第2話 差し伸べた手と振り払われた手

 教師に適当なお礼だけを受けて職員室を出ると、開いた窓から運動部のかけ声が聞こえてきた。ウォーミングアップのランニングをしているらしい。


 結局まだ入る部活も決めていない。特にこれといった趣味があるわけでもない。強いて言うならネット動画で過去の有名犯罪者の手口や脱獄エピソードを見るのが好きなくらい。ミステリーやサスペンスのドラマよりも現実に起こったことなのにむしろリアリティのないところが好きだった。


「でもそんな部活なんてないしなぁ。文芸部に入って自分でミステリーを書きたいとかでもないし」


 そう思いながら図書室にでも寄ってみようか、と教室とは反対側の廊下をふらりと歩いていた。

 見覚えのある後ろ姿が視界に入る。


 そのままの色でも目を引くつやつやとした黒髪は、夕日の赤に負けない美しさで夜空のように輝いている。毎日盗み見ている美咲の後ろ姿を見間違えるはずもなかった。毎日無視され続けているはずの美咲がクラスの女子三人に囲まれるようにして歩いている。


「あっちは特別教室とかばかりのはずなのに」


 少人数授業で使われるだけの多目的教室では放課後に部活をやっているようなこともない。なんとなく嫌な予感がした七希はこっそりと足音を殺して美咲たちの後についていった。


 四人は、美咲を押し出すようにして、人のいないはずの多目的教室に周囲を見回して隠れるように入っていった。


 その次の瞬間には床に何かを落としたような重くくぐもった音が聞こえる。


「いったい何してるんだ?」


 七希は独り言を漏らしながらも、中で何が起こっているかの想像はなんとなくついていた。ゆっくりと教室に近付くと、何かを叩く音がドアから漏れ出している。その音の正体は美咲が暴力を受けている以外に考えられない。


「助けなきゃ、助けてあげないと」


 口ではそう言いながら、七希の体は固まったまま。動け、と頭の中では繰り返していても、足は廊下にくっついたように動かなかった。


 人から見放される恐怖を七希は知っている。誰も助けにこない中、膝を抱えて座っていることしかできない時間は、体の芯から底冷えするほど震え上がる。美咲を助ければ同じことが自分にも降りかかる。それがわからない七希ではない。


「でも、だから、助けたいんだ!」


 恐怖を振り払うように声を張り上げ、勢いのままに教室のドアを乱暴に開けた。わざとらしく立てた大きな足音に美咲を含めた四人の視線が七希に集まる。少したじろいだ七希は動揺を隠して女子たちを睨みつけた。


「何? こっちは取り込み中なんだけど」

「取り込み中? それはただのいじめって言うんだよ」

「正義の味方気取り? そんなの今時流行んないって」


 そう言い返してはいても、リーダー格らしい女子の声は少し震えていた。まさに暴力を振るっている現場を見られたのだ。これが明るみに出れば追い詰められるのは自分だということくらいわざわざ誰もいない教室に連れて行くようなずる賢い彼女はわかっている。


「もういいよ。ほっといて帰ろ」

「そうね。なんか白けちゃったし」


 取り巻きの二人も及び腰で顔を見合わせた後、七希の立っているドアとは反対側から三人は逃げるように走り去っていく。追いかける気にもなれなかったし、美咲の方が心配だった。


 美咲は両腕で顔を隠したまま俯いていて、七希の顔なんて見る余裕もないといった様子だった。


「大丈夫?」


 無事ではないことなんて入る前に聞いた音でわかっていた。顔を隠したまま頷く美咲を隠すように抱き抱えて、七希はそっと保健室へ向かった。


 わずかに翌朝。七希が恐れていたことはすぐに現実となった。


 いつものように教室に入って自分の席に座る。そうすると、誰ともなく七希の周りに人が集まってきて他愛もない話を予鈴が鳴るまで続くのがいつもの日常だった。

 そのはずが周囲が七希を避けるように視線を他へと向けている。


「おはよう!」


 気付かない振りをして、横を通りかかった一人に笑顔で声をかける。答えはなく、やめてくれ、というように顔を背けて足早に七希から離れていった。


 もう疑いようはない。イジメの標的は美咲から七希に移っていた。


 自分の席に黙って座った七希の背中が少しずつ丸くなっていく。低く机に顔を寄せるように前屈みになって、教科書で顔を隠した。


 いったい周りのクラスメイトはどんな表情で惨めな自分を観察しているのだろう。

 そう思うと、怖くなって不安を悟られまいと顔を隠したくなる。


 そこで初めて七希はどうして美咲がいつも背中を丸めて文庫本を食い入るように見ていたのかがわかった。本が好きなわけじゃない。イジメられている自分が情けなくて、そんな姿を誰にも見られたくなかったからだ。


「不二さんは僕の気持ちをわかってくれている、よね?」


 恐る恐る教科書から顔を離し、そっと横目に隣の席に座っている美咲の姿を盗み見る。少しだけ姿勢の良くなった美咲も七希の方を見ている。


 目が合う。声にならない声をあげようとする。でも七希の口からは何も出てこなかった。視線だけで助けを求める。きっと伝わる。同じ気持ちを昨日まで感じていた美咲になら。


 七希の願いとは裏腹に、美咲は逃げるように視線を外す。そこに七希など、助けを求める人間なんていないかのように。


「ふざけるなっ!」


 両手で机を叩きながら立ち上がる。教室にいた全員の視線が七希に集まる。倒れた筆箱から机の上に中身がバラバラと広がった。


「僕が昨日どんな気持ちで!」


 足が震えるほどの恐怖を振り払って助けたのに。

 それなのに、そんなに簡単に裏切るのか。


 机に落ちたカッターナイフをつかむ。少し錆びた刃先を横顔へと向けても、美咲は七希の方へと振り向くことはなかった。


「なんでだよ。こっちを見ろよ!」


 毎日見惚れるほどに見てきた美咲の横顔が黒く歪んで見える。

 それでも七希は両手の血管が浮き出るほど強く握ったカッターナイフの刃を美咲に突き刺すことはできなかった。


 誰かが呼んできた教師二人に羽交締めにされて教室から連れ出される。その姿さえも一瞥いちべつすることなく、美咲は横を向いたままだった。


 七希の暴挙は告白してフラれたことへの逆恨みというどこからともなく沸いた噂で塗り固められ、居場所を失った七希は、二度と学校へ行くことはなかった。


 そして、七希は暗い部屋に閉じこもったまま出てこなくなり、二年以上の月日が流れた。

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