第3話 騎士入団試験と青い鳥

ハテム ストラベッシーはコンセンス王国第一近衛騎士団の副団長だ。そして火の国の巨人族でもある。優に2m半は越す体躯にも恐怖を覚えるがそれだけではない。使っている獲物が実に恐ろしい。鋭い鎌の付いた先端の刃にチェーンで繋がれた大きな石の錘(おもり)。人を殺めることにしか特化していないような武器だ。だから、まともに演習の相手をする者もいない。相手をするのはシォドア隊長か……

「おい、リオ!ちょこまかと逃げてばかりいないで打ち込んでこんか!」

体に似合う地響きのような大きな声で挑発する。そんな簡単に言われても、間合いに入った途端にその恐ろしい鎌が襲ってくることはわかりきっている。こちらも練習用の木刀ではなく刃の付いた剣を持っているがそんなことで有利に戦えるような相手ではない。意を決して、真正面から走り込む。

カチン!!

鎌と剣が弾き、火花が飛んだ。すぐさまバックステップを取り、体勢を整えた。来る!石の錘がチェーンに連れられて襲う。高くジャンプすることで避けるとまた素早く間合いから離れた。

ハテム副団長は、すでに肩で息をしている。大きな体を動かすのはそれだけエネルギーを必要するのだろう。攻撃は今のように単調だ。まず鎌、そして追撃に石。慣れれば躱すことは容易い。少しずつ反撃を繰り返して、体力を削り、疲れて攻撃のスピードが落ちたところで片を付ける。シォドア隊長の演習戦を見て理解はしていた。だが、理解をするのと実現を果たすのには大きな壁がある。すかさず二刀目の攻撃を浴びせる。攻撃しつづけなければ、体力が回復してしまい、削れないからだ。今度は左右に二振り、分散させた攻撃を撃つ。

ガチン!ガキッ!!

素早い二回目の太刀は、ハテム副団長が少し鎌をズラすだけで簡単に凌がれてしまう。体が大きいだけに小さな振りではビクともしない。こちらは追撃の石のための時間が取れずに両手をついてカエルのように足を跳ね上げることで何とか凌いだ。ついた両手で宙返りをしてまた距離をとる。

「はっはっは。もはや曲芸だな」

とハテム副団長はまだまだ余裕の様子だった。冗談じゃない。あの石の錘を食らったら打撲どころじゃすまない。冷や汗が背中を伝う。

「さて、そろそろ降参にするか?」

のしのしと、大きな体を揺らしながらハテム副団長がこちらの間合いに近づく。じりじりと、後退をしながら、距離を諮る。演習場の枠いっぱいにまで追い込まれると、猛烈な勢いで走り出した。剣を真っすぐ獲物の中央にある鎖に目掛けて差し出す。

「???」

こちらの意図を汲めずに、ハテム副団長は武器をブーンと回した。まるでカンフー映画のヌンチャクのように。剣はガチンといって鎖の中に嵌った。そのまま剣を放さずハテム副団長の胸当てに両足をついて蹴り込んだ。

「何をこしゃくな」

意図は割れた。互いの武器を使えなくすることで引き分けに持ち込もうとした浅知恵を察したハテム副団長は、獲物の両端を持って大きく振り上げ急激に振り下ろした。堪らず私の体は空中に放り出され、鎖から外れた剣とともに右側面をズザザザっと削り、痛みを通り越して熱さが体を走った。

遠くで

「判定ハテム副団長の勝ち」

と審判の声が響いた。



医務室で、右頬に大きな擦過傷と、シャツの右腕をビリビリに破かれた姿の私をルナが憐れんでいる。

「これは腫れますね」

といいながら治癒薬を塗り付ける。

「痛いっ」

思わず小さく叫ぶと

「自業自得ですよ。あんなにムキになってたかだか演習試合に……」

大きく切ったガーゼを貼り付けた。

「しかし…これはどうしようもありません」

シャツの右腕の部分がビリビリに破け、追剥ぎに遭ったように肩が丸出しだ。

「まぁ。仕方ない。今日のところはマントで隠して家でおばぁちゃんに繕ってもらうよ」

と肩を落とすと、医務室のドアが開いてシォドア隊長が駆け込んできた。

「怪我をしたと……」

シォドア隊長は、今朝の演習は会議で欠席していた。

「無茶をしてくれるな」

心なしか青い顔をしているシォドア隊長に、安心させようと

「大げさなんですよ」

と笑うと

「っつてて」

右頬が引き攣れて声に出てしまう。

「ほらっ。痛むくせに…」

ルナが呆れる。

「これを使え」

シォドア隊長がシャツと軟膏を持たせた。

「いいんですか?ありがとうございます」

これで、おばぁちゃんからお小言を言われずに済むと、着ていたシャツを脱ぐと、

「ばっ向こうで着替えなさい」

なぜかシォドア隊長が顔を背けた。

「???すみません」

「あっ先輩!肩の所も血が出ています」

ルナが指を差し

「ルナ。悪いが軟膏を塗ってやれ」

あらぬ方向を向いたままシォドア隊長が指示し、なぜかルナがにやにやしながら

「はい」

と答えた。



監督不行き届きだったから…とシォドア隊長がランチを奢ってくれるというので、ルナと先に城門で待っていると、コンセンス王国近衛騎士団のマントをつけたエルフが通りがかった。紫のマントにはコンセンス王国第二近衛騎士団長ルキウス プルケルと刺繍されている。

「黒髪に黒い瞳など珍しい。そして女子のように美しい相貌だな」

きょろきょろと、周りを見るが、黒髪は自分しかいない。美しいのか?どちらかといえば典型的な日本人のあまり目立たない顔立ちだと思うけれど。

「ありがとうございます。ルキウス騎士団長殿。私はグラス リオと申します」

「ふむ。リオ」

と、ルキウス近衛騎士団長は、まじまじと私の顔を覗き込むと何かに気付いたように懐から木の棒を出した。その木の棒で頬と肩を撫でる。撫でられた箇所がふんわりとした何かに包まれたと思ったらそこにあった痛みが引いている。

「???」

ぽかんとして、ルキウス近衛騎士団長の顔を見上げると、ふふっと笑った。白すぎて緑のように見える肌と、銀色の瞳、銀色の髪、吸い込まれるような美しさ……

「リオ!」

腕を掴まれて我に返った。シォドア隊長だった。

「ルキウス!リオに何を!」

「そんなに熱くなることはないシォドア。時を少し進めただけだ。それでは、また会おう。リオ」

大したことはしていないといわんばかりに、木の棒を懐にしまうと、足音もなくルキウス近衛騎士団長は門の中に消えていった。わずかに若葉のような良い香りが残る。



南東部の地域の専門料理店だというそのお店は、安くて早いメニューが売りだ。行列を横目にすんなりと店内に入ってしまうのがいささか心苦しいが、回転が速いのでその人たちもすぐに店の中に入れるだろうと肩をすぼめて入り口のドアを通る。

「さすが、コンセンス第一近衛団長、そして第二王子ですね」

屋上に設けられたテラスには、予約席というプレートが置いてある。この店は最近、城下町に出来て若者たちのデートスポットとして人気なのによくこんな席が取れると感心していると、反対側に座ったリオがプククク…と笑い出し

「そうですよね。さすがです。こんな予約の取りにくいお店、どんだけ通って手に入れたんですか?」

ガハハハっととうとう爆笑した。

「……??」

何がそんなに面白いのか、よくわからずにシォドア隊長を見ると、顔を赤くしてそっぽを向いていた。

食前のソーダ水の時は気付かなかったが、ここの料理は早いだけではなく、ボリュームがあった。ピッザ、海鮮の乗ったサラダ、オイルで揚げ焼きにした魚、トマトソースのパスタ…コースの中盤にも関わらず、もう広いテーブルの上は料理でいっぱいだ。そして

「くっくるしい」

「同じく」

ルナとシォドア隊長は早々フォークとナイフを手放し、腹を撫でている。量が多い上に、チーズやオイル、小麦粉がたっぷり使われた料理は、普段上品な料理ばかりを食べる二人には少々ハードだったらしい。私の胃にはまだ余裕があったが、ここから三人前を食べるとなると美味しくいただくのは難しそうだ。店員に持ち帰りが出来る料理は包んでくれるかと頼むと、残ったサラダやパスタ、ムール貝のスープなどを食べ進めていく。

「本当によく食べるな。リオは」

シォドア隊長が感心する。

「食べられるときに、食べておかないと……食べ貯めですよ」

それにしてもシォドア隊長は別として、ルナは私よりも近衛騎士団の給与が低いのに貧困にならないのは貴族階級が上だからだろう。まぁ、生まれに文句をいう気はないが……。

「そういえば、もうすぐ近衛騎士団の実技テストですよね」

「あぁ。そうだな」

「私、今年も第一騎士団に所属できるか不安です」

ルナが小さな声で嘆く。

「実技テストで、優勝すると第一騎士団長、準優勝が第二騎士団長…ってなるんですよね」

「あぁ。そうだが…」

「じゃあ、トーナメントで上の方にいれば階級が上がることも期待できるんでしょうか?」

トーナメントは勝ち上がり式だ。そして実力者はチームが離れているので上手くいけば、騎士団長同士が当たって漁夫の利を得ることもできる。私が捕らぬ狸の皮算用をしていることを見透かしたのか、

「だが、副団長は第一騎士団のみの配置だから、トップ4に入らないといけないし、団長になるためには有資格でなければならないからな……」

やんわりとこれ以上の役職が増えることはないだろうという牽制がはいった。

「じゃあ…トップ4にもし入ったら、役職がつかなくっても何か褒美をいただくことはできるのですか?」

すかさず声を上げると、シォドア隊長はにやりとこちらを見た。

「何か欲しいものがあるのだな」

「ええ。まぁ」

給金を上げてほしいという現金な願いは通るだろうか?



「今まで消化していない有給休暇を全てですか?」

翌日、早朝。事務局まで走ると有給休暇申請を届け出る。

「はい。何か違反になりますか?」

「いえ…今お調べしますね。第一騎士団のグラス リオ男爵ですよね」

困惑した表情で資料と向き合う事務員が提示したのは、約一か月の近衛騎士団の実技テストまでのほとんどの日付を指す期間だった。過去のグラス リオ男爵は相当勤勉な人間だったらしい。



「お待ちいたしておりましたわ。リオ殿!」

いつかのお茶会の時とは異なり、研究室でのアイラはシンプルなシャツにベスト、ズボン、動きやすそうなブーツを履いて、上から胸ポケットにコンセンス王国魔法研究という文字と王紋が刺繍された白衣を羽織っている。金髪は小さなお団子にまとめられ、そこに宝石の鎖が繋がった眼鏡を乗せている。

「お言葉に甘えてしばらくお世話になります」

跪きその手を取って口づけた。すると、アイラは少し紅くした頬で

「お世話なんて…お手伝いできるだけで光栄です」

??手の甲に口づけるのはこの国の親しみを込めた挨拶ではないのか?と訝しがりながら

「そちらの方が…」

「はい、今回、リオ様の付き添いをします、マイロ ワイルダーです。姉のルナによくリオ様のお話しを聞かされています。お会いできて光栄です」

ルナと同じ赤毛で、まだ15歳の幼さを残した少年だった。気になったのは、彼の白衣がなぜか黒ずんでいることや、癖っ毛なのだろうが、巻き髪が少々不自然なことだ。

「私が手取り足取り、お教えできればいいのですが…何分、研究室は人出が少なくて…」

確かに大広間ほどの大きな研究室にはたくさんの書物や、よくわからない異物のはいった瓶など雑多なものに溢れていたが、部屋にいるのはアイラとマイロだけだった。

「この研究室は、実験室も兼ねていますので、どうぞお好きに使ってくださって結構ですわ。私や他の研究者は隣の部屋で仕事をしています」

と、分厚い扉の向こうに行ってしまう。何だか最後の台詞が気になるが……。マイロと顔を合わせて苦笑いをすると、

「では、早速始めましょうか」

「マイロも、魔法が扱えるんだよね?」

と一応聞いてみる。すると

「いや、僕には魔法の裁定にもかからないほど魔力がないんです」

「えっ…でも…」

「魔法は魔力がなくても研究することが出来るんですよ。たとえばこの魔法陣ですが、きちんと設計されて魔力のある者で力を与えられていれば、開くだけでその発動が出来るんです」

