第14話 居場所(3)


 どうにか弁当を口に放り込んで、弾かれるようにベンチを発った。

 目立ちすぎないぐらいの早足でキャンパスを出る。もう用事なんてどうでもよかった。


 ……気持ち悪い。

 肌がザワザワとむず痒い。喉元に不快感。吐き気がする。

 ただひたすらに、気持ち悪い。


 胃の中の物を全部ぶちまけて、吐き出してしまいたい。気分が悪い。


 でもそんな事はできない。

 瀬奈がせっかく作ってくれたお弁当なんだ。台無しになんてしたくない。

 そんなの、申し訳なさすぎる……。



「…………」


 そうだ。この気持ち悪さの正体は、

 ――罪悪感だ。


 大学をサボって留年している現状への負い目は、当然これまでもあった。

 でもそれは2年間のニート生活の中で薄れ、だんだんと意識しないようになっていた。平気な顔で、寝ぼけたように、毎日ダラダラと生活していた。


 その俺の目を覚ましたのが、瀬奈だ。

 あの子は毎日、勉強を頑張っている。朝は早起きして参考書を開いているし、俺がソシャゲの周回をしている間も世界史の用語をチェックしている。それに家事全般まで負担してくれているのだ。


 生活費と引き換えとはいえ、並大抵のことじゃない。少しぐらい遊んだり、サボりたくなったりしないんだろうか?

 彼女と出会ってまだ日は浅いが、それでもその努力家で真面目な性格は十分伝わってきた。


 今朝だって、朝早くから起きて料理をして、俺のために昼飯のお弁当を作って、手書きのメッセージまで添えてくれて……。


 ――今年こそは頑張って大学行って、留年せずに進級しましょう! 私も応援してますから!


 出会ったばかりの頃に聞いた、瀬奈の言葉を思い出す。

 あの子は信じてくれているんだ。俺を信じて、一心に支えてくれているんだ。

 でも、俺はその信頼を裏切った。

 合わせる顔がない……。


 瀬奈からの手紙はポケットにしまってある。

 でも見返す勇気はない。

 俺にはその、勇気がない。



 駅に向かう大通り。朝の混雑ほどではないが、周囲に人影は多かった。

 足早にその隙間を抜ける。

 顔は伏せて、誰とも目が合わないようにして歩く。


 スマホを見ながらバスを待つ人々、牛丼屋の看板、ビルの隙間から覗く青空まで。

 その全てが俺をバカにしてくる。見下して、嘲笑ってくる……ような気がする。


 錯覚だ。分かってる。でも――

 辛い。

 自分の罪を、無能さを、目の前に突きつけられているみたいだ。


 見るな。

 見ないでくれ。

 俺を、見ないでくれ……!



 駅の改札を抜け、一歩も足を止めずに電車に乗り込む。

 席に座って目をギュッと閉じて、何も考えないようにしていたら、いつの間にか家の最寄り駅の旭台に着いていた。


「はあ……」


 駅構内から出れば、そこには見慣れたロータリー。都心の大学付近に比べればだいぶ人通りは少ない。

 ひとまずホッと息をつく。


 疲れた……。

 なんかものすごく身体がダルい。ドッと疲れてしまった。

 寝たい。布団の中で寝たい。今すぐ家に帰ろう。


 ……待て、ダメだ。

 そうだ、家には瀬奈がいる。


 大学で用事を済ませてくると言って家を出たのだ。

 このまま帰れば、なんでこんなに速く戻ってきたのかと怪しまれるかもしれない。


 入学式の新入生を見るのが辛くて逃げ帰ってきたという事が瀬奈にバレたら――


 ――軽蔑、されるかもしれない。


 自分は辛い受験勉強を頑張っているというのに、俺だけむざむざと大学から逃げ帰ってきたら、「なんて情けない男なんだ」と失望されるかもしれない。

 ……それだけは、嫌だ。


 誤魔化そう。

 誤魔化すしかない。用事を済ませてきたことにするのだ。

 しかしそうはいっても、どこで時間を潰すか……。

 大学に戻るのは論外として、人の多い所には行きたくない。都内で時間をつぶせるようなスポットはだいたい混んでる。


 カフェとか、ファミレスとか?

