうそんなことはどうでも良かった。

 私は言わずにはいられなかった。

 気持ちよりも先に、声が出ていた。

 そんな私を、母は博物館の奥に展示してあった奇妙な化石が動き出したかのような目で見ていた。

「私が決めたの。私は玲哉さんが好きなの。たしかに知り合ってまだほんの少ししか一緒にいないけど、でも、分かるの」

 この気持ちは幻じゃないし、嘘でも偽りでもない紛れもない本物。

 言葉では説明できないけど、だからこそもどかしいけど、だけどお願い、私の気持ちは本気なの。

 だから……、認めてよ。

 でも、やっぱり母は母だった。

「何も知らないあなたにいったい何が分かるというのですか!」

 怒鳴りつけただけで、私の話など聞いてもくれなかった。

「分かるさ」

 ――え?

 横から口を挟んだのは、私の話に耳を傾けてくれていた父だった。

「人を好きになるっていうのはそういうものだ」と、父は横で見つめる母に微笑みかけた。「私だって、雪乃、君に出会った時にそう思ったんだからな」

 母は急に顔を赤らめて視線を泳がせはじめた。

「あなた、な、何を……」

 ゆっくりとコーヒーを一口すすり、父がふっと笑みを浮かべた。

「一目惚れだったんだよ、私もね」

 父がもう一口コーヒーを含む。

 居合わせたみなが続きを待っていた。

 母だけはピアノを弾いているかのようにせわしなく指で膝をたたいていた。

「あれは今から三十年前、真宮ホテル創立百周年記念パーティーのときだ。私は入社三年目だった。庭園で政財界のお歴々をもてなしていたんだが、庭園の池に鮮やかな錦鯉が浮かんできたんだよ」

 父がチラリと母を見やった。

「君は覚えていないだろうな。それを見た君が、『ほら見て、鯉』と私の腕に絡みついてきてね。隣にいた昭一郎さんと間違えたんだろうが、一瞬で恋に落ちたんだ」

 そんな馴れ初めがあったなんて聞いたことなかったな。

 なんか、聞いてる私の方が照れくさくなってしまう。

「その時はまだ社長の娘だとは知らなくてね。それまでも何度か見かけていたから社員の一人かと思っていたんだが、同僚に教えてもらって絶望的な気持ちになったよ。なにしろ私は学生時代にも女性と交際したことなんかなかったからね。普通に告白するだけでも無理なのに、まして相手は社長の娘じゃ、諦めるしかなかったんだ」

「でも、今こうなってるってことは、告白したんですよね」

 高梨さんがまるでインタビュアーのように前のめりになってたずねると、父は照れながらうなずいた。

「まあ、そうなんだが、それほど単純ではなくてね」

 母はうつむいたきり何も言わなかった。

「この人だって思ったんだよ。自分はこの人と出会うために生きてきたんだって、話をしたこともなかったのに、そうだって分かったんだよ。だけど、優柔不断な性格が災いしてね。それからも何度か真宮ホテルに来た雪乃の姿を見かけても私は話しかけることができなかった。一社員に過ぎない男が急に交際を申し込むなんて失礼なことだと思っていたし、もちろん、断られるのが怖かった。だから私は思いきって社長室に直談判に行ったんだ。雪乃さんと交際させてくださいと」

「本人じゃなくて、社長さん、つまりお義父さんに会いに行ったんですか」

「おかしなものだよ。入社三年目の平社員のくせに、社長に会いに行く度胸はあっても告白する勇気はなかったんだからな」

 自虐的な笑みを浮かべつつ、父は宮村さんにコーヒーのおかわりを頼んだ。

「そしたら、お義父さんはね、落ち着き払ってこう言ったんだ。『それは言う相手が違うんじゃないかね』と。だけどね、『だが、君を応援してやろう。娘をここに呼ぶからあとは若い二人で決めればいい』と、言ってくださったんだよ。『取引はフェアでなければならない』とね」