手元にあった巻紙の紐を解き、開くと中から音楽が流れた。しばらく鳴ると、中の魔法陣が消えて音楽も止まる。その紙を透かして見てもただの何も書いていない紙に戻ってしまった。

「それに、僕は古代エルフ語を勉強していますので、詠唱の文句は知っていますし、発動の要件もわかりますから、今回、リオ様のお知りになりたい魔法は僕でも教えることは可能だと思います」

「そうなのか。別に疑ってたわけじゃないんだ」

「いえ…こういう扱いは慣れてますから……」

と、マイロは頭を掻いた。そこに扉の向こうから一人の研究員が現れてマイロに巻紙を渡した。

「私に教えてくれるのは、君の作業の合間でいいから」

と促すと

「それじゃあ……すみませんが」

といってマイロは深呼吸をし、巻紙の紐を解いた。すると

パァァーーー

っと、強い光が紙から発生し、

ボーーーン

と爆発が起こり、それから紙がものすごい勢いで燃え出した。

「わわっと」

マイロは小さく叫ぶが、慣れた様子でバケツの水を掛けて鎮火させた。

「ははは…。いつもこんな感じなんでお気になさらず」

と、ビシャビシャになった床を拭く。

「はははは…」

乾いた笑いで応えて、一緒に雑巾を動かした。マイロが実験の結果を報告書に記すと、ようやく魔法の練習が始まる。

「つむじ風ですか?」

「うん」

アイラに見せてもらったカップの魔法の説明をした。カップの中に渦が巻いた状況に後付けで考えたことだ。

「確かに、今までは水を動かすという概念でその魔法は発動しているという解釈でした。でも、リオ様のおっしゃる通りに水ではなく、流れという概念で捉えればそういった魔法も発動するのかもしれません」

広場に出ると、マイロとともに地面の出来るだけ表層の土を集めた。

「そういえば、さっきの魔法陣って?」

「あぁ……アレですか。ここ何か月も挑戦しているんですけど、なかなか上手くいかなくってお陰で僕の髪はチリチリになっちゃうし、白衣はところどころ焼け焦げちゃって……」

やはり……そのせいだったのか。

「その魔法陣は何のために使うの?」

「簡単に言えば、夜でも部屋全体を明るくするような仕掛けを研究しているんです。ランプや、ろうそくの灯ってその周辺ぐらいしか明るくできないじゃないですか。もしそんな仕掛けが出来たら、大掛かりなシャンデリアや、たくさんのランプを用意しなくても夜会が楽しめます」

なるほど。魔法の地位が低いこの国では、出来るだけ生活に役立つような魔法を開発してその地位を上げようとしているのか。

「あの魔法陣って太陽の光を原理としているんだよね」

「はい。ランプやろうそくでは意味がないですから」

太陽は爆発し燃えて光を作っているのだから、いくらその力を弱めようともその魔法陣が爆発する可能性はある……ふと、先日、ロゼーヌの額の毛に発光したバラを挿して帰ったあの夜を思い出した。艶のある黒は光が反射する。

「月……あるいは……大きな湖に浮かぶ満月の光はどうだろうか?風が湖上の面を揺らして光が拡散されて大きくなる」

「……?!」

マイロは顔を上げてこちらを覗き込んだ。何かをしたくてたまらないといった表情だ。

「どうぞ。いって来なよ。あっちょっとまって」

ほとんど転ぶように走り出したマイロは呼び止めた声に

「つむじ(ウェル)風(テクス)!」

と応えて研究室に戻っていった。


研究室には、マイロが紙にカリカリと万年筆を走らせる音だけが響いていた。窓を閉め切った室内でテーブルに広げられた土の粒は、ピクリともしない。

「つむじ(ウェル)風(テクス)」

………カリカリカリ

「つむじ(ウェル)風(テクス)」

………カリカリカリ

頭の中では、舞い上がる土埃が何度も再生されている。しかし、目の前の粒は一ミクロンも動いちゃくれない。投げ出そうかと思ったとき、研究室のドアが開いて、アイラの姿が現れた。アイラはじっと、マイロの書き損じた何枚かの紙を見つめていた。マイロは集中していてアイラが側にいることに気が付いていない。そして、マイロには何も告げずにこちらに歩いてきた。

「何をなさっていたのですか?」

テーブルに広がった土のかけらを指でなぞりながら、不思議そうに尋ねた。マイロに初めにした説明と同じ原理をアイラに伝えると

「確かにそういった要件で発動するのかもしれません」

アイラはマイロと同じような感想を述べたあと、静かに目を閉じるとカッと目を見開いた。

「つむじ(ウェル)風(テクス)」

と唱えると、バッシャーンっと、土の粒が一斉に動いて辺りに舞った。

「………」

「良かったですわね。どうやら理論は間違っていなかったようですわ」

何事もなかったように笑った。午前中いっぱい練習した魔法はたった一回で実現できることがわかったのだ。

「………」

「ちょうどお昼に誘おうと思っていましたの。リオ様は煮詰まっていらっしゃるようですし、少し気分転換に出かけませんか」

城門の方はまずい。近衛騎士団の演習場が近く、騎士団のメンバーは城下町によく昼休憩に出かけるからだ。

アイラは知ってか知らずか、城門と反対側にある魔法研究所とそこに並ぶ建物の中を自由自在に歩く。迷子にならないようにがっちりと腕はアイラに取られているが、建物内だというのに上がったり下がったり、右に曲がったり左に折れたり複雑な道のりにもう自分一人では戻れないだろうと、身を任せる他なかった。

「魔法研究所と、学史研究所、そして神殿はそれぞれ共有する知識が必要な部分がありますから、建物も大きく一つになっています」

「それにしては……」

「随分、行き来がしづらい…ですか?そりゃそうですよ。それぞれが我こそが一番の学問だと思っていますからね。魔法を志す者は魔法がこの世界の真実だと、学史や神学もそれぞれがそう信じて我が道を行くのですから、諍いになります。ですから、できるだけ互いを意識しないように接触は最小限に控えているからこその建物の作りになっているのだと思いますよ。と着きました」

大きな開かれた扉には長い机とズラリと並べられた椅子があり、カウンターには様々な地域の料理がバッドに盛られている。

「ここには研究所の職員しか来ませんから、ご安心ください」

というと、懐からバーコードのようなものを取り出した。

「それは?」

「ここに、研究員の名前が入った魔法が掛けられています。それをこのように」

アイラはマカロンの乗った皿をトレイに移し、カウンターの下にある紫色の魔法陣の下に透かすと、名前の下の数字が変わる。

「なるほど、クレジットカードみたいな仕組みか」

「クレジットカードとは何でしょうか?これは魔法と数学を合わせた仕掛けです。会計はひと月分ごとにまとめて個人に請求できるので便利なんですよ。もちろん、お誘いしたのは私です。請求は私が持ちますから、どうぞリオ様は召し上がりたいものを遠慮せずにお取りください」

と言われたので、遠慮せずに物色し、トレイにスープやハンバーガー、サラダなどを次々と乗せていく。

「いただきます」

窓際のステンドグラス越しの木漏れ日が差す席をとると、スープにスプーンを差す。

「……」

「冷たい…ですか?」

施してもらったものに、文句を言うのはいかがかと思っていたが顔に出ていたらしい。コーンポタージュスープは冷たいものもあるし……。

「いや…すごく美味しいです」

取り繕うと、見透かしているのか握った手で鼻を擦りながら、アイラはクスクスと笑った。

「魔法もそうですが、学史、神学とありとあらゆる学問に就く者は時間を忘れて研究に没頭しがちなんです。まさに寝食を忘れてしまうという感じでしょうか?気が付いたら夜中で、研究室に寝泊まりすることも少なくありません。当然、食堂の職員はそんな生活に合わせるわけにはいきませんので、決まった時間に作り置きをして、腹の空いた者が勝手に来て食べるという今のスタイルになったそうです」

「へぇ…。でも、さっきのクレ…算術式みたいのが使えるんなら、常に食べ物を温めたり、冷やしたりする術式も発明できるんじゃないですか?」

例えば、電子レンジや冷蔵庫、冷凍庫みたいな。

「常に食べ物の温度を一定にする術式ですか……それは面白そうですわ」

顎に拳を置いて、ブツブツと声にならない口を動かしながらアイラは考え始めた。これが没頭するってことかと、感心しながら冷めて脂ぎったフライドポテトや固くなったハンバーガーを口にした。アイラはそのうち、胸ポケットから携帯用の万年筆と紙片を取り出し、空いていた片手で、チョコレートやクッキーなどを齧りながら、何かを書き出し始めた。脳を回転させているので甘いものばかりを欲するのかと納得して、しばらく待っていると、ようやく区切りがついたのか、アイラは顔を上げた。

「あぁ…すみません。よく、こうなってしまうんですよね。思考に取り憑かれたみたいに」

胸ポケットにしまうと照れくさそうに笑う。

「では、行きましょうか」

と席を立つと、食器を返却口に置いた。そのまま研究室に戻るのかと思ったら、もう一度食べ物の乗っているカウンターに戻り、紙袋を取ると、バームクーヘンやクッキー、ポップコーンなどを詰め、最後に瓶の飲み物を入れた。本当に甘いものが好きなのだな…と思うと、アイラはその紙袋をこちらに寄与した。

「お手数を掛けますけど、マイロにこれを届けてあげてくれますか?」

という。よく見てみるとバッドの食材は、ホットドッグや、ピタパン、焼き菓子など片手でつまめるものばかりだった。学者にとって食事とは楽しむものではなく、頭を動かすためのエネルギー源のようなものなのかもしれない。


また迷路のような入り組んだ道を戻りつつ

「姿を消す魔法ですか?」

「はい…そんな便利なものってないですかね?」

「そうですね」

アイラは顎を擦りながら思考すること数秒……

「あれ?アイラ嬢?」

ふとどこかに行ってしまった。

「ここです」

すっと横に現れる。

「???」

「ずっと、側にいましたよ。これは影(アンブラ)という魔法です。例えば暗闇にいるときに人はその姿を見失うことがありますでしょ?そんなイメージです。実際に姿を消すことはできませんが、気配を消すことができるのです。意外と簡単ですよ。ただ喋ったり、動いたりすると効果はキャンセルされてしまいますのでお気を付けください」

研究所の建物が見えてきたところで、

「いろいろとお話が出来て楽しかったです。新しい魔法のヒントも得ましたし…またお時間が合いましたらお誘いしてもよろしいですか?」

「はい、ぜひ」

と答えると、アイラは建物には入らず手を振った。



研究所に入ると、まだマイロはカリカリと魔法陣を描き続けていた。

「マイロ?」

肩を叩くとようやく私の存在に気付いたのか視線を上げた。

「あぁ。すみません。リオ様!」

「いや、こちらこそ、邪魔をして悪かった。アイラ嬢から差し入れだ」

と紙袋を渡すと、マイロは時計を見た。三時だった。

「もう、こんな時間だったんですね。これは食堂の…ということはお二人は食事に行かれたんですね」

ようやく、マイロは持っていた万年筆を置いた。

「ところでいまから気配を消す魔法をやってみるから出来ているか見ててくれないか?」

「ふぁい」

マイロはハムスターのように口いっぱいにクッキーを詰め込みながら返事をした。

「影(アンブラ)」

「見えてませんよ」

クッキーを飲み込みマイロは答えた。



コンセンス王国第一近衛騎士団副団長ハテム ストラベッシーがコンセンス王国に観光旅行に来た際に、利用した旅館の一人娘に恋をしてコンセンス王国の移民になる決意をしたことは有名な話だ。なにしろ、ことある毎に本人がその話をするのだから間違いはない。

