第35話 記憶の中の死地と近づく死地

 七希の記憶通りの場所にあった登山口は、やはり初心者や学校行事で使われるのか、近くに大きな駐車場があり、数十人は雨を凌げそうな東屋も三つ並んでいた。


 大きな看板にはいくつかのルートが難易度別に書かれていて、その中でもやはりこの道が一番簡単のようだ。木枠で階段状に整えられ、手すりもしっかりしたものがついていて、スニーカーでも問題なく登れそうだ。登山客の姿は他に見えなかったがさすがに制服の上にコートを着ただけの七希と美咲は、すれ違えば奇異の目で見られそうだ。


 まだ寒さの残る季節だが、目を凝らしてみると枝先に小さな蕾を見ることもできる。この花が咲くまで生きていられるのかわからないことを思うと、少し背筋が冷たくなる。


 引きこもりを脱して一ヵ月と少しだが、心身ともに追い詰められた状態で過ごした七希の体力はもう年相応のものに戻っていて、しっかりと踏み固められた山道に苦労することもなくすいすいと登っていくことができた。標高が上がっていくにつれて、少しずつ霧がたってきてあの日と同じような雰囲気になってくる。あの時よりも十センチ以上伸びた背から見下ろす景色は全然違って見えた。


「ねぇ、あれが話してた看板じゃない?」


 美咲が指さす方には杭の上部に矢羽根の形に切った板が左右に向かっている看板がある。近づいてみると七希の記憶の通り、文字はかすれて読むことができず、道はどちらも変わらないくらいにしっかりと踏み固められていた。


「確かにこれは迷いそうだね。どっちがキャンプ場?」

「確か左の道だよ。でもこんなに小さいものだったかなぁ」

「それだけ七希くんが大きくなったってことなんじゃない?」


 美咲はぽんと七希の頭に軽く触れると、キャンプ場跡地があったはずの左の道へと歩き出す。霧は少しずつ濃くなってきて、足元は白が半分くらい覆っている。まるで死後の世界を進んでいるようなひやりとした感触に体が浮いてくるようだった。


 そんな恐怖と付き合いながら進む決意を固めてほんの五分程度の道を歩いただけだった。七希の記憶と変わらない朽ちた管理小屋と薪のない薪小屋、それから整備されずに伸び放題になっていた草が枯れたキャンプサイトが見えてくる。


「結構近かったね」

「そんな、あの時はここに辿りつくだけでへとへとで、もう来た道を帰る体力もなかったのに」


 実は似たような場所に間違って辿りついてしまったんじゃないか、と七希は周囲の様子と自分の記憶を比べてみるが、確かに前よりも痛みはひどくなっているとはいえ、確かに七希が絶望に打ちひしがれた場所に違いない。


「ここ。このベンチに座って、もう助からない。このまま死ぬんだって思いながら疲れて寝ちゃったんだ。本当に地獄の入り口に迷い込んだと思ったくらいだったのに」


 あまりにも拍子抜けな結果に七希は必死に弁明するが、その姿が時々美咲の口から堪えきれない笑いを誘う。


 七希が当時死に場所だと思い込んだベンチに並んで座る。周りは朽ちていても変わらずしっかりとした作りのそれは、二人が座ってもガタつくことはない。


「ねぇ、どうだった? もう一度来ても死にそうな気がした?」

「もうやめてよ。確かに僕が大袈裟だったって」


「でもね、これで本人は死にそうだって思っていても、案外そうでもないこともあるって気持ちになってこない?」


 今まで笑っていた美咲の顔が急に険しくなる。真剣な目は七希の心の裏まで見透かしているようだった。


「もしも明日、全員が助かる方法が見つからなかったら私に告白するつもり。そうでしょ?」

「……なんでわかるの?」


「私だって、同じ気持ちだから。私にはそんなことしないで、って言っておきながら自分はやろうとしちゃうんだ」


 考えていたことをここまで完璧に言い当てられると何も言い返すことができない。


「私は約束を守る。明日になっても七希くんに告白しない。だから、七希くんも約束して。明日、私に告白しないって」


「どうして。美咲は生きたくないの? 僕はいいよ。高校もろくに通ってない。勉強もできないし何かの才能があって期待されてるわけでもない。両親にすら、腫れ物扱いされてる。