 あれ、なんか聞いたことあるセリフ。

 なんとなく玲哉さんの方を見たけど、ミルクたっぷりコーヒーに口をつけて父の話に聞き入っているだけだった。

「で、うまくいったわけですよね」と、高梨さんが先をうながした。

「ああ」と、宮村さんからコーヒーを受け取りながら父がうなずいた。「意外なほどあっさりとね」

 今度は母が顔を隠すようにカップに口をつけていた。

「一度始まってみれば、最初からお義父さん公認だったから、ずいぶん健全な交際だったものだよ。真宮ホテルで待ち合わせて庭園で話したり、同僚からは接客研修じゃないかって笑われたものさ」

 テーブルの上にカップを戻すと、母はピントの合わない視線をさまよわせながらぽつりとつぶやいた。

「真面目だけが取り柄の人でしたからね、あなたは」

「優柔不断な男の唯一の決断がそれだった。私は今でも後悔なんかしてないよ」

 だが、と父は寂しそうに言葉を継いだ。

「社長になったのは完全に間違いだったよ。元々私は社長なんて地位にはまったく興味がなかった。私はただ雪乃のことを愛したからこそ、結婚したんだよ。だが、何をやってもまわりからは財産目当ての婿養子としか見られなくてね。社長の娘と結婚するというのはどうしたってそういうことになるからな。若いときから経営陣の一人としてお義父さんの下について事業継承の修行を続けてきたんだが、実際、私には経営の才能なんてなかったんだよ。伝統を維持していくのが精一杯で、真宮ホテルのこれからの姿を示すビジョンなんて、私には何も思いつかないんだ。現状を維持するだけでも、変えようとしても、どちらにしろそんなのは真宮ホテルじゃないと批判される。背負うものが重すぎたんだよ」

「私はあなたが社長になりたいのだと思ってましたよ」

 父が力なく首を振る。

「私は決断力のかけらもない男だよ。管理職としては優秀だったかもしれないが、決断のできない性格は経営者に向かないと分かっていたんだ。私は社長になんかなりたいと思ったことはないんだ。だが、自分からそれを口にすることすらできなかった」

 母は父の話を聞いているのかいないのか、両手で冷めたコーヒーカップを包むように持ったまま黙っていた。

 父はそんな母の横顔を見つめると、ほんの一瞬息を止め、静かに続けた。

「だから、もういいじゃないか。頑なになったところで会社は救われないよ。もう私たちにできることなど何もない。新しい出資者を探してもらって、経営を立て直してもらうしかないんだよ」

 弱気な父を母が責める。

「ここまで守り抜いてきた真宮ホテルを投げ出すなんて許しませんよ。筆頭株主はこの私ですよ。私の意向を無視するのですか」

 母の強い口調に負けずに、父もぴしゃりと言い切った。

「ならば私を解任したらいい」

「なっ……」

「私が社長で居続けたら会社はなくなる。ならば私が辞めるしかないんだよ」

 肩の荷を降ろしたように、父の背中が丸まっていた。

 みなに聞こえるようにため息をついた母がつぶやく。

「ずるいですよ。あなただけ逃げて」

 父はすまなそうに目を閉じた。

 声を震わせながら母がたまっていた思いを吐き出した。

「私だって、違う家の娘だったらと何度思ったことか。生まれたときから社長の娘。しかも、海外にも知られた名門、真宮ホテルのお嬢さん。どこに行っても、その名前がついてきて、息もできませんでしたよ。近寄ってくるのは財産か出世目当ての気持ち悪い男ばかり。でも、あなただけは違ってましたよ。あなただけは私をちゃんと見てくれた。だから私もあなたに惹かれたんです」