午後5時の鐘が鳴って、近衛騎士団は任務終了の合図となる。いつもの近衛騎士団のマントの代わりに黒いローブを付け、他の団員にばれないように身を潜めながらハテム副団長が出てくるのを待つ。しばらくすると、両手を両脇の団員の頭で肘掛けのように置いたハテム副団長が出てきた。このような態度を団員にするのが、ハテム副団長にとっての親愛の証なのだ。

頭をクレーンゲームのように掴まれた団員は苦笑いをしている。

「お前たち、まだまだだな。よし、今夜はぱっと飲みにでも行って儂の強さの秘密でも説いてやろう!」

がはははっと大きな黄色い歯を見せるハテム副団長に

「そんなことを言って、週末は特に忙しいから、宿を手伝わないと怒られると、この間おっしゃられたばかりですよ」

右手を置かれた団員がいった。少し震えている。

「そっそうだな……」

「また誘ってくださいよ」

何とか笑顔を崩さないように頑張っている左手を置かれた団員も継ぐ。

「そっそうしよう」

ハテム副団長は少し気まずくなったのか、声を小さくしていった。



城下町の一角には、保育所や老人のための施設が集まっている。

療養のために施設に訪れた老人の足が悪く段差が登れないので馬車が渋滞していた。そこに通りがかったハテム副団長は、前から老人をサクサクとお姫様だっこをして馬車に乗せていく。あっという間に、馬車渋滞は解消されて、施設の人がハテム副団長にペコペコと頭を下げた。

保育所につくと園庭では迎えを待つ幼児がまだ走り回っていた。

この国では広く勤労が薦められている。そのため保育所には、城下町に住む幼児だけではなく、城や各施設に働く共働きの貴族階級の出身の幼児もいる。城下町に住んでいない幼児は、火の国や森の国などの異人を見たことがない子どももいる。木陰に隠れてハテム副団長を覗いていた幼児もそのタイプなのだろう。目ざとく見つけたその幼児をハテム副団長はいないないばぁをするように大きな手を大きな顔の横にヒラヒラしながら追うと、幼児はこの世の終わりのような顔をして逃げ出した。ちょうど他の保護者の対応に出ていた保育所の職員のスカートに幼児はうずもれるように隠れると、火が付いたように泣き出した。ハテム副団長が頭を掻きながら頭を下げると、スカートに幼児をくっつけた職員は苦笑いをしながら口の前で手を振った。「大丈夫ですよ。こちらこそすみません」という意味だ。

保育所から、他の幼児よりも二回りほど大きな子どもが飛び出してくる。細い三つ編みをいくつも下げたワンピース姿の女の子と、半ズボンの男の子だ。どちらも赤褐色の肌をしていて、鼻や口の造りが大きい。二人はハテム副団長に飛びつくように走り込み、ハテム副団長は両肩に一人ずつ肩車をし、首を左右に振りながら黄色い歯を見せて笑っている。


『青い鳥の住処』は、おばぁちゃんによると先々代の王の着任の際にもうすでにあった老舗の旅館だ。一階部分が食堂兼バーになっていて二階三階が宿になっている。

「おひとり様ですか?シングルルームでよろしい?」

黒いグローブを外さないまま宿帳に書き込み、前払いの料金を支払う。

「三階の奥の部屋です。チェックアウトは朝の10時までにこの部屋の鍵をカウンターまで返してください」

210という木札が書かれた鍵を渡すその瞬間まで、こちらの人相をなんとか見極めようと、作った笑顔の下で画策しているのが、この旅館の女主人ハテム副団長の奥さんだろう。

茶色のストライプの落ち着いたワンピースドレスを着ていて、切れ長の目が印象的な美形だ。

二階の一番奥の部屋に着くなりすこし行儀が悪いが、室内にあったガラスのコップを床に着けて耳に当てる。

「……ghjkjk」

声は女の人だ。小さくて何を言っているのか聞き取れない。

「いいじゃないか。子どもはこのくらい元気な方が」

ハテム副団長の声と共に、ドスン…ドスンと、ソファーか何かから落ちる音が続く。

「ghjk;lkj!!」

「そうだな……お母さんのいうこともしっかり聞いて上げないといけないな」

これ以上は心苦しくなってコップを外すと、サイドテーブルの上のルームランプを避けて、ベッドを椅子代わりに座った。テーブルの上に布に包まれた土の粒を山にして置く。

「つむじ(ウェル)風(テクス)」

「つむじ(ウェル)風(テクス)」

「つむじ(ウェル)風(テクス)」

繰り返すだけでは意味がない。イメージするんだ。運動場。走る人。スニーカーが土を抉って蹴り出すと踏み込まれて変形した土が固まって後ろに流れていく。

「つむじ(ウェル)風(テクス)!」

それはつむじ風というよりはそよ風の域に過ぎなかった。だが、目の前の土の山のてっぺんは抉れてベッドの白いシーツを汚した。

「おぉっ…ととと」

思わず声に出てしまうくらいの驚きがあった。そして私はベッドになだれ込むようにして倒れた。何だこれ?めちゃくちゃに頭が痛い。しばらくゴロゴロと頭を抱えてベッドをのたうち回ると、徐々に痛みが引いていった。

「腹が減った」

一階に降りると、まだ酒の時間には早いのか、子連れの観光客が何人か座っているだけでほとんどの席は空いている。私はまた黒いローブを目深に被って隅の席に座った。メニューの中でも出来るだけ安くてボリュームのあるものといえばコロッケだった。出されたのは、山盛りキャベツが添えられた、ほくほくのジャガイモが詰まった揚げたてコロッケ。湯気の出るそれを我慢しきれず口に放りこむと

「あっちち」

火傷をしてしまい水をガブガブ飲んでごまかす。すると、入り口のドアから何人もの大きな荷物を背負った大人が入ってくる。むせそうになった喉を何とか抑え込んで耳を立てる。

そんなことをしていなくても彼らの正体はすぐに知れた。

カウンターと向かい側にある小さなカーテンを引くと、狭いステージと磨かれたアップライトピアノが現れた。一人はピアノを、椅子に掛けた男がチェロを、背の高い青年がバイオリンを鳴らして調整する。最後にドアを通ったロングドレスの女が発声練習をする。

そこに、長椅子で食事をしていた女の子が走り寄っていく。

「お歌を歌うんですか?」

小さな女の子の質問に、

「よければリクエストをいただけますか?」

ロングドレスの女が屈んで尋ねる。

「てんてんの歌、歌えますか?」

「もちろん!」

背の高い男がウインクをしながら答えると、チェロの男が側面を叩いてリズムをとる。

てんてんの歌は単純な音階だけでできている歌で、子どもがドレミを習う時に覚える歌だ。

だが、その歌詞の意味がわからない。


てんてんのうた


てんてん おゆびで クッキーのまんなか

おしてみたら いろいろあめだま

とびだして バームクーヘンたべちゃった


ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラでできた音階はシだけがないのも不思議だ。

子どもが歌っているのを聞いてどこか懐かしい気持ちになったのも。

「ありがとう」

女の子は音楽隊に頭を下げるとチップを入れる壺に100リポを入れた。私もただで聞かせてもらうわけにはいかず、なけなしの500リポを投げる。もう少しあとで出直そうと、コップに残った水を飲みに席に戻ると、旅館の女主人が音楽隊に近寄って行く。

「毎週、すまないね」

「いえ、ただでステージをお借りできるんですから」

一番年上らしいチェロの男が答える。旅館の女主人はちらりとチップを入れる壺を見た。

「出演料をださないと申し訳ないよ」

チェロの男にいう。はははっと音楽隊は一斉に笑ったがその笑いはどこか乾いていた。


「つむじ(ウェル)風(テクス)」

コロッケで英気を得ると、何だかコツを覚えたのか、小さな土の山はほとんどがシーツの上まで飛んでいくようになった。シーツに飛んだ土を端と端を持ってかき集めて、テーブルに乗せて、ふと窓を見ると、月が出ていた。もう少し深い時間になってからの方がいいかもしれない。と考えて、土を持ってきた布に包みベッドに転がった。自分のせいだが、背中にジャリっという不快な感触があり、バフバフとシーツを波打たせて床に残った土を落とした。部屋を出る前に掃除をした方がいいか……でももう今日はいいや。綿の入ったクッション付きのベッドは柔らかく眠りの欲求は抗えない。だめ…だ。眠り込んだら…。



「がっはははは」

大きな笑い声が耳元で響いた気がして目を覚ます。月が随分高い位置になっていた。あわてて起き上がり、しかし静かに階段を下りて食堂に行くと、カウンターにハテム副団長が、パツパツのバーテンダーの服装で客の相手をしていた。黒いローブをしっかりと被り、顔を覆い隠しながらカウンターの見やすい位置に移動する。

「影(アンブラ)」

と唱えて身を潜める。柱時計は9時を示していた。音楽隊の演奏時間は終わってしまったらしい。楽器を背中に、壺を抱えたチェロの男が女主人と話している。ピアノを弾いた演奏者と一緒に歌手のロングドレスの女が、鍵盤を拭き上げていく。ステージのカーテンを閉めると、演奏者たちが女主人に挨拶をしながら出ようとした時、一人の客がゆらゆらと、歌手のロングドレスの女に近づいた。

「歌が終わったんなら、今度はこっちの相手をしろよ」

と歌手の手を引いた。男は相当酔っ払っている様子で

「すみません……給仕は致しませんので…」

と怯える歌手に気が付かないようだ。それを目にしたハテム副団長がカウンターの中から、飛び出し、男の元にのっしのっしと足音を立てて近づいた。

「そんなケチくせぇこといわずに一杯だけでも付き合えよ」

といった男がふと自分にかかる大きな影に気付いて顔を上げた。ハテム副団長はいつもよりさらに顔を赤くし、男の両手首を右手でむんずと掴むと、自分の頭の辺りまで上げた。

「いっいてえーー何すんだ。俺は客だぞ」

男は怒気の強い叫びを店内に響かせた。

「それがどうした!」

ハテム副団長の声に混じった怒気は男のそれより大きかった。

「やめろっいてぇ」

より高く男を引き上げると、男はバタバタと足を動かした。

「あなた!やめて!」

女主人が慌てて駆け寄ると、ハテム副団長は我に返って男を下ろした。

「大丈夫ですか?」

女主人が男に近づくと、男は手首を押さえながらも、怪我まではしていない様子だった。

「何て扱いするんだ」

「申し訳ありません。今日のお代は結構ですので、どうか今日の所はお引き取りくださいませんか?」

女主人が男に聞く。ハテム副団長は男を上から睨みつけた。男は

「二度と来るか」

捨て台詞を吐き、酔ったもつれる足で店のドアを出た。女主人は男が店を出るまで頭を下げ続けると最後にハテム副団長をきっと睨み上げた。ハテム副団長は肩をつぼめ、シーンとした店内に

「みんな、悪かった。俺から一杯づつ奢らせてくれ」

というと、店内におぉだとか、まだまだこれからだとか、いう歓声が上がった。

私は静かにその場を動くと、盛り上がりに乗じて階段に近づいた。女主人は、小さなため息を吐いて、店の奥に消えていった。




「よく眠れましたか?」

女主人は鍵を受け取ると、最後の挨拶をした。

「はい、いいベッドでした」

と、朝に似合わない目深に被ったローブの下からお礼を言う。


城門をぐるりと回って研究所に近い北門から入ると、二日目の魔法研究所に行く。研究室は錠を掛ける習慣がないのか、扉が開けっ放しだった。そして、マイロが…倒れ…

「おいっマイロ!マイロしっかりしろ!」

と肩を揺らすと

「あっ……ん…はぁ。リオ様?おはようございます」

何だ眠っていただけか。驚かすな。廊下に出ると共有の水道を捻り、マイロは顔を洗い、歯を磨く。白衣のポケットから出したタオルで拭く。マイロの準備はそれだけだった。準備が整うのを待ちかねていた私は、実験テーブルに土の山をすでに用意していた。

