第26話 聞きたかった言葉と聞きたくない言葉
隣の教室はさながら開戦の合図を待つ兵士の待合室のようだった。殺伐として静まり返っていながら誰もが緊張で今にも張り裂けそうになっている。命を賭けたテストなんて七希を含めて誰も受けたことはない。七希が教室に入ると一瞬だけ視線が集まったが、すぐにその視線はそれぞれの手元に戻っていった。
七希は空いている席を探す必要もなく美咲の隣に座った。そこに座るべきだというように美咲の左隣は空席だった。反対側には紗英が座り、美咲の様子を
「私は、さっきの桂木さんが言ったことは本心じゃないと思う」
七希が席に座った途端に、美咲は七希にだけ聞こえるような小さな声でそう言った。
「七希くんを殺したかったから私が邪魔だったって言っていたけど、きっとそれは嘘。七希くんの隣に私がいるのが嫌だったの。私もそうだったから」
「それって、どういう意味?」
七希が聞いても美咲はもう何も答えなかった。励まそうとしたのかもしれないが、七希にはある意味では逆効果だったかもしれない。それは告白した紫苑と美咲が同じ気持ちだと言っているようなものだ。
それは七希にとっても同じことだった。もう七希にとっても隣に座っている美咲は、二年間忘れたことのない仇敵ではない。復讐したかった美咲はあの山の中で死んだのだ。七希が一人で告白した時にいなくなってしまった。今、七希の視界の端に映っているのは二年間忘れなかった片思いの相手でしかない。
このデスゲームの最中でなければ、二人きりになれる場所に呼び出して今すぐにでも思いを伝えてしまいたいくらいだった。
「何を考えてるんだ、桂木さんがあんなことになったばかりなのに」
七希は誰にも聞こえないように独り言を呟く。
美咲が生きていた。
紫苑が死んだ。
正と負の感情が限界を振り切って同時にやってきて、両腕を左右から思い切り引っ張られているようだ。張り裂けそうなほどの感情は水と油のように反発しながら七希の体の中をぐるぐると巡っている。
「お待たせしました。そろそろ始めますよ」
教室に入ってきた白烏が何事もなかったように両手を叩く。血で汚れていたスーツは着替えたのか、赤色はどこにも見えない。
「そうだ、これから試験なんだよ」
「何言ってるんだ。落ち着け」
後ろから不安そうな麗の声が届くが、七希の耳に入った言葉はそのまま反対から抜けていった。
この数十分の間にいろんなことが起こり過ぎた。昨日まで詰め込みに詰め込んだ勉強の内容が曖昧になって歪んでいく。
「では、まずは国語から。試験時間は六〇分です」
たった十二人しかいない受験者の机に一つずつ試験用紙を白烏が置いていく。今朝教室に入るまではあんなに自信があったはずの七希が、問題にとりかかる頃には動揺で文字すらうまく読めなくなっていた。
* * *
「はい、おつかれさまでした。採点をしますので、明日の午後一時に教室に来てください。そこで結果をお伝えします」
最後の英語の試験が終わる頃には七希の顔は土気色になって、一足先に罰として毒が打ち込まれたようだった。
解答用紙は全部埋めることはできたが、どれもこれも自信がない。自己採点をしようにも残った問題用紙に書き連ねられた文字や数字の中からどの部分を答えに書いたのかよくわからなかった。
「それじゃ、また明日ね」
余裕そうな表情の紗英が一番に席を立つ。それが合図だったように疲れた顔ややり切った達成感とともに生徒がバタバタと立ち上がって教室を出ていく。普通の高校生の試験なら、打ち上げにカラオケに行ったりするものなのかもしれないが、少なくとも七希はそんな気分にはなれなかった。
教室に残っているのは七希と美咲の二人だけだった。
試験の間にも隣にいる美咲と教室のどこにもいない紫苑が七希の頭の中で解けない問題として渦を巻いていた。二人の他に誰もいなくなっても七希はどんな顔で美咲を見ればいいかわからないでいる。
「美咲を殺そうとしたのは、本当に桂木さんだったの?」
沈黙を嫌うように七希の口から疑問がこぼれた。言ってからいい話題ではないと気付いたがもう時間を戻すことはできない。恐る恐る美咲を見ると、なんとも思っていないような無表情で七希の方を見つめていた。
「七希くんは私より桂木さんの方が気になるんだ」
「そういう意味じゃなくて、今までそんな雰囲気を少しも感じなかったから。なんだか、桂木さんが死んだのだってまだ実感が湧かなくて」
「あの日、林間学校の夜に桂木さんに誘われて外で話すことになったの。七希くんのことだって言うからきっと私に宣戦布告するんだと思ってた。でも、急に背中に鈍い痛みが走って、気がついたら病院だった。
燃えてる鉄の棒でも刺されたのかと思った。髪は焦げちゃって切ることになったけど、白烏先生は雪山で仮死状態になっていたから助かったって言ってたよ」
淡々と話す美咲はまるで他人のことを話しているようだった。本当に意識がなくて聞かされただけなのかもしれない。
「やっぱりそうなんだ」
自分でやっておきながら、美咲を心配して悲しんで殺した人間を恨んでいるようなことまで言っていた。その紫苑を七希は一度も疑わなかったことに自分の人を見る目のなさに呆れてしまう。
「七希くんはさっきので告白されたことになったんだよね」
「ううん。桂木さんは罰則を受けた後だから告白は無効だって」
「そっか。じゃあまだ私が生きていた価値はあったんだ」
美咲が不穏なことを口走る。七希が顔を上げると、美咲は初めて会ったときと同じような読み取れない表情を作っていた。
「私は、絶対に七希くんを死なせたりしない。このゲームが終わる直前に私は必ずあなたに告白する。それが、私にできる罪滅ぼしだと思うから」
「やめてよ」
七希は勢いよく立ち上がると、自分の感情がストップをかける前に勢いに任せて美咲を抱きしめた。そのくらいの助走がなければできないくらい恥ずかしいが、不意を突かれて驚いたままの美咲の体に力を込める。
「僕はもうそんなこと望んでいないんだ」
二年前から恨んでいた美咲も恨みを持ち続けていた七希ももういない。美咲の罪ももう存在しない。
「一緒に生きよう。生き残ろう。このゲームを必ず」
美咲は何も言わなかった。ただ七希の背中に回された腕が七希と同じくらい強く締めつけられる。少し息苦しくなるような痛みがどこか心地よい。
「ごめんなさい。あの時、私怖かった。またイジメられるのが怖かった。七希くんに助けてもらったのに、七希君がどうなるかもわかっていたのに。ごめんなさい、ごめんなさい」
美咲の謝罪と大泣きは無人の教室に長く長く響いていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます