第8話 周囲の評価とそれぞれの呼び方

「君も告白された人?」

「いえ、この通り。まだですわ」


 ハスキー女子が右手首の腕輪を見せる。確かにそこには黄色のランプだけが光っている。


「さっきのホームルームで脱落者が出ていたでしょう? ですから詮索が厳しくなって素性を明かすことになったのです」

「何か許されないことをしてたってことだ」


「えぇ。ですが教室にあなたが残っていてくれてよかったですわ。の吉岡七希様」

「僕が? 僕は君のこと知らないけど」


桂木紫苑かつらぎしおんと申します。七希様は知らなくても、お隣の貴方なら聞き覚えはありますかしら?」


 視線を向けられて、美咲は紫苑を見つめ返した。少し言い淀んだが、息を吐いて心を落ち着けると、美咲は紫苑について教えてくれた。


「桂木さん。確か二年生の時に教室で自殺未遂をしたっていう子。ナイフで自分の手首を何度も切って。でもそれが吉岡くんと何の関係があるの?」


「同じではありませんか。お互い教室で刃物を振るった同士、感じるものがあるかと思いまして」


「それを一緒にはされたくないんだけど」


 七希としては、たまたま手元にあったカッターナイフを怒りと勢いのままにつかんだだけで、最初から美咲を刺そうとしていたわけでもない。困ったようにこめかみをかいて、どうしようかと考えていると、七希をかばうように美咲が一歩前に出た。


「とにかく仲間意識はわかったけれど、だからって一緒にいる意味はないと思う。そうでなくても初対面の相手を人殺し呼ばわりするような人とはいられない。そうだよね、吉岡くん」


 美咲が振り返る。素性の知れない人間と一緒にいてもメリットはない、という言葉は本当だ。今はただ助けを求めているように見えても心の内では何を考えているかわからないのだ。七希やあるいは美咲を標的にして告らせようとしているのかもしれない。


「ううん、助けてあげようよ」


 それでも七希は救いの手を差し伸べた。ただそれは二年前の時のようにただ後先も考えずに守りたいと思ったわけではない。今の七希に美咲は殺せない。美咲がいなくなれば七希自身が生きていくことができない。その依存から抜け出すためにはどうしてももう一人入れたグループを作りたかった。


「吉岡くんがそう言うなら仕方ないけど。でも、変なことしたらすぐに追い出すから」


 七希にもわかるほど不満そうな声で渋々了承した美咲は、紫苑から半径一メートルギリギリの距離を保ってぴたりと七希のそばに張りつく。あからさまな敵意を前にしても紫苑は少しもひるんだ様子もなく、わざとらしく体を九〇度折り曲げて深く頭を下げた。


「七希様は思った通り、優しい方のようでよかったですわ」

「殺人未遂なんて言い方しておいて、優しいと思ってたの?」


「もちろんです。本当に心が冷めた人間は、他人であろうと自分であろうと殺そうとなんて致しません。他人に強く関心を持ち、関係を変えたいからこそ人間の命を懸けられるのです。あなたはそういう方だと噂を聞いた時から思っておりました」


「全然褒められてるような気がしないよ」


 七希は恥ずかしさを隠すように自分の襟足を指に絡めながら答えた。あの時、美咲を殺してしまいたいと思ったことは間違いない。しかし、それと同時にそれは悪であり、許されないことだともわかっていた。だから最後の最後で美咲を刺すことはできなかった。


 それなのに、紫苑はそれを肯定した。それは七希にとって初めてのことでどう答えていいかわからなくなる。


「どうして今日から一人になったの? 告白されたわけでもないし、昨日まで一緒にいた人たちがいたんでしょ?」


「えぇ、昨日までは女の子だけのグループで四人で過ごしていたんです。でも今朝参加者が三人減っていることを知って、人が死ぬということと私の顔が結びついてしまったんですわ。それまでは偽名を通していたのですが、まさか一年以上も学校に通っていない私でも簡単に気付かれるとは思いませんでした」


「二年以上学校に通っていない僕のことがすぐにわかるくらいなんだから、みんな覚えているんだよ」


「えぇ、有名人になるのも困ったものですわ」


 この場合、有名人という言葉でいいのかはわからないが、七希はこのデスゲームが始まった初日のことを思い出す。学校に行かなくなった日から自分の時間は止まってしまったように感じていたが、それは他の生徒も同じ事で、七希は学校にいない間もずっと殺人未遂の危険人物でしかなかった。


 過去を変えるには清算するしかない。しかし、七希に思いつく方法は、今も隣から片時も離れずに、ときどきいじらしく袖を引っ張ってくる美咲を殺すことしか思い浮かばなかった。