「しっかり見ててよ」

「はい」

これから起こることがすでに分かっている、子どもの成長を見守る母親のような眼差しでマイロは返事をした。

「つむじ(ウェル)風(テクス)」

土の山は、きれいに巻き上げられ勢いよく飛んだ。それを見たマイロがパチパチパチパチと拍手をした。

「やりましたね。お祝いに何か奢りましょう」

昨日、アイラとともにやってきたルートをなぞり、食堂に来た。昨日と違うのは、丁度コックの常駐する時間だったことだ。

「本当にいいの?」

「どうぞ、お好きなだけ」

マイロはアイラと同じ算術が入った魔法陣のカードを見せた。

デニッシュ、ロールパン、干した果実がねじ込まれたステックパン、スクランブルエッグ、カリカリのベーコン…溢れんばかりに乗せたトレーに口の中が唾液で一杯だ。やはり、料理は出来たてに限る。ちらりと見ると、マイロのトレーはスコーンにアップルパイ、蒸しパンが行儀よく置かれている。やはり、魔法使いは甘いものが好きらしい。

「それで足りるんですか?」

「そんなことを言われたのは初めてだよ」

ルナやシォドア隊長にそんなに食べて平気かと聞かれることは度々あっても小食だといわれたことはない。

「次はどんな魔法を得たいのですか?」

「………みたいなものなんだけど、出来るかな?」

「それなら、もうすでに詠唱魔法として確立されている魔法があります。今からなら季節も丁度良いでしょう。運も味方というわけです。それに…」

「それに?」

「今からちょうどそこに向かおうとしていたところです。そのためにまずはリオ様、たくさん召し上がってください」

そのために?が気になったが、たくさん食べるには問題がない。まだ温かい料理を次々と胃の中に収めた。



コンセンス城の北側は、深い森になっている。日の届かないこんな場所によくもまぁこれだけの高い木が育ったものだと感心してしまう。

「それは逆ですよ。日の届かない森だからこそ木は日を求めて高く育ち、そして森はより深くなるんです」

森を抜けると、湖が現れる。

「ここの水が一番良いと思います。今度の魔法は物質変化を伴いますので昨日の魔法よりも上級なのです。できるだけ条件を揃えた方が会得しやすいでしょう」

深い森は、朝を知らない。まるで夜のようだ。用意した瓶に全て湖の水を汲むと、コルクの蓋をしてリュックに詰める。

「研究室に戻る前に僕から一つリオ様にお願いしてもよろしいでしょうか?」

「もちろん。手伝えることならなんでもやるよ」

「ありがとうございます」

マイロは肩にかけていたバッグから何本かの巻紙を出した。そして同じだけの革紐も。

「この巻紙を詠唱しながら、革紐で巻いていって欲しいのです。言葉は力(ポテスタス)」

「わかった…でも私でいいのか?」

「リオ様にしか頼めません」

マイロは懇願する。

革紐を巻紙の下に敷く。

「力(ポテスタス)」

と唱え、紐を巻き閉じた…??気のせいか?

「力(ポテスタス)」

「力(ポテスタス)」

「力(ポテスタス)」

「力(ポテスタス)」

一つずつ結び終えるとやはり気のせいではなく頭痛に襲われる。最後の一つを結ぶと、堪らずその場に蹲り頭を抱える。

「すみません。こうなることはわかっていたんですけど」

カバンの中から、渦巻になったキャンディーを取り出して寄越した。

「舐めると少し良くなると思います」

痛む頭を片手で支えながらキャンディーを口の中に入れる。砂糖が溶けていくと、言われた通り少しずつ痛みが和らいでいった。

「??」

「今の詠唱は、魔力を魔法陣に籠めるときに使うものだったんです。つまりリオ様の魔力を吸い取らせてもらったんです。リオ様もご存じの通り、魔力はイメージと直結しています。こうなるといった未来の結果を魔力によって引き寄せるイメージです。そして、イメージは頭の中で浮かべるものですので、脳に大きな負荷が掛かるのです」

なるほど…だから、昨日も詠唱の練習をした時に頭が痛くなったのか。

「でも、お陰でこの魔法陣は完成しました。どうか、一緒に確認してください」

マイロは一つの巻物に付いている紐を解いた。そして空に向かって巻物を掲げるように広げると

パァァァー

スポットライトのような光が一直線に光った。それは5分ほどの時間だっただろうが、確かに魔法陣は起動した。



研究室に戻ると実験テーブルに散らばった土の粒をなぞるように指を動かしながら、もう一方の手で書物をめくっていたアイラが部屋に入ってきた私たちに気付いて

「成功しました?」

と言った。

「はい」

マイロが応えて、土をなぞっていた手の上に巻物を乗せた。

「では、量産体制を取るように」

アイラはマイロに命じた。マイロの机の上には分厚い巻物の紙の束があった。


唱えても、唱えても、やはり魔法は発動しない。頭痛だけが強くなり休むほかない。

マイロはあれからずっと、魔法陣の制作に取り掛かっている。そのとき、研究室の奥の扉が開いた。中から研究員が現れて、巻物をマイロに渡す。マイロは半分上の空で説明を聞いていた。そして巻物を広げるために空けてある中央のスペースに行くと、何の気なしに巻物を開いた。その一連の様子を自分も頭痛で意識がはっきりしない状態で見ていた。

でろでろでろ……

巻物から出てきたのが何なのか、二人とも理解できずにいるとそのまま出てきた粘性のある物体は、じわじわと床を焼きだした。

「げっ」

「うわぁ」

マグマだ!でも、こんな高熱のものをどうやって消火すればいいのだろう?と考えている間に事態は悪化した。

「とっ止めないと!」

と手をふれようとするマイロを必死に止めて、今朝まで使っていた土を上から被せた。とにかく酸素を遮断すればいいはずだ。

「いっ岩か何か」

と棚にあった石を積み重ね塞いだ。どうやら、効果が切れたらしいので水をかけまくる。

「あっ」

気づいた時には遅かった。それは北の湖から持ってきた水だったのだ。

びしゃびしゃになって、石が冷えたころにどかしてみると、床にぽっかりと穴が開いてしまっていた。マイロと顔を合わせて唖然としていると、研究室のドアから

「どうだった?」

アイラが呑気に尋ねた。

結局、床に板を打ち付けて研究室の修復を終えたころには夕方になっていた。

「ごめんなさい…」

「あれは、もはや兵器です。アイラ嬢、二度とあの魔法陣は書かないでください」

アイラが考えたのはおそらく火山の地熱の原理による魔法陣だ。しかし、魔法として利用するには火山はあまりにリスク過ぎる。危険だ。地熱調理は確かに方向としては間違っていない。同じような温め方でいえば…遠赤外線の原理ならばいけるのかもしれない。

「遠赤外線?ロープか、何かでしょうか?」

夕食はいつものごとく、食堂に集まる。またしてもコックの常在する時間だったので今日一日の悲運は全て彼方に忘れてしまう。コックに了承を得て、キッチンに入らせてもらうと、窯の中では燃えた薪を探って木炭を手に入れる。調理棚には金属の鍋が多かったが、土鍋もあった。

「実験は明日にしましょう。昼夜問わずなんていくら研究が好きでも体にさわります」

二人に奢ってもらった夕食に手を付ける。今日はビーフステーキだ。冷めた固いステーキをどうやって食べるのかと聞いたら、コック長の特別メニューだという。ここの人間は美味しいも言わないし、やたらと甘いものばかり食べたがったり、冷えたものを無言で食べたりしてコックの腕が泣くという。そのうちそれが人間じゃないような不気味に思えてここに配属されたコックは辞めていってしまうことが多いのだとも。

「そうですかね。私はむしろ研究をしているときが一番楽しいのですが……ねぇマイロ?」

「はい。僕もそう思っています」

どこまでもブラック気質な二人だ。案外気の合う二人なのかもしれない。

「ところで、お願いがあるのですが…」

食堂では毎度奢ってもらっているのに厚かましいだろうか?

「もちろん。リオ様のお望みでしたら、何なりと」

と二人声を合わせていう。



「では、まず炭とはということからご説明します」

ろうそくの火に直接木の棒を置く。当たり前だが、木は燃えた。

「こうなりますよね」

実験と名称しただけあって、研究室にはいつもはいない他の研究員も集まっていた。なかにはホビットも混じっている。そして当たり前の現象を見せられた観客たちは不満げな顔をした。それを無視して、細い瓶の中に木片を入れて炙る。瓶の中の木片は直接火を炙ったときよりも時間をかけて炭になっていく。

「つまり、これが何だというのでしょうか」

瓶の中から真っ黒に炭化した木片を取り出した。直接火を炙った木片と並べる。

「マイロ、この二つの燃えた木のどちらに火の力が籠ったかわかる?」

「同じなんじゃないでしょうか?あるいは、直接火を浴びた方?」

「では、火の力をたくさん浴びたと言葉を変えたらどうだろう?」

はっとした顔をしてアイラがこちらを見た。

「つまり、そういうことですのね」

「いや、まだ実験は半ばだよ」

次に昨日手に入れた木炭と土鍋を取り出した。木炭を土鍋の中で燃やすと、チリチリと中央が赤くなった。

「ここに昨日の朝、残したパンがある。これをこの炭の近くに置けば…」

次第にパンが温まり、パンの焼ける香ばしい匂いが辺りを漂う。ちょうどよく温まったところで、食べた。

「では、実験は以上です。よかったらこの炭の近くに手をかざしてみてください」

というと、魔法研究者たちは手をかざした。

「熱いっていうよりはあったかいだわ」

「確かに、火がなくともあったかい」

と感想を口々にいうと魔法研究者たちは我に返り、我先にと研究室に戻っていった。

「驚くことばかりというか…魔法にあったみたいです」

炭を水に浸し十分に消火を確認するとマイロが呟いた。

「いや、おそらくもう使われている技術だよ」

ロゼーヌの耳に取り付けたられた薄い鉄プレートを思いつつ答えた。あれほどの技術を作るには木炭、石炭など何らかの炭が必要だ。高温になるための何らかの手法を利用している。

「使えるっていうことは、なぜ使えるのかを知る原理まで辿り着くとは限らない。多分、マイロたち魔法師はなぜ使えるのかを探っているんだと思う」

理屈など知らなくとも使えればいい。飛行機にのっている乗客がみんななぜ空を飛べるのかを知らないように。スコップで腰辺りまで大きく掘った穴は、今後の魔法陣の実験に使うために用意した。



「…!」

「…!」

はぁはぁ、と息が切れる。北の湖のほとりで限界まで練習をし、そのまま視界が暗転した。

「はぁっ。つぅ…」

起き上がろうとして、静かに手で押さえられ、横に寝かされる。

「どうやら、魔法で痛めたらしいな。魔法の痛みは魔法では回復できない。同じものが反発し合うようなものなのか」

自分が寝かされているのがコンセンス王国第二近衛騎士団長ルキウス プルケルの膝の上だと気づくのにまだ数秒かかった。

「……っ」

驚いて起き上がろうとする私の体を、再び静かに手で押さえられる。大した力ではないのに縫い付けられたように動けない。

「もう、しばらくは休んでいたほうがいいだろう。リオ」

一本一本ならば造作もなく千切れる細い糸を縫い付けられたガリバーになったような気持だった。

「ここには、よく訪れるのだ。故郷の森に似ている。もう二度と戻るまいと思ったあの場所に、おや?」

ルキウス第二近衛騎士団長は、私のシャツに手を伸ばすと、胸元からペンダントを引き出した。いつしかシォドア隊長にもらったお土産だ。言葉にしようと思っても、言葉になる前に声が蒸発してなくなってしまう感覚に纏わされる。自分の体から意思が抜けて行ってしまう。それでもルキウス第二近衛騎士団長は話し続ける。これではまるで独り言だ。

「懐かしいものを見せてもらった。私が随分前に失くしたものだな。お礼にリオがしたいことを見せてあげよう」

ルキウス第二近衛騎士団長は懐から木の棒を取り出すと、水面をポチョンと触れた。途端に、湖がビリビリビリと、波紋を描くように氷ついた。その光景は夢のような現実だった。

「あぁ。あまり度の過ぎたことをしているとシォドアに怒られてしまうな」

と木の棒で再び氷を撫でると元の湖に戻った。

「では、また会おう。リオ」

気が付くと、草の上に横になっていた。

「水(アクア)凍れ(ゲロウ)」

詠唱をすると、当たり前のように今まで一度も成功しなかった魔法が発動した。



「全く当日まで来なかったらどうしようかと思ってましたよ」

ルナが怒りの籠った嘆きをした。

「リオ…どうしたんだ…」

試合前から満身創痍。あちこち傷だらけの私を見てシォドア隊長が悲しみの籠ったつぶやきをする。二人の様子を意に介さず、私はトーナメント表をじっと見ていた。

トーナメントはAとBのグループに分かれ、それぞれのグループでも1と2のグループ分けがされている。とりあえずシォドア隊長、ルキウス第二近衛騎士団長とは別グループなので安心し、さらに同じBのグループでもミレンベ第三近衛騎士団長が1のグループ、コンセンス王国第一近衛騎士団副団長ハテム ストラベッシーとは2のグループで同じという確認をする。運も実力のうちだ。思惑通りの展開に気を引き締める。

「ところで、ルナは5試合目からのシードなのに、どうして私は1試合目から?」

隊長級がベスト8までシードで残るのはわかるが、第一近衛騎士団員も5試合目までシードになっている。そして1試合目の対戦相手スーパースター アスラという妙な名前も気になった。

「そっそれは…」

シォドア隊長が目を泳がせている。トーナメントの対戦表は事前に籤を引くなどの偶然性の高いものではなく、誰かの意図の元に作成された対戦相手とチーム分けになっている。

近衛騎士団は王の剣であり、その統率を任されているのは、第二王子でもあり第一近衛騎士団長のコンセンス シォドアである。

「きっ気のせいでは?」

私がじっとシォドア隊長の目を見つめると、とうとうシォドア隊長の目が白黒に反転した。



近衛騎士団の実技テストは、現団員の実力を諮るだけではなくもう一つ重要な真の目的があった。教育課程を終えて騎士を目指す学生たちの素養の確認テストだ。最終的な目的である騎士に的確な人物であるかの判断はもちろん、その過程でまず配属される衛兵や門番などの職務に就くに相応しい実技を持っているのか、性格や倫理観なども含めてチェックしている。それゆえ、実剣は用いられず、演習用の木剣などが競技に使われる。

将来に関わる試験なので親や保護者なども必死である。

「やれーっそこだ!」

テストが行われている広場は、すり鉢状の階段になっている客席から声援が飛び交っている。

そんな観客たちの様子と違って、今朝の我が家の送り出しは非常にドライだった。

「おばぁちゃん、近衛騎士団の実技テストは今日だよ。場所はコンセンス大広場」

唯一の家族であるおばあちゃんに、孫の晴れ姿を見たかろうと話してみると

「そうかい」

おばぁちゃんは、興味なさげに答えると、応援に行くよとも、頑張れともいわずに、ズボンの尻の繕いをし続けた。すでに右側が破けてアップリケのようにおばぁちゃんのチェックの古着を当てられたズボンは、左側に大きく空いた穴と擦り切れた布地を補強するためにもうひとつ当て布がされて、後ろから見ると猿の尻のようになっている。貧乏くさいを通り越して、もはや新しいオシャレのようにも見える。

「出来たよ」

と渡されたズボンを大人しく履く。

「実技テストで、また穴を空けてくるだろうから、昼間に買い物に行ったときについでに新しいズボンを買ってこよう。何色がいい?」

「茶色!」

そういうおばぁちゃんが作ったいつもの砂のパンと、お湯のスープを飲み干しいつもと変わらない調子でロゼーヌの背に乗って競技場に向かった。


観客席の熱の入った応援とは異なり、試合序盤は広場を4つのエリア分けをして粛々と進められる。

「目星しい者はいたか?」

シードなので試合の時間まで余裕のあるルナは、新人たちにさほどの興味も持たず眺めている。

「うーん。まだよくわかりませんね」

ルナに体が固くならないように動かしながら状況を聞いていると、背中から

「リオ様、ごきげんよう」

とピンクの豪奢なドレスを着こみ、エスコートにマイロを連れているアイラが声を掛けた。

「リオ様、今日はご活躍を楽しみにしております」

横にいるマイロもいつもの煤けた研究室の白衣を脱いで、伯爵家の子息然とした仕立ての良い生地のコートを着込んでいる。

「二人とも見に来てくれたんだ」

と挨拶を返す私をルナは不思議そうに眺めている。どういう知り合いなのか、聞きたがっていたが……ルナに追及されそうなのを察してそれとなく二人は離れた席に移動する。

「さて、第一試合から出なくてはならない者は、そろそろ準備にかかるとするよ」

余計な詮索をされないようにマントをルナに預けて伸びをすると肩を回し階段を下りた。


競技場の空きスペースに設けられた試合に使用する木製の武具の貸し出しコーナーに訪れる。

「どれになさいますか?」

大会運営員がずらりと並んだ武具を見せた。

競技用の武具は全て木製とはいえ、種類は豊富だ。盾や鎧もある。第一試合の対戦相手は、卒業前の学生たちがほとんどだが、油断は禁物だ。トーナメント戦なので一回でも負けてしまえば即終了ということになる。相手が格下などと侮っていれば足元を掬われる。槍や大太刀などの木製の模造品も一応手に取ってみるがうまく使いこなせそうにもない。いつも使う長剣に近い長さの木剣と一応短剣も持って軽く振ってみる。まぁ重さが足りないが、これでもいいだろう。八の字に振ると、すっと腰ベルトに差す。



「では続いて、グラス リオ男爵 対スーパースター アスラ」

と審判員が叫んだが区切られたエリアには審判員と二人っきりの状態のままだった。。スーパースター アスラの姿はない。こういった場合は…

「それでは、はじ…」

開始の旗が下りる前に

ひゅるるる~~~

と矢がこちらに向けて落ちてきた。剣で振り払うと矢の上端についていた布がはぜて地面に赤いシミを作る。矢じりには石や刃ではなく、当たったという判定のための仕掛けがされているのだ。一発目を躱し、あえてジグザグにステップを踏みながら矢の降ってきた方向に走る。二発目以降は届くことがなかった。走っている随分前だったり、あらぬ方向に着地している。後ろには審判員だけがぴたりと一定距離をおいて走ってきた。一発目はまぐれか。

走りづらいので、長剣をしまうと、そのまま観客席のある二階に続く階段を登る。矢を打つのをあきらめて鬼ごっこに移行しようとしているのか、弓を持った男が観客席を走りだした。ばればれすぎていっそ晴れ晴れである。観客のいない一番上の段差を走りながら、男を目で捉え、三秒後の到着位置に大きくジャンプした。

「うっうわぁ」

「何?」

と驚きの声を上げたのは周辺にいた観客たちだった。ローブを目深に被った男はピタリと動かない。正確に言えば…動けない。

「降参しますか?アスラ王子…」

喉元にぴたっとついた短剣に、アスラ王子の冷や汗が沁み込んだ。

「降参なら、手を上げてください」

切れない木剣に恐怖を感じたアスラ王子は、体を固くしたまま両手を低く上げた。

「勝者 グラス リオ男爵」

誰も見ていない試合は、審判員だけが見届け終わりを告げた。



「おーい。知ってたか?試合には棄権という手立てもあるんだよ」

というと

「冗談!そちらこそ、危険ですよ」

と、にやりと笑った。こちらもにやりと笑った。5回戦。シードでここまで戦わなかったルナの最初の相手は

「では、5回戦、グラス リオ男爵 対 ルナ ワイルダー 公女」

5回戦までくると、面子に新入りの顔はない。演習試合で剣を交えることがあった近衛騎士ばかりだ。

「では、始め」

旗が下ろされるとほぼ同時に、

カッカッカッ

とクナイが足元に落とされた。このルナの獲物は木製では再現出来なかったらしく、もともと愛用しているものだ。しかし、こちらもいつも腰に下げている剣を使用しているので異論はない。ルナは腰ベルトに二周するほどのクナイを持っている。出し尽くすのを待ってもいいが…

ガキン!ガキン!!シュッ

「こっち来ないでくださいよ」

ずんずん間合いを責めた。素早く横回転でルナは逃げる。いつぞやか、ハテム副団長に逃げ方が曲芸じみていると言われたが、その逃げ方はルナに習っている。

「ルナと本気で戦うのは初めてかもな」

カッカッガキッ!シュンシュン

八の字に回した剣先を、ルナはリンボーダンスよろしくの体勢で逃げ切る。とはいえ、こちらはあくまでゆっくりとした歩調で追いかけるだけだ。ルナのクナイは正確にこちらに向かって投げてくる。一定のスピードを読んで飛んでくる。ここに来ると分かっている攻撃を避けることは難しくない。そして

「あっ」

下がろうとしたその足に、クナイを引っかけて急ブレーキがかかる。

投げたものは忘れるが、投げられた方は意外と覚えているものだ。

剣先をリオの心臓に向ける。今ならば、クナイを振り上げて投げるモーションよりも剣を少し前に突くだけのアクションの方が小さい。

「どうする?」

という二度目の質問は

「棄権ですよ…」

という答えが返ってきた。


5回戦以降は、勝負が早く決まる。というのも、お互いに相手のレベルがわかるからだ。

第一騎士団に当たった第二騎士団の団員はすぐさま棄権の申し出をし、勝負に持ち込まれてもその差は歴然で、試合はすぐに終わってしまう。

「リオ先輩も、もうじき、7回戦ですよ。呑気にクレープなんか齧ってていいんですか?」

「もうじきだからだよ」

砂糖のたくさん載ったクレープを食べ終えると、いちご飴をバリバリと食べた。



コンセンス王国第三近衛騎士団長ミレンベ ザハは妙齢の女性だ。そして火の国出身の巨人族でもある。

城下町の広場で、女性たちが集まっている。月明りのバイオリン弾きの青年を見に来たいわゆるファンだ。小さなランプが、バイオリン弾きの男の端正な顔立ちと、そのスタイルの良さを映すが、遠く離れた位置にいるミレンベからはよく見えない。彼の奏でるバイオリンの音色と長い影だけがよくわかった。

元々ミレンベはコンセンス王国に移民する気などなかった。火の国では、コンセンス王国の領土の一部である漁村のコンセンス人といくらか話すことや、交流があっても王宮がある首都コンセンス王国の人々と話すことはあまりない。火の国に近い漁村のコンセンス人は気候が似ているからか、大声で話し、がははっと笑い、よく食べる。火の国の民とほとんど変わらないように思っていた。

新たにコンセンス王国の新女王が即位した時、交流のためにコンセンス女王は火の国を訪ずれた。作業の合間に偶然見かけた女王の姿は全くの未知の生き物だった。なんと表現したらよいのかわからない。部族長が何かを説明するたびに、頷く静かな仕草や、深いベールに隠された謎めいた目元。笑う時も歯を見せずに口角を少し引き上げるように形よく笑う。岩の多い火の国で歩きやすいようにか、女王が着ていた深いスリットの入ったドレスから、時折のぞく白い肌が、生きているのに死んでいるような…それでいて艶めかしい。

女王が来訪して以来、火の国ではコンセンス王国の首都への観光旅行がブームになった。

もともとは産出される石の加工の職人が多い東に行くことが多かったが、中央への便が増えた。何か月も待ってミレンベはツアーの席を手に入れる。

初めて入った首都は整然としていた。活気があるのに押し付けがない。馬車も行き交う人も互いを思って適度な距離を取って道を譲り合う。

城下町で、ミレンベは宝石の付いた銀細工のジュエリーを買った。人々がネックレスとして利用しているのだというそれを、ブレスレットにしてはいかがでしょうか?火の国の女性はお土産によく買っていかれるのですよ。と、おずおずと自分の大きな太い手首に巻いてくれた。それは今も手首にある。逆に漁村のコンセンス人の顔なじみが、「良く似合うから買っておきなよ」とすすめた貝殻のネックレスが野暮ったく思えて外してしまったくらい気に入っている。