 でも、と母はいったん言葉を切って細く息をついた。

「あなたは間違ってますよ」

「ああ、そうだな」と、父が目を開いてうなずく。「逃げるのは良くないことだ」

「違いますよ」と、母は泣き笑いのような表情を浮かべた。「覚えてるんですよ。私だって忘れるもんですか」

 一瞬、虚を突かれたように戸惑う父に、母は息を継がずに続けた。

「あれはわざとですよ。間違えたふりしてわざとあなたの袖を引っ張ったんです。そうでもしないと、堅物のあなたを振り向かせるきっかけなんてつかめないと思ってましたから。私も一目惚れだったんですよ。私だってあなたを見ていたんです。私もあなたと結婚したのを後悔したことなんかありませんよ」

 そうか、と父は目尻を下げながら微笑んだ。

「なら、紗弥花のことも……」

 母は言葉をかぶせて甘い雰囲気を断ち切った。

「それとこれとは別です。私は認めませんからね」

 結局、話は元に戻ってしまった。

 お父さんの甘酸っぱい思い出話だけが宙に浮いてしまった。

 前のめりの姿勢だった高梨さんがため息をつきながらソファに体を預ける。

 玲哉さんも顎を手でさすりながら曖昧な笑みを浮かべるばかりだった。

 ――そう。

 やっぱり母は変わらない。

 これまでもそうだったんだし、期待するだけ無駄なんだろう。

 私の中では、むしろその方が母らしいという諦めの気持ちが渦を巻いていた。

 母の境遇には私と共通するところもある。

 だけど、だからといって私だっていきなり素直に和解することなどできなかった。

 母が急に立ち上がった。

「宮村」

「はい」

「帰ります。車を用意しなさい」

「かしこまりました」

 そのまま何も言わずに母は宮村さんをともなって出て行った。

 沈黙に覆われたインペリアルスイートの窓に目をやると、打ちつける雨の向こうに煙った東京タワーがかすかに見えた。

 ソファから体を起こした父が膝に手を置いて玲哉さんに頭を下げる。

「すまないね。雪乃もいろいろなことが一度に起きて混乱しているんだよ。なんとか説得してみるから、あらためて紗弥花と会社のことを頼むよ」

「いえ、証人になっていただけただけでも感謝しております。出資者選定についてもお任せください」

 高梨さんが空欄の残った婚姻届を取り上げた。

「結局、あと一人証人を探さないといけませんね」

「高梨さん、せっかくですから証人になっていただけませんか」

 私がお願いすると、渋い表情が返ってきた。

「この人の保証人ですか」と、玲哉さんを指さす。「仕事ができるのは認めますけど、紗弥花さんを幸せにできるかどうかは不安なんですけど」

 ひどい言われようなのに玲哉さんは苦笑を浮かべたまま反論しない。

 何か心当たりあるんですか?

 私の送った視線に気づいて、慌てた顔で手と首を振る。

「まあ、いいですよ」と、高梨さんがペンを取り出した。「アフタヌーンティーをおごってもらえたし、貸しを作っておくのも悪くないんで」

 さらさらと空欄が埋まって、今度こそ婚姻届が完成した。

「ありがとうございます」

 高梨さんから受け取った書類は紙一枚なのに、とても重く感じられた。

「じゃあ、これから提出に行くか」

 玲哉さんが立ち上がると、まわりも続いて、安堵したように背を伸ばした。

「はい。でも、その前に」と、立った勢いのまま私は玲哉さんの腕に絡みついた。

「ん、なんだ?」

「下にあるホテルのブランドショップでパジャマを買っていきましょうよ。裸で寝てたら風邪を引いちゃいますし、おそろいのパジャマで寝るのって憧れじゃないですか」

「お、おう……」と、玲哉さんが顔を赤らめる。「そ、そうだな」

 父も咳払いをして窓に視線を向けている。

 高梨さんがクスクスと笑いながら部屋を出て行く。

「紗弥花さん、新婚早々ごちそうさまでした。おなかいっぱいです。お幸せに!」

 ――え?

 あっ!

