第22話 遠い思い出と忘れない後ろ姿
無言のまま玄関のドアを静かに開ける。廊下の先はリビングになっていて、閉まったドアの擦りガラスには部屋の明かりが逆光になって大人一人のシルエットを映し出していた。身長からして母親だろう。静かにしていても七希の帰宅は毎日気づかれている。それでも両親がそのドアを開けて七希の顔を見ることは一度もなかった。
学校だけではない。七希は家でも殺人未遂を起こした危険人物であり、ナイフを作り続ける狂人なのだ。
七希はリビングのシルエットを見ることなく、足音を殺して二階の部屋に逃げ込んだ。
部屋の前に置いてあった夕食を食べながら、紗英にもらった今年の学年末試験の問題に取りかかる。机のスタンドライトをつけたのはいつ振りかわからない。ただ今は勉強をしている方が色々なことを忘れられそうだった。
教えてもらっていた時は解けそうもないと思っていた課題も、参考書と見比べながらやっていると少しずつわかってくる。七希は元々頭が悪いわけではない。それに二年間やってこなかったとはいえ、勉強そのものが嫌いで学校に行かなくなったわけじゃない。
初めて体験する高校の定期試験は、七希にとって新しいゲームをプレイしているような感覚だった。
ナイフを研ぐ時間、動画を見て過去の殺人事件の計画を知る時間。すべてはもう無意味になってしまった。その時間をすべて勉強に注いでいくと、遅れていた勉強も周りにどんどん追いついていった。
正司や紫苑は簡単に抜き去り、特に物理と世界史に関しては紗英にテストをしてもらってもかなりの出来になっていた。
入るのが大変という理由で、紫苑の部屋に集まるのはあれっきりとなったが、学校の空き教室やファミレスや図書館を使ってそれぞれに集まり、勉強を進めていく。
試験日まであと二日に迫ってくると、七希たちと同じ腕輪をつけた生徒が多目的教室や図書館で勉強している姿を見るようになった。
七希は今日の集合場所になっている公民館に向かっていた。紗英によると、公民館の会議室は市民なら安価で借りられるので、レンタルスペースを借りるより安く場所を確保できるという話だった。
冷えたアスファルトの地面から上がってくる冷気を足元に感じながら、七希は周囲の真面目そうな大人たちの姿に少しビビりながら歩いていた。
市役所や税務署といった行政関係の施設が固まっている一角に、普段は用事なんてない。なんとなく大人が利用する施設というイメージだけが先行して、自分が場違いなところにいるように感じられた。
「確かこっちの通りを出ると大きな病院があるんだっけ」
小学生の頃に祖母のお見舞いに行った記憶がかすかに浮かんでくる。その時は真夏でバスから降りた瞬間にアスファルトの熱で靴が溶けそうなほどだった。庁舎の前のタイルの床にすぐに逃げて、靴の裏からはゴムの溶ける臭いが立っていた。
あの頃はどうして道が鉄板のように熱くなるのか、どうして靴から臭いがするのかもわからなかったが、高校生になった今はその理由も理解している。
それなのに、たくさんの経験を積んでも七希には今の自分の生き方が本当に正しいのかはわからなかった。
「抜け殻みたい、かぁ」
あの日、紫苑に言われた言葉をまた呟く。勉強をしていても時々チラつく美咲の影を振り切れないでいる。
あの目を引く黒髪も、冷静な口調も時折見せる子供っぽい笑顔も忘れられそうもない。
「はぁ、もっと勉強に集中しなきゃいけないのに」
七希はぼんやりと病院へ続く道を眺める。子供の頃の自分が歩いた道はあんなに遠く感じたのに、今は病院の屋上辺りに見える赤十字は、すぐそこにあるように見えた。
その道をウェーブのかかった黒髪の女の子が歩いていた。ベージュのロングコートにヒールの低いブーツを履いて、病院の方へと歩いている。すぐに人ごみの中に紛れていく。最期に見た姿と違い、ショートカットにしているが、その髪を見間違えるとは思えなかった。
「美咲?」
声を出してみるが、答えは返ってこない。
「美咲!」
周囲の大人たちが振り返って七希の方を警戒するような目で見ながら歩いていく。そのまま七希は立ち尽くしていたが、美咲が戻ってくることはなかった。
「見間違いだったのかな。それとも幻覚だったとか」
自嘲気味に笑みを浮かべて七希は諦めたように自分に首を振る。美咲は死んだのだからこんなところを歩いているはずなんてないのに何を見たのだろうか。
「よう、吉岡。今日の約束の場所この辺でええんよな?」
「あぁ、柳くん。うん、このあたりであってるはずだよ」
「なんかあったんか?」
「ううん、なんでもない」
もう一度黒髪の女の子が行った先を見るが、もうどこにもその姿は見つけられなかった。気のせいだったのだ、と自分に言い聞かせて、七希は正司と共に約束の公民館に向かった。
公民館の一室は暖房もよく効いていて、七希はすぐにコートを脱いでパイプイスの背もたれにかけた。
質素で実用性だけを考えられた殺風景な会議室だが、言いかえれば勉強の邪魔になるマンガやゲームがなくて誘惑が少ないとも言える。ホワイトボードやプロジェクター用の大きなスクリーンもあって紗英の解説も聞きやすい。七希はほとんど授業を受けていないこともあって、こういう部屋で並んで勉強することに懐かしさを感じる。
七希がぼんやりと問題集を進めていると、隣に座った正司が机に頭をぶつける勢いで突っ伏した。
「はぁ、もう俺無理や。あと数日で死ぬんやぁ」
「もうそれ何回目? 伏せてるくらいなら勉強しようよ」
「そうやって吉岡が慰めるから調子に乗るんだ。ほっとけば勝手に復活するさ」
「なんだかいたずら好きの犬のしつけみたいだな」
星夜や麗はすっかり慣れてしまって正司の嘆きに取り合わない。紫苑と紗英に至っては最初から一貫して無視している。
こう言いながら今日も勉強に来ているところを見ると、正司がまだ生きるのを諦めていないことがわかるだけに七希はむしろ安心できた。
「そういう七希様はあまり集中できていないようですが?」
「えっと、ちょっと気になることがあって」
そこまで言って七希は言葉を濁す。林間学校からの付き合いになるこのメンバーも、ようやく美咲の死から立ち直りつつある。それなのに自分がまた美咲に似た人を見たなどと過去に囚われるようなことを言っていいのかと考えてしまう。
「だったら話せばいい。腹の中に溜め込んで一人で悩むと道を誤るぞ」
「ちょうど休憩にいいじゃないか。話してみなよ」
「うん、じゃあ話すけど、さっきここにくる途中に美咲みたいな人を見たんだ。後ろ姿だけですぐに見失っちゃったけど」
髪を切っていたこと、見間違いかもしれないこと。七希は一瞬だけ視界に映ったあの後ろ姿を慎重に思い出しながら話す。本当にそこにいたのかもわからない。
「いてくれたらいい、って思ったから、そう見えただけかもしれないけど」
「普通に考えれば、見間違い、でしょう。不二さんはもういないのですから」
「でも、吉岡が不二を見間違えるか?」
星夜の疑問には誰も答えなかった。誰が見ても七希は美咲に恋をしていた。その七希がたった数週間で美咲のことをすっかり忘れ、目に焼き付けたであろう後ろ姿を見間違えることなんてありえない。そう言いたそうだった。
あるいは、七希はまだ美咲のことを忘れていない。この人が愛し合うことで殺し合うゲームの中でも、恋愛は確かに存在すると信じたいのかもしれなかった。
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