そして宿は『青い鳥の住処』。ストライプの落ち着いたワンピースを着た女主人が

「ようこそ、いらっしゃいました。最近、火の国の方がよくお見えになってくださるので本当にありがたいのです。もしベッドが小さいなどご不便がございましたら、なんなりとおっしゃってください」

と三階の部屋に通された。ダブルベッドの下にシングルベッドを繋げて置いたベッドは、巨人の体でも余るほど大きく、備えられたサイドテーブルも書き物をするための椅子も太い足で支えられた特注品だった。散策で疲れた体を仮眠で休めると、大きな耳に心地よい音楽が届き、目が覚めた。

出来るだけ静かに階段を下がって食堂に行くと、小さなステージで生演奏が行われている。

ステージ中央には煌びやかな衣装とよく伸びる歌声の女性歌手、壮年のチェロ奏者、ピアニスト、そして長身の男性がバイオリンを弾いている。彫りは深いが爽やかな顔の造り、優しげな眼差し、なにより音楽を楽しむその姿にミレンベの心臓はぎゅっと縮んだ。一曲終えると、観客たちは静かな波のような拍手を送り、ステージの中央にある壺にチップを入れた。階段の一番下で立ち尽くしていたミレンベは、ふらふらとステージに近づきその壺に1000札リポを入れようと手を伸ばした…キラリとブレスレットの光るその手を横から白く長い指を持つ手が奪った。

「失礼。美しいお嬢様……」

はっとして手をひっこめると、笑顔を崩さずにバイオリン弾きは続けて言う。

「演奏の途中から聞いていただいた方から、チップをいただくことなどできません。どうか、お嬢様のための一曲を弾かせていただけませんでしょうか?」

腰を折ったバイオリン弾きの言葉を反芻してミレンベは、顔を赤くした。火の国では音楽と言えば、くりぬいた木に動物の皮を張った太鼓と、動物の骨をくり抜いて所々穴を空けた簡素な縦笛、そして人々の足音でできた祭りの際に高位なる生き物に捧げるものだ。

漁村のコンセンス人が時折、広場で催す演奏会でバイオリンやラッパ、ピアノや歌を聞いたことがあるが、音符が読めず、またその繊細すぎる楽器を扱うことができないと鼻からあきらめていたミレンベにはどの曲も同じように聞こえるので曲名などわからない。

バイオリン弾きはミレンベに曲をリクエストしてほしいと乞うたのだ。ステージ前で行われている二人のやり取りを観客たちは興味深そうに聞いている。ドッドッドッと心臓の鼓動が早くなり汗が噴き出る。しかし、親切心から声を掛けてくれたバイオリン弾きの気持ちを無下にすることは憚られた。

「…はどうでしょうか?」

「わかりました。すてきなリクエストをありがとうございます」

バイオリン弾きが合図をすると、曲は唐突に始まった。


てんてん おゆびで クッキーのまんなか


この曲は火の国の民の笛を作る際に音程を一定にするために吹く曲だ。コンセンス人にも有名な曲なのか、観客たちは小さな拍手と、歌手の歌を邪魔しないほどの小さな歌声で合唱する。


おしてみたら いろいろあめだま

とびだして バームクーヘンたべちゃった


短い曲を演奏し終えると、食堂の中の観客にふんわりとした一体感があった。


「あのぅ…」

「……っ」

唐突に声を掛けられて、ミレンベは肩をすくめた。ミレンベは、バイオリン弾きの奏でる曲にそこまで傾倒していたのだろうか、黒いローブを着た真横に立つ少年に全く気付かなかった。

「そのチップ渡しに行かないんですか?」

1000札リポが握り締められた手を差した。

「演奏の邪魔をしては、いけないから」

曲の合間に黄色い歓声を上げる取り巻きの女性たちをミレンベは眩しそうに見ていた。

「こんなに熱心に演奏を聴いてもらえる客を、粗末にする演奏家はいませんよ。ミレンベ ザハ様」

突然名前を呼ばれて、再びミレンベは驚くが、その黒髪と黒い瞳に見覚えがあった。眉間を寄せて記憶を辿る。確かシォドア隊長のところの…

「グラス リオか…」

「はい、名乗った方がよかったでしょうか?」

「いや、必要ない」

ミレンベはコンセンス王国第三近衛騎士団長の顔つきに一瞬戻りかけて、リオが自分をどう呼んでいたのか思い出した。今は近衛騎士団のマントは着けておらず、花柄のワンピースを身に着けている。

「もっと、近くで聞きましょうよ。私も彼のファンなのです」

と手を差し出しエスコートする。

「そう…ですね」

ミレンベはリオの手を取って聴衆のところに近づく。バイオリン弾きはミレンベの姿を見つけると、優し気な目を一層綻ばせた。

「美しいお嬢さんに、何か一曲プレゼントしたいのですが」

チップを入れるための壺に差し出された手を取り、口づけをした。

「ヴェルニの青い鳥の第一楽章をお願いできるかしら」

「すてきなリクエストですね。美しいあなたにぴったりの曲です」

曲は女の悲鳴のような甲高い音から始まり、嘆きのようなメロディを奏でたあと高音と低音の繰り返しのリズムに移り変わる。それはまるで男女の会話のようだ。そしてまた逃げる女を男が追いかけるような変化があり、女の疑いのような叫びに変わる。すれ違う思い。胸に迫る切ない曲だった。



近衛騎士団の実技テストが近づいている。本来ならばどこの団員も腕を上げるのに必死なのだが第三騎士団の士気はあまりあがっていない。中でも一人だけ息巻いている団員がいるが、残念ながらその情熱に叶う環境を与えられていない現状にコンセンス王国第三近衛騎士団長ミレンベ ザハは大きくため息をついた。

「どこかに彼の丁度良い相手がいればな…」

と一人ごちたのを

「では、私がそのお相手をいたしましょうか?ミレンベ第三近衛騎士団長殿」

とひょっこり顔を出して応えた。

「きゃっ」

ミレンベ団長は、騎士ならぬ悲鳴を上げて少し気落ちした。その悲鳴は聞こえなかったというふりをして、第三騎士団長執務室の窓を飛び越えて侵入する、

「いつも、突然に現れるのはどうにかならないのかしら……?」

という問いかけも無視する。

「なかなかいい部屋ですね」

むき出しの壁にもともと用意されていた簡素な家具が置かれ、壁には何本もの剣が引っかけられた簡素なシォドア隊長の執務室とは全く違った。

壁はバラと葉の柄の入った紙で装飾され、床にもバラ柄の絨毯が敷かれ、使っている机にもバラの細工がされた重厚なものに変えられている。壁にはバイオリンが掛けられ、棚には何冊もの楽譜と、音楽を閉じ込めた巻紙が飾られている。

「自分で言うのもなんですが、レディの部屋をあまりジロジロと見るのはいかがかと…」

とミレンベ団長が諭し、素直に頭を下げた。

「申し訳ありません。実は今あまり大っぴらに姿を現せない事情がありまして…」

と申し開くと、ミレンベ団長は

「ほう」

と興味深そうに顎を擦った。

「今度の近衛騎士団の実技テストで4位を狙っているんです」

「それじゃあ…身を隠す必要があるかもしれないわね…くわしく話を聞きましょうか」

と楽しそうにミレンベ団長は大きな特注の椅子から紅茶を淹れるために立ち上がった。




去年、異例で入ってきた第三騎士団員のジェイク テイラー男爵は15歳と年若い騎士団員だ。普通、門番や、衛兵などを経て騎士団に推薦されることが多く、騎士団の平均年齢は20を超えている。年若い騎士団員は、それだけ実力があると認められた者なのだ。逆に言えば、騎士団としてギリギリのレベルである第三騎士団員は、いつ元の場所や警備などほかの部署に回されるかわからないので士気が低く第二騎士団や第一騎士団に昇格したいと思う者は稀だった。

「本当に大丈夫ですか?」

魔法研究院や学史研究所、神殿の前にある大きな広場は、近衛騎士団のように運動場の役割を持っていない。ただ単に建物の前の空き地というだけで、研究の合間に気分転換に外に出てピクニックをするような者もいないし、運動のために外に出る習慣がある者もいない。

「大丈夫」

と、短剣を構えて答える。

「リオ先輩、僕を甘く見ているようだと、どうなっても知りませんよ」

ジェイクは大太刀の実剣を両手に構えて早速ブーンと大きな一撃を打つ。

「おっと」

と言いながら、横回転で逃げた。ジェイクの大太刀は逃げた反対側をもう一度断った。なるほど、一撃目は、フェイクで、二撃目以降で捉える寸法か。すぐに体勢を整えると、追撃の剣をジャンプで躱しながらさらに下がって次の手を打てないように仕込む。

その目の端にマイロが研究所から出てきた。

「ちょっと、たんま」

マイロに駆け寄ると巻物を受け取り、掘った穴の中で広げる。何事かとジェイクも穴をのぞき込もうとするので、

「あまり近寄らないほうがいいよ」

と手で制す。開いた巻紙から魔法陣が発動し、木の燃える匂いが広がる。黒い炭が現れて、巻紙を燃やしてちりちりと小さな炎が上がった。どうやら、まだ改善しないといけないらしい。燃えカスが延焼しないように土を被せると、結果をメモしてマイロに届けた。

「さて、続きをやるか」

「それってなんですか?」

「んー。アルバイトかな」

「アルバイトって…?」

「お小遣い稼ぎだよ」

というと、同じく懐事情が温かくはないのだろうジェイクは納得しうなずいた。

互いの動きが見えづらくなったころ、5時の鐘が鳴った。



研究棟から他の棟に入り組んだ道を進んで、食堂に入る。食堂では、焼きたてのパンや、スープ、肉や魚の焼ける匂いや湯気が漂っていて、訓練で疲労した体が、大きなお腹の音で訴えた。

「わぁー。研究棟の食堂ってすごいんですね」

といいながらジェイクは、腰ベルトに引っかかった革袋を握った。

「あぁ……。料金は気にしなくていいよ。こっちで持つから」

と、懐の算術式の描かれたカードを出した。アイラ グゥインと記名がある。

「よう。リオ、今日はハッシュドビーフがおすすめだぜ」

あれ以降仲良くなったコック長がカウンターの隙間からこちらを覗く。

「じゃあ、それをいただこうかな」

というと、コック長はわざわざ、なみなみと新しく皿に盛った。

「サービスだ。たくさん食べな」

ジェイクの分と二皿、寄与越す。焼きたてのパンと、まだシャキッとしているサラダもトレーにおいてカードを当てる。

「わぁ。味もいいんですね。あたたかい出来立ての料理がいつでも食べられるなんて、研究員は幸せですね」

「……うん。そうだね」

世の中には知らない方が幸せなこともある。そこには守りたい無垢な笑顔があった。



書き物をしていたミレンベ団長が、ひょこっと顔を出した私に気付いて、ペンを置いた。

「今日は窓から入って来ないのか?」

「入ってもいいのですか?」

「待っていろ、すぐにそっちに回る」

自室のように飾っている執務室に他人が入るのが気恥ずかしいのだろう。月明りを頼りにコンセンス王国第三近衛騎士団の演習場に落ちている木刀や、折れた弓矢を拾い、トンボで土を均す。胸当てを当てたミレンベ団長がそこに現れる。