 今日を生き延びるのに必要な五時間の間、七希と紫苑は時々思いついたようにとりとめのない話をしていたが、美咲はずっと黙ったまま、子猫が威嚇するように背中を丸めて顎をひいて七希と紫苑を見ているだけだった。


「では、ランプも消えましたので私はこれで。明日もこの教室にくればよろしいですか?」


 昼過ぎになって少し寒さも和らいできた頃、紫苑は美咲をチラリと見て立ち上がった。


「うん。そうしよう」


 七希が答えると、嫌そうな顔をしながら美咲も首を縦に振った。最初は片手の指で七希の袖をつかんでいただけだったのに、今は両腕でしがみつくように七希の腕を抱えて逃さないというほどになっていた。


 その様子を見てくすくすと堪え切れない笑いを漏らしながら紫苑は教室を出ていった。七希は自分の腕に巻かれた腕輪を見る。黄色のランプは消え、明日を生きる権利が与えられている。ここ数日は美咲と目的もなく出かけていたおかげですっかり忘れられていたが、美咲を失えば、さっきの紫苑のように助けを求めて彷徨さまよう立場になる。


「えっと、もう行ったみたいだよ。そんなに怖がるような相手じゃなかったと思う」


 まだ腕から離れようとしない美咲に優しく語りかける。美咲にとってナイフという言葉がどれほどのトラウマになっているのか七希にはわからなかったが、落ち着かせるように続ける。


「ほら、何も持ってなかったし。仮に隠し持っていたとしても、今は暴力を振るったら殺されちゃうんだ。心配することないよ」


 紫苑のフォローをしているのか、自分のために言い訳しているのかもわからなくなる。何も言わない美咲の肩にためらいがちに触れようとしたところで、数時間振りに美咲が口を開いた。


「なんで会ってすぐに『七希様』なんて呼ぶの。私はまだ『吉岡くん』なのに」

「え?」


 予想もしていなかった言葉に思わず聞き返す。そんなこと気にしてもいなかった。美咲はさらに七希の腕にしっかりと抱きつくと、溶けるように頬を寄せた。


「私はもう何回もデートしてるのに。いきなり出てきてなれなれしい。吉岡くんも全然嫌な顔しないどころか楽しそうなんだもの。私よりああいう子の方がいいんだね」

「そういうわけじゃ。ただ、少し共感してもらえるところがあったから」


 二年前のあの事件以降、七希に対する評価は決まってしまっている。殺人未遂を犯した危険人物。それが事実ではなかったとしても、七希自身も諦めて受け入れてしまっていた。それを無茶な理屈でも肯定してくれたのは七希にとって初めてのことで、美咲にも七希にもできなかったことだった。


「それに、好みの女の子だったら一緒にいないよ。何かの間違いで告白したら死んでしまうんだから」

「つまり私は全然タイプじゃないってことなんだ」

「そういうつもりじゃ」


 つんとして美咲はそっぽを向くが、体は少しも離れる気配がない。これではまるで美咲が嫉妬しているみたいだ。


 気持ちを確かめることはできない。美咲が本当に七希を好きだとして、告白させれば七希の積年の願いは達成できる。それなのに七希は美咲の言葉を引き出す言葉が出てこなかった。


「今はまだ、その時じゃない。もっと苦しんでから」


 言い訳するように口から漏れそうになった声を飲み込む。そっぽを向いた美咲には届かなかったようで、七希は同じ言葉が出ないように口を結んだ。


「……七希くん」


 無言の時間を嫌ったように、美咲がぽつりとそっぽ向いたまま名前を呼んだ。


「七希くん、七希くん、七希くん」


 腕に押し付けられる力が強くなる。


「ねぇ、返事してよ」

「あ、あぁ、うん」


「やっぱり変かな?」

「ううん。それでいい」


 恥ずかしくなって、今度は七希が顔を逸らした。目的通りに美咲から好意を寄せられているはずなのに、七希の方が手玉に取られている感覚ばかりがする。このデスゲームは、深みに向かって進めば進むほど深淵が黒く呑み込もうと口を開ける。他人に好意を寄せられて嫌な感情を持つ方が難しい。それがたとえ殺したいほど恨んでいる相手でも。


「……美咲」


 七希は思ったことを今度は飲み込まずに口に出してみる。


「はい。七希くん」


 嬉しそうに弾んだ声に引き寄せられるように美咲を見る。ずっとクールに振る舞っていた美咲の笑顔を七希は初めて見たような気がした。

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