一章 三年M組 短期卒業試験
第3話 研ぎ続ける後悔と赤い手紙
ホコリをかぶった照明は役割を奪われ、その仕事は大きなディスプレイから放たれる光だけが担っていた。
足の踏み場もないほどに散らかった金属片がディスプレイの淡い光を反射して鈍く光っている。七希の手元には銀色に光るステンレスのスプーン。いやスプーンだったものと呼ぶべきだろうか。砥石で磨き続けられたそれは、もはや本来の丸みを失って武器へと成り代わっていた。
「もっと鋭く、もっと小さく、喉、腹に刺さるように」
研ぎ澄まし続けたそれを手近にあった新聞紙をつかんで試し切り。空気を割くような軽い手応えで新聞紙を切り裂いた。
「こんなので人が殺せるもんか。もっと、もっと鋭くだ」
学校に通わず、部屋に引きこもった七希の中に残ったものは後悔だけだった。
「どうしてあの時、不二を助けたんだ」
その後悔は二年の月日を経て、歪み、変質し、当初の形を失っていった。
「どうしてあの時、不二を殺さなかったんだ。あの時殺していれば、もっと違う生き方ができたかもしれないのに」
イジメへの恨みは、最後まで七希を見なかった美咲への恨みと同質となった。
「あの時のカッターナイフが悪いんだ。もっと尖って切れ味があれば、錆びついていない本物の刃物なら殺せたんだ」
七希の後悔は鋭利な刃物への執着へと変わり、部屋の中には自作したナイフがそこらじゅうに転がっている。両親はその恐怖から七希を説得することも追い出すこともできない。七希本人すら何度も部屋に打ち捨てられた自作のナイフで自分の手や足を切って傷跡がいくつも残っていた。
「そろそろ夕飯が置かれてるかな」
片手にナイフを構え、そっと部屋のドアを開く。入り口脇にはいつものようにトレイに乗った夕食が並んでいる。それをナイフを構えながら片手でゆっくりと部屋の中へと引き入れる。蛇が巣穴に餌を持ち帰っているようだった。
ディスプレイの明かりに照らされてようやくメニューがわかる。今日はおはぎとみそ汁。そしてほうれん草のおひたし。少し変わったメニューだが、七希があんこが好きなことを知っていて、時々こうしてあんこが入った夕食が出てくる。
「なんだこれ? 手紙?」
七希が部屋に引きこもり始めてから、外に出るように言われたのは最初の一ヶ月だけだった。血を流しながらナイフを研ぎ続ける七希を見て恐怖の悲鳴を上げて以来、両親とは口をきいていない。
薄暗いディスプレイの光を当てて封筒に書かれた文字を読む。きちんと切手が貼ってあり、紅ヶ谷高校の校章が印刷されている。
「あぁ、やっと退学通知か」
一年生の四月から学校に一度も行っていない七希は二年連続留年して、もうすぐ年も明けるこの時期から通い始めたとしても進学の可能性はまったくない。むしろ今まで肩書だけでも高校生だったことが信じられないほどだった。
七希は研いでいた自作のナイフで封筒を破る。退学の通告だと思っているのに少しも恐怖や不安はなかった。後悔があるとすれば、殺したいほど憎い美咲がどこにいるのかわからなくなってしまいそうということくらいだった。
ひっかかることなくまっすぐに口を開いた封筒から薄っぺらい紙を一枚取り出す。薄赤色をしたその通知はまるで血に浸して色づいたかのようだった。最初に出てきた時はディスプレイの色を反射しているだけかと思った。スマホのライトを当てて確認しても、血で染まっているわけではないようだが確かに赤色をしている。
「退学通知にしたって趣味が悪いな」
中学生の頃に歴史の授業で習った赤紙に似ている、と思った。戦時中に徴兵される連絡はこんな風に薄赤色をした紙で通達されたという。七希の場合は徴兵ではなく追放なのだが、もらった人間が絶望するという意味では同じかもしれない。
取り出した通知の紙には七希の予想していなかった言葉が並んでいた。
『貴殿を三年M組への編入を命じる。M組生は二月一日にC棟多目的教室に出席すること。なお、出席のない場合は当校を退学処分とし、貴殿の秘密は公に暴露される』
本当に徴兵されたような気分だった。風が吹けば飛びそうな紙がずしりと重く感じる。退学を通告されることは予想していた。
「秘密を暴露ってなんだよ。不二を殺そうとしていることか? 誰が知ってるんだ⁉︎」
部屋のドアを乱暴に開ける。両親が近くにいる気配はない。部屋の鍵をかけて、近くの本棚をドアの前に置いてバリケードにする。
「盗聴か? どこか部屋に盗聴器があるんじゃ」
汚い部屋をかき回して探してみるが、七希の手にいくつも切り傷が増えただけだった。七希が美咲の命を狙っていることなんて、普通に考えれば学校は知るはずもない。しかし、ひきこもりを続けている七希にとって他にバラされて困る秘密などなかった。
「そもそも三年ってなんだよ。僕は全然出席してないんだから留年してるはずだろ? もう行くしか、行くしかないのか」
脅迫されていると誰かに言ったところで信じてもらえるはずもない。言えるような相手もいない。七希は二年ぶりの登校に向けて、一人で準備を始めるしかなかった。
実質一ヶ月程度しか通っていなかった高校の校舎に、懐かしいという感覚は覚えなかった。この場所には嫌な思い出しかない。なんとなく周囲の視線が刺さっているような気がして、七希は背中を丸めて身を隠すようにC棟に向かった。
朝のC棟は休日かと思うほどに静まり返っていた。元々この棟には三年生の教室があったのだが、少子化の影響で生徒数が減り、今はほとんど使われなくなってしまっている。七希が美咲をイジメから守った時も職員室から後をつけていなければ、何時間も暴力を振るわれても誰も通りがかりはしなかっただろう。
誰も使っていないはずなのに最近掃除をしたようにきれいな教室には、まだ他の生徒は来ていないようだった。なんとなく出席と聞いて、一時間目に間に合うように来たつもりだったが、思い返してみるとあの通知には時間が書いていなかった。
「もしかして、だまされたのか?」
七希はよく考えずに秘密をバラすという脅迫にビビッて学校まで出てきたことを後悔しながら、廊下側の後ろから二番目の席に座る。待っていれば同じように脅された生徒が来るかもしれない。
「はぁ、早くから来なけりゃよかった」
朝七時から起きたのなんていつ以来だろう。無人の教室では秒針が時を刻む音だけが規則的に響くだけ。七希は何度目になるかのあくびを漏らす。まっすぐ座っていた体は次第に頬杖を突き、冷たい机にうつ伏せになる。いつの間にか睡魔に負けて眠りに落ちていた。
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