02-03 *



「すみませーん、相模倒れましたぁ」

 よく耳にする声と言葉が、保健室の引き戸を開く音と一緒に聞こえてきた。

 仁科が保健室の入り口を見ると、そこにはジャージ姿の菅原と春日、そして春日に抱えられた和都。

「あー、やっぱりかぁ」

 何かしらありそうだという予想の的中に、仁科は癖っ毛の頭をガシガシと掻いて椅子から立ち上がる。

 そしてデスクから一番近いベッドカーテンを一台分だけ引いて囲み、そこに和都を寝かせるように春日に指示をした。

「いつも悪いねぇ」

「いえ」

 春日が手慣れた様子で和都をベッドに降ろして寝かせる。顔色は悪いが意識はあるようなので、始業式の時より比較的症状は軽そうだ。

「……仁科先生、気付いてたんならコイツに休むように言ってくださいよ」

 ジロリと春日が睨むも、仁科はさして動じず、普段と表情は変わらない。

「やー、言ったんだけどネ。本人に平気って言われたらどうしようもないでしょ」

 ベッドの上では、ジャージ姿のまま横たわる和都が、胸のあたりをギュッと掴んで苦しそうに息を吐いていた。そこにベッド用カーテンを引いて、外から見えないように隠す。

「……さ、こっちは大丈夫だから、戻りなさい」

 保健室を出ていこうとする二人の後ろ姿を見ながら、仁科は思い出したように春日を呼び止める。

「あぁそうだ、春日クン」

「はい?」

「昼休み入っても教室に戻れないようだったら早退させるから、そん時はコイツの着替えと鞄、持ってきてくれる?」

「わかりました」

 春日と菅原が一礼して保健室を出ていったのを見送ると、保健室の入り口に『ベッド使用中』の札を下げてから静かに引き戸を閉めた。

「……さぁて」

 デスク用のキャスター付き椅子をベッド脇まで寄せて座ると、仁科は和都の額に掌を当てる。それから胸の辺りを掴んでいた手首を「ごめんね」と片方だけ取って脈拍も確認した。

 ──熱はなし、脈は少し早め、か。

 いつも倒れる時と、症状としてはあまり変わらない。

「……すみません、せんせ」

「謝るなって。保健室は使いたい時に使っていい場所なんだよ」

 声も掠れ、辛そうに息の上がる頬に触れる。

 脈拍が速いわりに、妙に冷んやりしていた。

「……先生の手、あったかい」

「そう?」

 和都が虚ろな顔で、触れた手の平に頬をすり寄せてくる。

 なんだかまるで、普段は愛想のない野良猫が珍しく甘えてきた時のような気持ちになってしまった。

 すり寄せられた頬をそのままにしていると、酷かった呼吸が次第に落ち着いてきて、心なしか顔色も良くなってきたような気もする。

「……ちょっとは落ち着いた?」

「はい……」

 こちらを見上げる顔が、息苦しさからくる虚ろなものから、眠そうな雰囲気をまとったものに変わったので、仁科は少しホッとした。

「今日は何がダメだったんだろうなぁ? 早く原因がわかるといいんだけどね」

 そう言って頭を撫でるが、和都は押し黙ったまま。

 よく見ると、まつ毛の長い瞼が大きな目を半分閉じていて、意識はすでに半分ほど寝ているようだ。

「じゃあ、休みなさい。なんかあったら呼んで。近くにいるから」

 仁科は立ち上がるとベッドカーテンの外へ出て、クリーム色のカーテンをきっちり閉じる。それからキャスター付きの椅子をキュルキュルと引いて、定位置である作業デスクについた。



 暗い闇の向こうから、自分を責める声がする。

〈どうして言うことが聞けないの?〉

 ごめんなさい。

〈お前のせいでこうなったんだよ〉

 ごめんなさい。

〈──────〉

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


〈大丈夫。お前は悪くないよ〉

 ……え?



 ──……父さん?

 懐かしい声が聞こえた気がして、ふっと目が覚める。

 最後の声は、とても優しくて、暖かかった。

 眠りながら泣いていたようで、目の端に涙が溜まっていて、目の周りには涙の乾いたような跡ができている。喉もカラカラで、寝ながら何か言っていたのではないだろうか。

 ──聞かれてたら、やだな。

 カーテンの向こうにいる人のことが少しだけ気になった。

 とはいえ、眠る前に比べるとだいぶ状態が落ち着いている。心臓に入り込んだあの氷のような冷たい痛みが、キレイに溶けてなくなったようだ。

 寝落ちる前、仁科の手の平が頬に触れた時、体温と一緒に何かが自分の中に入り込んできたような気がする。それが自分の内側に刺さった冷たくて鋭い『いやなもの』を溶かしてくれたのではないだろうか。

 ──もしかして、霊力チカラを持ってる人って、仁科先生?