 でも美咲は違うでしょ? どうしてこの試験に迷い込んだのかはわからないけど、僕とは違ってちゃんと高校に通ってたはずだ。見てなくてもわかるよ。僕とは違う。これが本物の高校三年生なんだって、教室で再会した時にすぐにわかったから」


「本物なんかじゃない。こんなのが憧れた高校生活のはずがない!」


 美咲は確かに叫んだはずなのに、その声はかすれて山の中に消えていきそうだった。


「七希くんがいなくなってからもイジメの対象からは外された。七希くんのおかげだよ。だってもしかしたら今度は私に刺されるかもしれないってイジメる人たちに思わせてくれたから。だけど、一度イジメに遭ってた私に友達なんてできないよ。いつもいないもの扱いで、攻撃されなくなっただけ。毎日四十人もいる教室で、私はずっとひとりぼっちだった。

 でもね、一人だけクラスに仲間がいた。七希くんは高校三年間ずっと私と同じクラスだったんだよ。知らなかったでしょ?

 誰も座っていない空っぽの席だったけど、私はいつか七希くんが学校に来たら謝ろうって。それを守るためだけに学校に通ってた。

 だから、白烏先生から学校の問題児を集めて試験をするって話を聞いて、自分から参加したいってお願いしたの。そこにはきっと七希くんも来るって思ったから。まさか試験がこんな内容だとは思わなかったけど」


「そんなの、今更言わないでよ。僕は美咲がそうやって待っている間、ずっと君を殺すことだけを考えてた。君を殺すことが、復讐を遂げることができたら、もう生きる意味なんてないと思ってた。

 でも、今は逆の気持ちなんだ。今は言えないけど、僕の命よりも大切なものが確かにあると思ってる」


「それを知っていたのは、私の方が先だから。試験が始まった時から決めてたもの。七希くんにうんと嫌われて、最後に七希君のために死ぬ。七希くんは私に何の感情も抱かないまま忘れていく。それが私のせめてもの罪滅ぼしになるって思ってた。

 でも、会ったら我慢できなかった。もっと私のことを見てほしかったし、私のことを知ってほしかった」


 お互いに告白にならない言葉を選びながら、でも言葉は止まらなかった。山の中腹にあるキャンプ場は昼間とはいえ肌寒いはずなのに、体はどんどん温かくなっていく。


「桂木さんが最初に会った時に言ってたよね。人を殺すほどの感情は相手に強く関心を持っていないと出てこない、って。向いている方向は違っても、二年間ずっとお互いのことを考えていたんだもんね」


 美咲はそう言って嬉しそうに微笑みをこぼした。そのまますっと腰を浮かせてさらに体を寄せてくる。猫が自分の所有物を主張するように頬を七希の肩に擦り寄せる。


「明日、行く先はどこでもいい。普通の生活でも天国でも地獄でもいい。何もない虚無の未来でもいい。隣に七希くんがいてくれるなら、それで。

 私は二年前に逃げ出して、七希くんと一緒にいられなかった。だから今度は絶対に間違えない。どんな場所でもあなたと一緒にいるから」


 その宣言は七希の胸にずしりと重くのしかかった。楽な逃げ道を、七希が告白して美咲を助けるという独りよがりで英雄的で自尊心を満たすシナリオは許されない。


 しばらくして二人は立ち上がり、お互いの手をしっかりと握って、キャンプ場を後にした。山を下りる間も美咲の手から伝わってくる体温が七希と混ざり合って、知らない力になって体中を巡っているようだった。


 この感覚を七希はよく覚えている。初めて自作ナイフの作り方を知って、刀身に美咲の死に顔を浮かべながら一心不乱に研ぎ始めた時の感覚だ。何を捨てても自分の願望を成就させる。そういうときに人間の体から無限の間欠泉のように噴き出してくる生命の躍動だ。


 七希は部屋に戻ると、部屋の隅にある小さな読書スペースに陣取った。埃一つない木のテーブルの上にくしゃくしゃのプリント用紙を置く。ルールが書いてあるあの紙だ。メモ用紙にするためにもらってきた紙束を積み上げ、これまでに思いついたことを殴り書きしては中央に置いたプリント用紙の周囲に並べていく。夜も更け、正司は何度か七希に声をかけたが、一度も聞こえてなどいなかった。

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