 いやダメだ。昼間っから一人で何時間も居座ったら目立つ。店員さんに怪しまれるかもしれない。


 それに、近くの席にカップルとか来た場合が最悪だ。

 いちゃいちゃしながらクスクス笑ってるだけで「もしかしたら隣の席の俺をバカにしているのかもしれない」と思ってしまう。


 自意識過剰なのは百も承知だ。それは分かってる。

 分かってるが、「他人が自分をどういう目で見てるか」と想像するだけで、居たたまれなくなるほど辛いのだ。


 はあ……。

 結局どうしようか。

 他人とは目も合わせず、カップルが来そうもないような場所がいいが、そんな都合の良い店なんて――


 そう思って悩んでいると、視界の端にパチンコ屋のド派手な看板が写った。




 人生で初めてパチンコを打った結果は、3000円の勝ちだった。


 右も左も分からずとりあえず席に座り、よく分からん機械にお札を入れてみたところ、どんどん財布が軽くなっていった。

 少しムキになって追加で一万円札を入れたら、ジャカジャカジャカジャーンという爆音と共に機械が鳴り響き、金属のボールが大量に出てきた。


 どうやら大当たりだったらしい。

 何が楽しいのか全く分からなかった。ただただ虚しかった。


 店員に「よく分かりませんがみなさんあちらに行かれますね」と言われたので、景品を換金したら収支差し引きで3000円だけ儲かった。


 千円札3枚。

 大音量の音楽で耳を疲れさせたわりには、あまりにもしょうもない戦果だった。



 古いアニメの主題歌を背に、店から遠ざかる。

 あっという間だった。外はもう暗くなっていた。4月とはいえまだ日が陰るのは早い。

 家に向かって無言で歩く。


 ……なんだろう。何も感じない。

 昼間はあれだけ何もかもが苦しかったというのに、今はもう何も感じない。

 パチンコのマシーンから放たれる七色の光が、俺の心を摩耗させてしまったみたいだ。無言のまま足を動かす。

 …………。


 なんだか、家に帰りたくないな。

 明確な理由があるわけじゃない。でもなんだか気が進まない。大学に行く時と同じような気分だ。自分の家に帰るだけなのに……。

 