 確かに仁科は、クラスメイトでも教科担当でもないが、倒れる度にお世話になっているので、一緒にいることが多い人物の一人だ。だが、仁科とはそういった話をしたことがないし、お化けが視えるというのも聞いたことがない。

 和都はとりあえず、横になったまま手を伸ばし、ベッドカーテンを小さく開ける。ちょうどデスクで作業していた仁科が見える位置で、向こうもすぐに気付いてこちらを見た。

「ん、起きた? どうした」

「みず……」

 声を発してみると、思った以上に出ない。だが向こうはすぐに分かってくれたようだった。

「あぁ、待ってな」

 仁科はそう言ってすぐに立ち上がり、ウォーターサーバーの水を紙コップに入れて持ってくる。ベッドカーテンの内側に入ると、上半身を起こそうとしている和都の背中を支えながら、紙コップを渡してくれた。

「ほれ、飲めるか?」

「ん……」

 紙コップを受け取り、口の中に少しだけ水を含んだものの、うまく飲み込めない。

 気管のほうへ入ってしまったのか、喉がつかえたようでゲホゲホッと咳き込んでしまった。

「おっと」

 水をこぼさないよう、咳き込み始めた和都から仁科は紙コップを取り上げる。ゴホゴホと咳き込む和都を見つめていた仁科は、しばらく考えた顔をしていたが、何かを思いついたようで。

「……しゃーないな」

 紙コップに残っていた水を自分の口に含むと、和都の顔を両手で包んで自分の顔に引き寄せ、唇を合わせる。

 ──……え。

 仁科の舌が口の中に入り込んで、その隙間から少しずつ水が流れ込んできた。

「……んっ」

 咄嗟に仁科の腕を掴んで、反抗しようとするも、向こうの力が強すぎてどうにも出来ない。

 こちらに構うことなく、喉の奥にはゆっくりと柔らかい液体が静かに送り込まれてきて、喉が小さくごくん、ごくんと鳴った。

 ──……くそ。

 水と一緒に、暖かい何かが自分の中に流れこんでくるのがわかる。

 口の端から冷たい水が小さく溢れて、着ていたジャージの襟周りを少しだけ濡らした。

 紙コップの半分くらいの水を飲まされて、はぁ、と息をするように口が解放される。

 喉は冷たいのに、顔が熱い。

「……よし、飲めたな」

 目の前にある仁科の顔が、眼鏡の向こうの目を細めて笑っていた。

「な、にしてんの……!」

 ハッとして顔を背けて、口の端に溢れた水滴を手の甲で拭う。

「え、水飲みたかったんでしょ?」

「そう、だけど……」

 仁科が鼻で小さく笑って、ほれ、とタオルを渡してきたので、和都はそれをひったくるように受け取る。

「……この、変態教師」

「軽口言えるなら、もう平気そうね」

 口の端やジャージに付いた水滴を拭く和都の顔を、仁科がじぃっと観察する。具合や顔色がちゃんと良くなったか確認しているのだろう。そういうところは、ちゃんとしている人だ。

「あ。もしかして、初めてだったりした? それならごめん」

「……残念ながら違うんで、大丈夫です」

「なーんだ」

 仁科から視線を逸らしたまま、むすっとした顔の和都がジャージを拭いていると、ちょうど四限目終了のチャイムが鳴り響く。

「お、いい時間じゃん」

 そう言って仁科が閉じていたベッドカーテンを開けた。

 通用口の辺りから、教室へ戻っていくらしいクラスメイト達の足音と話し声が聞こえる。

「ちょうどいいから、みんなと一緒に戻りなさい」

 言われてベッドから降りようとベッドの下を見ると、端の方に上履きが揃えて置かれていた。運ばれる時に履いていた体育館用のシューズは、春日か菅原が持っているのだろう。

 保健室のドアを開けると、仁科が背後から声を掛ける。

「相模、あんま無理すんなよ」

「……はい」

 普段と変わらない表情の仁科に、和都は眉をひそめたままそう返して保健室から出た。

 東階段の方へ足を向けると、ちょうど第二体育館から本校舎へ戻ってきた春日達が通用口から入ってくる。

「お。相模、大丈夫かー」

 気付いた菅原がそう声をかけてきたので、和都はそちらへ駆け寄った。

「うん、もう平気」

「あ、顔色も戻ったな」

「よっしゃー、購買行こうぜー」

「まずは着替えだろ」

 いつものメンバーと言い合いながら、和都はそのまま一緒に階段を上っていく。

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