第21話 秀才のジレンマと抜け殻の僕

 企みがバレた、というよりも自分の主張に穴があったことを紫苑に言われたことにプライドを傷つけられたようだった。ノートに無意味な円を何周も書き、反撃の言葉を探っている。


「裏切るかもしれない相手を信じるか、自分から裏切るか。囚人のジレンマっていうんだっけ?」


「裏切ることができるのはテストで高得点がとれる者だけだ。ジレンマではなく、誰かが誰かの命運を握っているんだ」


 そこで沈黙が流れる。この場にいる誰もがやけに喉が渇くというように飲み物に手が伸びる。


 今この場にいるのは、林間学校を乗り越えて三日を共にし、美咲の死さえも互いに信じて詮索しなかった。その仲間でさえ、自分の命のやり取りとなれば簡単に信じることはできない。その空気を七希は吸えなくて息苦しくなる。


「でもやっぱり、わざと試験で悪い点を取らせるのはみんなに悪いかな。市川さんなら高得点がとれるんだろうし、僕が頑張ってみるよ」


 溺れそうな口を水面から出すように、七希は声を絞り出した。水底のように重苦しい空気が溶けていく。その空気を肺の中にいっぱいに入れて、大きく息を吐いた。


「吉岡くんがそう言うならそれでもいい。渡したテストって校内の最後のテストだから当然よく出る出題範囲とも言える。だから、まずはそれをやっていきましょう」

「さすが市川さん。抜かりないね」


 きっちり全員分印刷した学年末試験の問題を一つずつ丁寧に解いていく。七希は何度聞いてもさっぱりわからないままで、結局教えてもらっても一問も解けなかった。教科書を持っていないことを話すと、紗英からは参考書を山のように持たされ、持ってくるときにはほとんど空だったカバンはパンパンになっていた。


「明日はいつも行ってる多目的教室を使いましょ。毎回こんな紐なしバンジーやってたらゲームに殺される前に命がなくなりそう」

「あら、毎日飛び降りている私への当てつけですか?」


「そう言うな。日々のトレーニングがしなやかで強靭な肉体を作るんだ」

「そういう問題じゃないと思うよ」


 約一年間も授業に出ていない紫苑とサボり常習犯の正司は七希と同レベルで、星夜は文系、麗は理系が苦手らしい。それでも紗英から要点を聞いて努力すれば光明は見えてきそうだった。


 隠し扉の前で別れる。見送りに立っていた紫苑が、周りに見えないように七希の服の裾を引っ張った。


「どうしたの?」

「七希様はこれでいいのですか?」

「いい、って何が? よくはないけど勉強を頑張るしかないよ」


「そうではありません。あの中には不二美咲を殺した人がいるのかもしれません。この試験は、その殺人鬼をゲームのルール内で殺すことができるチャンスです。

 それなのに犯人探しもせず、ましてや協力して生き残ろうなど。不二さんの死は、七希様にとってはもう過去なのですか?」


 夕映えが紫苑の髪を赤く染めている。頬まで赤く染まっているのは夕日か怒りかは俯いた顔からはうかがい知れなかった。


「過去じゃないよ。美咲のことは忘れてない。でも、復讐のために生きていたら何も変わらないって、美咲に教えてもらったから」


「……私は不二さんの代わりでもいいと思っていました。それであなたの隣にいられるのなら。でも、それすらもいらないというのなら、せめてもっと私自身を見てくださいませんか?」


 ようやく七希に向けられた紫苑の赤い顔は悔しさと少しばかりの恥ずかしさを帯びて赤に染まっていた。不意打ちのように告げられた言葉に七希は何も答えられない。


 それ以上の言葉は二人の間には起こりえない。このゲームが続く限り、告白することはできない。


 崖に向かって猛スピードで走るチキンレースのように、紫苑は死の淵ギリギリまで、七希の心の紙一重まで迫る。それでも七希の心はしんとして静かだった。


「僕が死んでほしくないって思っているのは、桂木さんだって同じだよ。だから、そこから先は言わないでほしい」


 紫苑は無言のまま振り返る。


「今の七希様は、まるで抜け殻のようです。人を殺すほどの他人への関心を感じませんわ」


 紫苑はそれだけ言うと、七希の答えも聞かず隠し扉の向こうに消えていった。取り残された七希は首をかしげて紫苑を見送るだけだった。


 冬の夕日は短く、帰る途中にはもう夜という暗さになっていた。まだまだ夜は長く、仕事を終えて家路につくスーツ姿や塾帰りらしい真面目そうな制服の集団とすれ違う。今年も一つだけ、美咲からもらったバレンタインデーも過ぎ去り、街の様子は気の早い四月からの新生活の準備を促すものに変わっていた。


 街灯の多い道を選びながら、七希はぼんやりと紫苑の言葉を思い出していた。


「まるで抜け殻、か」


 紫苑の言うことはまったく間違っていない、と七希は思う。美咲を失ってから、いやもっと前に無意識に美咲のことが好きだったと気付かされた時から七希は抜け殻のようだった。


 美咲を殺すと心の中で息巻きながら、現実では美咲との時間がずっと続けばいいと願っていた。もしも最終日まで美咲が誰にも告白されないままだったら、七希は迷いなく彼女に告白していた。自分の取り返しのつかない人生よりも、美咲がこの現実で生きていてくれた方がいいと思っていた。


 美咲が誰かに告白して死んだ。その事実を受けてもまだ、七希の気持ちは変わっていない。


 七希が殺意を失うには、十分過ぎるほどの理由になる。そして、この二年間の生きる目的すら本当は無意味だったと知って、空っぽの七希は次に進むべき道を選びあぐねているのだ。


「とりあえず今は勉強しなきゃ。市川さん、試験では手を抜いてくれたりしないかなぁ」


 星夜に習った星座を視線でなぞりながら帰っていると、すぐに自分の家に着いた。紫苑の家とは比べ物にならない平凡な二階建て。そのかわり壁はのっぺりとしていて自分の部屋まで登って行けそうになかった。

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