「しかし、こんな暗い中で本当にやれるのか?」

腕のストレッチをしながらミレンベ団長は訝し気に聞く。こちらはすでに柔軟や軽いジョギングも済ませており準備万端な状態だ。

「はい、ミレンベ団長のご用意が整ったらおっしゃってください」

ミレンベ団長は倉庫から自身の獲物を取り出した。実に恐ろしく人を殺めることにしか特化していないような鋭い鎌の付いた先端の刃にチェーンで繋がれた大きな石の錘(おもり)のついた武器だ。チェーンの部分を何度か回すと、よく研がれた鎌が月明りに反射して怪しい光を放つ。少し離れたところにいる自分のところまで大きな石の錘で押された風が圧になって流れてきた。

「よし、こちらの準備も整った」

「では、お願いします。時間は15分です」

懐から出した巻紙を解くと、魔法陣が発動し辺りを照らした。正面に立つミレンベ団長の顔が驚きの表情に変わる。巻紙が飛ばされないように四方に石を置いて固定する。

「いざ。参ります!」

巨人族のミレンベ団長の懐に向けて、矢のように飛び出した。


次の試合のために観客席から降りて、広場横の選手控えのベンチに席を変えると

「リオ先輩!あの子、結構やりますよ!」

つまらなそうに試合を眺めていたルナが、身を乗り出して一つの試合に見入った。広場では大太刀の若者と、第一騎士団員が白熱の試合を繰り広げている。

「そうだな」

この試合でベスト8が出揃う。次の試合は無効試合のようなものだから、実技テストはこの試合が最後の勝者を決める戦いだ。ベスト8以降は、テストの枠を超えて、実力者たちの力を観客たちに見せつけるための何でもありの戦いになる。

「あっ、勝負が決まりそうです!」

ルナの実況の声を聞きながら、準備を進める。選手控えのベンチの周辺にはウォーミングアップのためのスペースも設けられている。持ってきた荷物の中から、水の入った瓶を腰ベルトに差した。短剣と、長剣の刃こぼれがないか太陽の光に透かしてみる。何度か素振りをして体の馴染みを確認する。軽くジャンプし、スキップし、体に異常や疲れが残っていないのかを確かめていると、のっしのっしと大きな影がルナの影を覆った。

「あっ、ハテム副団長!お疲れ様です」

ルナが振り返り挨拶をする。私も小さく首を上げて相手を確認した後、軽く頭を下げた。

「いや、儂は疲れてなんかいないよ。儂と当たった相手はみんな棄権していったからな」

ハテム副団長は、自らの獲物の両端を持ってうーんっと伸びをした。

「リオは一回戦からだったか。疲れが溜まっているんじゃないのか?」

明らかな挑発を

「お気遣いありがとうございます。でも、そんな軟な鍛え方をしてませんので…」

流して応えると、試合が終わった。

「では、戦うのか」

広場の最終試合の結果は大太刀使いの勝ちだ。

「勿論、お手合わせいただけますよね?」

ガッハハハハハ…ハテム副団長は、答える代わりに黄色の大きな歯を見せて笑った。

進行役が、こちらに近づき

「他の選手は、みな棄権との申し出ですがリオ殿はいかがいたしますか?」

と聞く

「戦います」

と一言いうと、ハテム副団長と並んで広場に出る。通りすがりに勝者の大太刀使いがちらりとこちらを見た。




「それでは、コンセンス王国第一近衛騎士団副団長ハテム ストラベッシー殿とグラス リオ男爵との試合を始めます」

バサリっと旗は落ちた。

「後悔するなよ」

目の前に大石が飛んでくる。しゃがんで受け流すとロケットのごとく飛び出す。握った短剣を突き差すように向けると

「舐めるな」

と大きな団扇にみえる左手が襲ってくる。横っ飛びに距離を取り、素早く短剣と長剣を入れ替えた。磨かれた鎌が死神の然く追撃するのを、すんでのところで長剣で受ける。

カーン

小さな火花が飛ぶ。受けきる必要はないのだ。剣を逆手に持ったまま後ろに二回ジャンプして力を逃がした。剣を持ったまま大回りに走り込み、両手で長剣を持つと縦の一振りを投げる。ハテム副団長は振り返り、チェーンの部分でその剣を受けた。

ガキッ

反動が手首に伝わるがそのまま前転でハテム副団長の横を逃げると、行かすかと大石が地面を這いながら追い掛ける。土埃が舞う。左手で顔を隠して視界を守りながらクラウチングスタートしながら前に進むと、髪の毛の先すれすれを鎌が通った。

また大きく旋回して場所を変えて振り返る。少し呼吸を早めながらハテム副団長が追う。長剣を槍のように向かってくるハテム副団長の胸元を目掛けて投げ込む。

ガチャーン

鎖の部分に長剣がささったのを、面倒くさそうに外し投げると、いよいよハテム副団長の怒りは頂点に達した。息を荒げ、赤い顔をさらに赤らめて、獲物をむやみやたらと振り回し、大きな足で地団太を踏みながらこちらに近づく。

「ちょこまかと逃げるなといっているだろう!」

後ろ歩きのステップで、投げ込まれる攻撃を躱しながら距離を取る。途中で投げられた長剣を拾って牽制に振る。

「どうした?もう攻撃はあきらめたのか」

全く当たりそうもない太刀に奢るような一言を吐いた。広い競技場のなかをもう何週しただろうか。ハテム副団長の顔から汗が流れ、足元がふらついている。時折投げ込まれる石や鎌に勢いがなくなってきている。獲物を投げた遠心力につられてハテム副団長の体は大きく揺らいだ。ここか!不自然な砂埃が何発かハテム副団長の目に襲い掛かった。

「ぐぬっ」

目に土が入ったのか空いた手を顔に回そうと、ハテム副団長が立ち止まった瞬間、素早く腰ベルトに引っかけていた水を撒いた。乾いた土に水が染み込んだだけの地面によろけた大きな体躯を全身の力を込めてタックルすると、とうとうハテム副団長は倒れた。間髪入れずに腰に差した短剣で倒れた背中に一本の線を力任せにかいた。大きな背中を包んでいたシャツがビリビリっと裂ける。これが木剣でなかったら致命傷だ。

「勝者 グラス リオ男爵!」

審判員の声に、会場が今日一番のざわつきを見せた。




「試合の余韻に浸るところ申し訳ないのですが、次の試合はどうしますか?」

次の対戦相手はコンセンス王国第三近衛騎士団長ミレンベ ザハだ。目を合わせるとよくやったわね!といった表情でミレンベ団長は手を振った。

「勿論……棄権で」

と応え、手を振り返した。


「では、最後の試合、コンセンス王国第一近衛騎士団長コンセンス シォドアと、コンセンス王国第二近衛騎士団長ルキウス プルケルの前にしばしの休憩時間といたします」

競技場内の人払いをし、楽器隊や旗持ちが指定の場所に並び準備が進んでいる。

「リオ先輩!すごすぎます!」

二階の観客席に戻ると、興奮冷めやらぬといった状態でルナが飛び跳ねている。

「そうだろ。そうだろ。尊敬する先輩の為に焼き鳥と、ジャーマンポテトあと、果実のソーダ割りなどを献上してもよいのだぞ」

とねだると、

「はい、喜んで!」

ルナは売店の方向に駆けていった。それを見計らってか、アイラとマイロが現れ、ミレンベ団長と、コンセンス王国第三近衛騎士団員ジェイクも姿を見せた。

「リオ様!感動いたしました」

「よく頑張ったわ」

賞賛の言葉を口々にする。

「いや…正直に言って、みなさんのお陰です。本当にありがとうございました」

頭を下げると、4人から拍手が起こる。

「でも、こんなことで、人を変えることなんてできるんでしょうか?」

シャツを破かれたハテム副団長は、何も言わないまま会場を出たようだ。

「人は変わります。活かされて、生きていれば」

大太刀使いとして大活躍したコンセンス王国第三近衛騎士団員ジェイクが答えた。




威勢のいいラッパの音と、太鼓の音のファンファーレで、コンセンス王国の国旗が大きく振られると、会場は拍手と応援の声に覆われた。

広場にはマントを付けたまま、玉の付いた老木の杖を持つ無表情なエルフ、コンセンス王国第二近衛騎士団長ルキウス プルケルと、マントを取り腰に三本の剣、背中に大太刀を備え臨戦態勢の険しい表情で睨むコンセンス王国の第二王子でありコンセンス王国第一近衛騎士団長コンセンス シォドアが広場の際と際で対峙していた。

「それでは最終試合、始め!」

旗が振られると、一気にシォドア団長は駆けだして、距離を詰めた。その行先を地面から突如猛烈に生えたツタが足をすくおうと追いかける。

シャーッシャーッ

カーテンを割くかのように糸も簡単にツタを切り裂きシォドア団長はその足を止めない。しかし、一瞬の変化に気付くと、横に大きくジャンプした。

ゴォォオォー

瞬間、シォドア団長を追いかけていたツタが枯れ果て、燃え出した。シォドア団長は怯えず口を袖口で隠しながら燃える地面を走り抜ける。何かに気付いたシォドア団長は背中に刺さった大太刀を抜きながら振り返ると、その背を追う炎を振るう風の勢いで断ち切った。

そして前を向きまた走り出そうとした先に

ガガガァァァー

大きな岩の壁が現れた。二階席からでも反対側が見えないほどの高い壁。シォドア団長は壁を回り込みながらどこか通れそうな隙間がないか調べるが無駄だった。壁は広場を半分に分断するように建てられている。シォドア団長は腰ベルトから短剣を取り出すと、潔く壁の中央辺りに立ち、一手目の手がかりとして短剣をさした。静まり返った会場にシォドア団長の短剣が岩を差す音だけが響いた。

カツ カツ カツ

岩の壁は、滑らかで引っかかるところもない。下手くそなヤモリのように滑り、足掻きながらようやくシォドア団長が壁のてっぺんに辿りつくと、

ドォーン

と岩は砂のように溶けた。岩が溶けただけではなく地面まで砂になって崩れている。蟻地獄のような深い穴。空中に投げ出されたシォドア団長は、重力に引っ張られながらも、長剣を腰から抜いた。そして穴の脇に長剣を差し、体を反転させその場所に寄せると、タイミングを見計らって柄を握り、棒高跳びの要領で地面に着地する。一息吐くと、再び刺さった柄を支点に飛びあがり深い穴を飛び越えた。そして、再び駆けだすと、蟻地獄だった地面から勢いよく水が噴き出し、凍りついた。そしてその氷は剣のように先を尖らせ、シォドア団長の背中を追った。

バリバリバリ

一瞬でも躊躇したらその氷の剣先はシォドア団長を貫くだろう。広場の端にたどり着いたシォドア団長は、最後の一本の剣を第二近衛騎士団長ルキウス プルケルの喉元にピタリと寄せた。

「どうする?」

超常現象が次々とシォドア団長を襲った間も、剣が首筋を狙う今も、ルキウス第二近衛騎士団長は無表情のまま杖を握って立ちすくんでいただけだ。だが、シォドア団長の背中にもピタリと氷の剣が突きつけられている。

「興が醒めた。お終いだ」

シォドア団長が剣を収めると同時に氷も姿を消し、ルキウス第二近衛騎士団長も広場から立ち去った。


どあぁあああっと歓声が会場を包んだが、その試合を見ていた私とルナは、なんの言葉も出てこない。冷や汗でシャツがピタリとくっついた。凍ったようにしばらく観客に向けて手を振るシォドア団長の姿を目に収めながら、ようやく魔法のとけたようなルナがボソリといった。

「だから、魔法って嫌いなのよ…」

広場は、火も岩も、砂も氷もなにも起きなかったように元の土埃の立つまっさらな競技場に戻っている。

まさに人外の、人知れぬ戦いだった。




ほとんど人々が退場した後の観客席で、ぼんやりしていると、マントを翻し爽やかな笑顔でシォドア団長が駆けてくる。

「リオ!待たせたな」

「いいえ……」

あれだけの戦闘のあとでも、全くいつもと変わらない。少し引いていたのがわかったのか

「どうかしたのか?」

心配そうにのぞき込むシォドア団長に

「何でもありません」

苦笑いで返した。

「そうか…、約束のものを渡そうと思ってな」

シォドア団長はポケットから巻紙を取り出した。巻紙を見て思わずたじろぐ。うぅ…巻紙に対して何かトラウマのような感情を覚えてしまうのは気のせいだろうか?