 ばつが悪そうに鼻の頭をかく玲哉さんから、私は慌てて飛び退いた。

「ほら、お義父さんも困ってらっしゃるじゃないか」

「いやいや、いいんだ。相性もいいみたいだし、娘が幸せなら、父としてはこれ以上うれしいことはないんだよ」

 父も顔を赤らめながらくるりと背中を向けて逃げるように部屋を出て行く。

「あ、あの、お父さん、そういう意味じゃなくて」

 じゃあ、どういう意味だと言われると困るけど、とにかく、ただおそろいのパジャマを着てみたかっただけなのに。

 と、入れ替わりに宮村さんが戻ってきた。

「ああ、お嬢様、まだいらっしゃいましたか」

「はい。ちょうどこれから婚姻届を出しに行くところです」

「先にパジャマだろ」と、玲哉さんが横からわざとらしく口を挟む。

「パジャマでございますか?」と、宮村さんがいぶかしがる。

「いえ、なんでもありません。それより、何かありましたか?」

「こちらを奥様からお預かりして参りました」

 差し出されたのは預金通帳だった。

「これまでの給与が振り込まれているそうです」

 ああ、ちゃんと振り込まれていたんだ。

 中を見てみると、三年分のお給料七百万円近くが手つかずのまま積算されていた。

「これを……?」

「お嬢様に渡すこと以外に奥様は何もおっしゃってはおりませんでしたが、奥様なりのご結婚のお祝いなのではないかと」

「もともと紗弥花が受け取るべき正当な報酬だろうに」

 玲哉さんが厳しい口調で言ったせいで、宮村さんが恐縮してしまった。

「ええ、まあ、それはそうでございますが」

 気まずい空気が流れてしまったのを紛らせようと、私は無理に笑顔を作ってみせた。

「良かったです。これでパジャマが買えますから」

「はあ」と、宮村さんは困惑顔を残したままインペリアルスイートのドアを開けてくださった。「では、お嬢様、末永くお幸せに」

「ありがとうございます」

 廊下に出て、私はあらためて玲哉さんの腕に絡みついた。

「ああ、恥ずかしかった」

「まったく、紗弥花は天真爛漫でこっちがヒヤヒヤさせられるよ」

 でも、と、玲哉さんはエレベーターの呼び出しボタンを押しながら、私の腰に手を回して抱き寄せた。

「そんなところに惚れたんだけどな」

 エレベーターを待っている間、私は玲哉さんにお願いごとをした。

「さっき、敵を欺くには味方からって言ってたじゃないですか」

「ああ、まあな」

「何が本当で何が嘘なのか分からないと不安なんで、合図を決めておきましょうよ」

 そうか、すまなかったなと笑いながら玲哉さんが首をかしげた。

「何がいい?」

「ウィンクはありきたりですかね」

「こうか?」

 玲哉さんがまつげの長い目をパチパチとさせるけど、埃が入った人みたいだ。

「下手ですね」

「なんだよ。じゃあ、君がお手本を見せてみろよ」

 えっと……。

 パチッ!

「こ、こうですか?」

「だめだ。却下」

「なんでですか。うまくいったと思うんですけど」

「いや」と、玲哉さんが耳を赤らめながら手で自分の口を塞ぐ。「かわいいなと思って」

「じゃあ、いいじゃないですか」

「だめだ」と、私に唇を寄せてきた。「他の男に見せたくない」

 ――もう、ばか。

 到着したエレベーターのドアが開く。

 私の腰に手を回したまま乗り込み、器用にボタンを押すと、また口づけを迫ってきた。

「防犯カメラに写ってますよ」

「お義父さんに怒られるかな」

「それはべつにいいですけど」と、私は玲哉さんの目を見つめた。「強引すぎますよ」

「嫌か?」

「そんなところに惚れたんですけど」

「だろ?」

 一階に到着するまでの短い時間も惜しんで、私たちはお互いの愛を確かめ合っていた。

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