「……?開けてみないのか?」

シォドア団長は不審そうに顔色を伺う。

「あっはい」

慌てて、止めていた赤いリボンを外すと


グラス リオ殿

近衛騎士団の実技テストにおける活躍を称え、ここに栄誉として子爵の位を与える


短い文章と王紋の印が付けられ、女王のサインが入っている。

「こっこれって……」

「まぁ、全ての希望は叶えることは出来ないがな……」

照れたように頬を搔きながら、あらぬ方向を見てシォドア団長は答えた。

「最高です!」

感極まって、シォドア団長の胸に飛び込む。

「うっわぁ」

シォドア団長が手を挙げて驚いたので、慌てて離れ

「すっすみません。つい…うれしくて」

シォドア団長は顔を手で隠しながら

「リオが望んでいたのがこれでよかった」

と応え、首に下げていたチョーカーに掛かった笛を取り出し、鳴らした。

ピイィィー

夕日で真っ赤に染まる空の遠くから、青い影が近づいてくる。

「青い鳥?」

タコイーズブルーに染まった翼、頭には深い海のような冠羽が揺れている。そして青い鳥はシォドア団長の肩に留まると、その青く長い尾がスカーフのようにコンセンス王国第一近衛騎士隊の白いマントに広がった。

「青い(カレルレウス)鳥(アゥイス)だよ。見たことあるかい?」

「いいえ」

おそるおそる、冠羽に触れてみると、青い(カレルレウス)鳥(アゥイス)は、撫でたその指に絡むように頭を擦りつけてきた。キゥキゥキゥと少し甘えたような小さな鳴き声が響く。

「テトも気に入ったようだ」

青い(カレルレウス)鳥(アゥイス)の足環にはテトと刻印がされている。

「かわいいですね」

テトはふわりと跳んで私の肩に移った。尾の先は、私の背でギリギリ地面に付かないくらいの長さがあるのに、ほとんど重さを感じなかった。テトの小さな頭に頬ずりをするとまたキゥキゥキゥと小さく鳴いた。その様子をシォドア団長は微笑んで見ながら、ポケットを探って、首に掛かったのと同じ笛を取り出し私の手に握らせた。

「青い(カレルレウス)鳥(アゥイス)はエルフのダンジョンで生まれて、大人になると世界を旅する。そして気に入った相手にだけ姿を見せるといわれているんだ。テトもリオを気に入ったようだ」



「リオいつまで寝てるんだい。遅刻するよ」

おばぁちゃんに揺り起こされて、目が覚める。目覚まし時計も、スマホのアラームもないのに一体どうやっておばぁちゃんは決まった時間に起きれるのだろう。この世界はまだまだ不思議なことばかりだ。ぼんやりとした頭で階段を降りると、スープの焚ける匂いと、パンの焼ける香ばしい匂いに自然とお腹が鳴った。

井戸の水で顔を洗って目を覚ますと、馬小屋に行きロゼーヌに新しい藁と、水を汲む。

「おはよう。今日もよろしく頼む」

挨拶をして、額を撫でると気高いロゼーヌは甘えてはこないが、コクリと頷いて応えた。

「着替えは、木箱に入っているよ」

おばぁちゃんはこちらを見ずそっけなく言う。でも木箱の上には、昨晩渡した爵位を寄与するという巻紙が、堂々と飾られていた。木箱を開けると、昨夜まで来ていた継ぎ接ぎだらけのシャツとズボンの代わりに、糊のきいたシャツと、落ち着いた茶色のズボンが入っていた。クタクタになっていたブーツも新調されている。

「おばぁちゃん!これっ」

振り返ると、

「いいから早く着替えな。朝食が出来ているよ」

にやにやと笑った。着替え終えて、腰ベルトをつけると、いつもジャラジャラと硬貨の入った革袋がやけに軽い。開いてみると1000札リポが何枚か丸められて入っている。ガッツポーズをして食卓に着くと、テーブルの上に乗った朝ごはんを見て思わず目が開く。濃い黄色の甘そうなコーンスープと、チーズの添えられたフカフカでやわらかそうなパンから湯気が立っている。

「いただきまーす」

と大きな声で言うと、パンに齧り付く。

「はふっはふっはふっ」

顎の裏を火傷しそうなほど熱い。

「まったく、そんなに慌てて食べることないだろう」

おばぁちゃんが水を差し出した。熱いけれど顎が外れそうなくらい

「おいしい!!」

というと

「よかったな」

おばあちゃんは照れくさそうに、千切ったパンを口にした。



ロゼーヌでいつもの道を駆けると、前方に見覚えのあるシルエットを見つけて馬から降りた。驚かせないようにそっと近づくと、幼児が

てんてん おゆびで クッキーのまんなか

おしてみたら いろいろあめだま

とびだして バームクーヘンたべちゃった

楽しそうに歌っている。

「ハテム副団長、おはようございます」

声を掛けると、両肩に双子を抱えたハテム副団長が振り返った。黄色い歯をにかっと出して笑う。

「おはよう。リオ」

ここは、まだ城下町からだいぶ離れた場所だ。

「なぜ、こんな所に?」

聞くと

「市民住宅の方に引っ越したんだ…住んでみると意外といいところだぞ。公園もあって子どもたちも走り回れる」

市民住宅は、コンセンス王国の宮廷に勤める人や、城下町で暮らす人などのために整えられた集合住宅だ。爵位の低い近衛騎士団員もそこから通う者が多い。

「それはいいですね。では、私は先に行っております」

頭を下げ、馬に乗る。



「本日の訓練を始める前に、今回の近衛騎士団の実技テストによって新規加入する団員を二人紹介する。参れ!」

後ろに手を組み、胸を張った毅然としたシォドア団長の声を聞きながら、ルナが隣で大きなあくびをする。一人は緊張しながらも騎士らしくピーンと張った背中の青年。もう一人はおろおろと周りを伺うように演習場に入ってきたスタイルだけはやたらといい青年。

「二人とも自己紹介をしてくれ」

「はいっ」

騎士らしい青年の真っすぐな声が響いた。

「コンセンス王国第三近衛騎士団から移動してまいりましたジェイク テイラーです。これから第一近衛騎士団員としてみなさんと精進できることを楽しみにしております。どうかよろしくお願いいたします」

卸したての第一近衛騎士団の白いマントを翻し、拳を胸に当てる騎士の挨拶を颯爽と決めた。隣のスタイルだけはいい青年は、覚悟を決めたように生唾を飲み込み

「こっコンセンス王国第一近衛騎士団に所属しますコンセンス  アスラ…です。……よろしくお願いします」

と挨拶をし、ぺこぺこと頭を下げた。頭を下げることが慣れないのか赤べこのようだ。



「速足始め!」

先頭を切って走り出したシォドア団長は、ぐんぐんとスピードを上げていく。

途中まで後ろをついてきた団員が、次々と距離を開ける。

今日入団したアスラといつもはジョギングに参加しないハテム副団長がビリを避けるために歯を食いしばって一番後ろで争っている。

速足というよりはマラソンのような速さに、最後まで着いて来ようとしたジェイクも諦めて、自分のペースで走り、先頭はシォドア団長、ルナ、私の三人になった。

まわりに人がいなくなったのを確認してシォドア団長が話し出す。

「すまなかった。リオ」

「何がですか?」

「役職付けてあげられなくって」

ルナはいかにも、私なにも聞いていませんよといいたげに周囲の風景をわざとらしく見回しながら、ちゃっかりと耳を立てている。

「何も謝ることないですよ」

既存の第一近衛騎士団員は実技テストを経て誰一人欠けることなく役職もそのままに新年度を迎えた。

「そうか…」

シォドア団長は胸をなでおろす。

「ところで、この間はランチにお招きいただいたので、今度は私のお気に入りのお店で夕食をご一緒したいんですけど、ご都合はいかがでしょうか?」

と尋ねると、シォドア団長は左右を見回し人差し指を自分に向ける。自分と?というジェスチャーだ。

「もちろん」

というと、聞き耳役のルナもなぜか赤面してきゃぁっというように顔に手を当てた。

「いっいそいで都合をつける!」

声を裏返してシォドア団長は答えると、今度はルナと私が追いつけないほどに爆速で走り出した。

ルナと私は顔を合わせてぷっと噴き出した。

コンセンス王国第一近衛騎士団は今日も平和だ。



待ち合わせ場所の城下町の広場には、多くのカップルがベンチに座ったり、壁にもたれ掛かりして愛を囁き合っている。

ここってそういう場所だったのか…と気まずさを感じながら、辺りを見回すと目的の人物を見つけて駆け寄る。

「おっおっリオ!」

思いっきり噛みながら、濃紺のスーツに同色のハット帽を着こなしたシォドア団長は、胸に差した一輪の赤いバラと

「今日は誘ってくれてありがとう」

手を差し出す。……?男同士でもこのような挨拶をするのだろうかと疑問を持ちながらも跪いて差し出された手に口づけをし、バラを受け取ってシャツの胸ポケットにさした。

「ツッ!」

シォドア団長は耳まで赤くして押し黙る。やっぱり変なのだろうか?貴族の振舞いとやらを今度誰かに聞いた方がいいのかもしれない…などと思いつつ、目的の行き先を目指した。

「『青い鳥の住処』か…」

「知っているんですか?」

「ハテム ストラベッシーの妻の経営する店だと聞かされたことはある。そして『青い鳥の住処』といえば、一昔前までは、観光客がこぞって泊まりたがる旅館だった。まぁ、自分で行ったことはないのだが……」

旅館という言葉に、シォドア団長の折角戻った顔色がまた一瞬で赤く染まった。

「すてきなお店ですよ。行きましょう」

歴史を感じる古い分厚い木戸を開いた。

中から、生演奏が聞こえる。

客たちは静かに耳を澄ませながら、それぞれの時間を楽しんでいた。

曲が途切れるのをしばらく待っていると、ストライプのワンピースを着た女主人が、奥から現れた。

「食堂だけの利用で」

女主人に伝えると、

「空いているお好きなお席にお座りください」

と促される。

店内を見回すと、ステージに近い席はほとんど埋まっていた。

カウンターの隅に席を取るとメニューを開いた。

書き直したのか、メニューが書かれた厚紙は真新しい。

ビールやアルコール度数の強い北の地方のウォッカなどはなく、ワインがドリンクのメインに変わっている。

「シォドア団長は飲まれますか?」

「いや」

「じゃあ、ウーロンにしましょう。アルコールが入っていない東の地方のお茶です。紅茶よりも渋みが強いので、ここの名物のコロッケとよく合うんです」

ボーイを呼んで注文をする。

ふとステージに目を向けると、花柄のワンピースを着た女性が近づく。

壺にいくらかのチップを入れるとリクエストした曲が始まる。

ピアノの演奏に、女性歌手だけがステージに残る。

流れるようなピアノのイントロに女性歌手の甘い囁きのような歌声が伸びる。

「歌劇『青い鳥』の女の想いだな」

シォドア団長はカウンタースツールに組んだ長い足を少し揺らしてリズムをとった。

「お詳しいんですね」

「詳しいというほどではないけれど、一応皇族だからな。貴族との付き合いでたまにオペラやミュージカル、クラシックなんかは出かけるんだ。青い鳥は多くの曲で歌われる題材だから」

「伝説のような珍しい鳥だからですか?」

「まぁ、それもあるだろうが……青い(カレルレウス)鳥(アゥイス)は自分の運命の人を探すために旅に出て、その相手の目の前にしか姿を現さない。人々は青い(カレルレウス)鳥(アゥイス)を恋の鳥、愛の象徴というんだ」

少し照れたように、シォドア団長は言った。

ステージの横の席で、花柄のワンピースを着た女性と、背の高いバイオリン弾きがこそこそと楽しそうに話をしている。

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