 無意味に遠回りしてみる。普段は通らない道。

 すると、個人経営らしき小さなケーキ屋を見つけた。こんな所に店があったのか……知らなかった。


 なんとなく中に入り、パチンコで稼いだ3000円でケーキを二切れ買った。

 そしてまた歩いた。




 アパートの廊下でたっぷり逡巡してから、俺はおそるおそる自宅のドアを開けた。

 ガチャリ。


 すぐに、居間のテーブルで勉強していた瀬奈が振り向いて、


「おかえりなさい、長塚さん!」


 と俺を迎えてくれた。いつも通りの変わらぬ笑顔だ。


「た、ただいま……」


 我ながら、ぎこちない返事だ。


「どうでしたか、大学は。ちゃんと行けましたか? 無事に用事は済みましたか?」

「ああ、まあ……。これ、ケーキ買ってきたから。あとで食べよう」


 言葉を濁す。

 正直に話す元気はないが、あからさまに嘘を吐く勇気もない。


「ケーキ? 嬉しいです! 食後まで冷やしておきますね!」


 ぱぁっ、と破顔する瀬奈。ケーキの入った箱を渡すと、いそいそと嬉しそうに冷蔵庫にしまう。

 その眩しい笑顔が直視できなくて、俺は視線を逸らして靴を脱ぐ。


 下ろしたリュックを瀬奈がすかさず持ち上げ、俺の部屋まで運んでくれる。相変わらず気配りのできる子だ。俺とは違って……。


「きっとお腹空いてますよね。お風呂の前にご飯にしましょう」

「ああ、うん。そうだね」

「今日の夕飯は長塚さんの大好物を作りましたから、楽しみにしていてくださいね!」

「ああ、うん。なるほどね」


 瀬奈が何かを言っている気もするが、ろくに耳に入ってこない。鈍った頭で適当に言葉を返した。

 ボーッとしながら手を洗って、着替えもせずに食卓の席につく。


「いただきましょうか」

「うん。いただきま――」


 半ばオートメーションで、何も考えないまま箸を取ろうとして、

 ――気づく。


「……肉じゃが?」


 大皿に盛られていたのは、あふれんばかりの量の肉じゃがだった。

 これは……。


「はい! 長塚さんの好物だと聞いたので」

「俺のために……?」

「そうですよ。長塚さんは今日、頑張って大学に行ったので、そのご褒美です!」

「俺の……」

「お肉の量も増やしておいたので、好きなだけ食べていいですよ!」


 そう得意げに語る瀬奈。

 俺は箸を手に取る。指先の震えが止められない。そのまま肉じゃがを取り、自分の皿にちょんとのっけてから口に運んで――


「うまい……」


 とてもおいしい肉じゃがだ。

 作った人の、暖かい愛情が伝わってくるような。

 心に染みるような味がした。


「あの、長塚さん……?」

「こっ、この肉じゃが……うまいよ、瀬奈……」

「長塚さん? どうしたんですか!?」


 顔色を変えた瀬奈の様子を見て、

 頬に熱い雫が伝うのが分かって、


「あぁ……うまいよ、本当に……」

「長塚さん!」


 ――俺はようやく、自分が泣いていることに気づいた。


「どうしましたか!? 私、何かしてしまったんじゃ……」

「違うよ! 瀬奈、ちっ、違うんだ。違うんだ……」


 おろおろと狼狽する瀬奈。

 必死に言葉を発しながら、俺は箸を置く。彼女を心配させたくなくて泣きやもうとするけど、どうしても上手くいかない。


「違うんだっ、違う、瀬奈のせいじゃない。全部――」


 涙の雫が、まなじりから頬を伝っていくのを止められなかった。

 胸の奥から、ただただあふれて止まらなかった。


「――全部、俺が悪いんだ」




 全部話した。

 2年前に大学から逃げ出したことから、今日あったことまで。


「……そんな事情があったんですね」


 瀬奈の声が上から降ってくる。


「『事情』ってほど、大袈裟な話でもないさ……」

「…………」


 俺は椅子に座って下を向いている。

 頭を上げられない。

 瀬奈がどんな顔をしてるのか、見るのが怖い。


 ……がっかりしてるかな。

 失望してるかな。

 「それぐらいの事で逃げ出すなんて、情けない男」とか思われてたりするのかなあ……。


 そうだとしても仕方ない。

 俺は自分自身の失敗にも向き合えない、とびっきりのクズなんだから――



「――長塚さん!」

「え?」


 グイッと、身体が引っ張られて。

 頬に柔らかい感触。

 じんわり暖かくて、柔らかいものが顔に押し当てられている。


 こ、これは……。

 俺……瀬奈に抱きしめられてんのか!?


「ちょ、瀬奈!?」


 どうしたんだ、いきなり!?

 驚いて離れようとするが、瀬奈の腕の力は意外にも強く、俺の後頭部をギュッと押さえつけて動かない。


 何がなんだか分からないが……ちょっと位置がマズい!

 俺の頭が……瀬奈のきょ、胸部に!

 布の向こうに、その、なんだか柔らかな感触がぁ……。


「……よく、頑張りましたね」


 へ?


「長塚さんは偉いです。そんな辛い状況で、我慢して大学に行ってたんですね」

「いや、頑張ってなんて……」

「頑張ってますよ! 頑張ってるから――涙が出るんでしょう?」

「……瀬奈」


 違うんだよ、瀬奈。

 勘違いしてる。

 俺はそんなに偉い人間じゃないんだ。


「ただ、逃げ出しただけだよ……。なんもしてないよ。頑張ってなんかない。逃げて、逃げて、親の金で引きこもってるだけのクズだ」

「違います。まだ出会ったばかりだけど、私は知ってます」

「瀬奈に……何が分かるんだよ」

「分かりますよ。長塚さんが本当にただのクズなら、私はここでこうしていません。一緒に暮らそうだなんて思いません」

「俺と出会ったのは偶然だろ。ただの偶然だ。俺じゃなくたって、誰だって……」


 ……俺じゃなくたって。

 俺じゃなくたって、誰だって、目の前で困ってる人がいたら慰めたんだろう?

 瀬奈は優しい子だから……。


「確かにスタートは偶然だったかもしれませんけど、今こうしているのは自分の意志ですよ」

「…………」

「誰でもって……信頼できる人だって思ってなかったら、こんな風に抱きしめてまで慰めたりしませんよ。私だって恥ずかしいんですよ?」


 ちょっと照れくさそうに瀬奈は微笑む。


「長塚さんは頑張りました。頑張った結果、ちょっとつまずいちゃったってだけです。だからそんなに自分を卑下しないでください」


 …………。


 おずおずと、俺は瀬奈の背中に手を回す。

 少し恥ずかしいけど、それでも今は彼女の体温を感じていたかった。


「瀬奈、その、嫌だったら……」

「嫌じゃないですよ」


 即答が返ってきた。

 それに甘えて、俺はしばらく彼女を抱きしめたまま黙る。


「……俺さあ」

「はい」

「大学に居られなくてさ、どこにも自分の『居場所』がなくて、そんで逃げ出して……2年も経っちゃったんだ。俺、どうやって生きていけばいいのかなあ」

「何を言ってるんですか?」

「え?」

「この家が、長塚さんの『居場所』じゃないですか!」


 瀬奈は力強く、断言した。


「居場所はここにあります。いつでも帰ってきていいんです。辛かったら逃げていいんです。私が、この家にいますから。私が待ってますから、だから……」

「瀬奈……」

「だから、泣いたりなんてしないでください、長塚さん」


 ……そう言った彼女は、俺よりもずっと悲しそうな顔をしていた。

 心配、させちゃったのかもしれないな。


 俺の目から流れていた涙は、いつの間にか止まっていた。




 しばらくして落ち着いたら、どちらともなく俺と瀬奈は身体を離した。

 少し名残惜しかったけど、お腹が空いていたし、彼女の作ってくれた夕飯が冷める前に食べてしまいたかった。


 肉じゃがは最高にうまかった。

 断言してもいい。あの肉じゃがは、世界で一番おいしい料理だった。


「ケーキ、どう? ショートケーキおいしい?」

「はい、おいしいです! フルーツも生クリームも好きなので」

「よかった。チョコと迷ったんだけど、こっちで正解だったな」


 食後。

 瀬奈と一緒に、パチンコ帰りに買ったケーキを食べている。


「……明日だけどさ。俺、もっかい大学行ってくるわ」

「えっ」


 小さな口でちまちまとクリームを食べていた瀬奈が、驚いた顔で俺の方を見た。


「大丈夫なんですか? 今日行ったばかりなんですし、そんなに急がなくても……」

「いや、行く。明日行かないと一生行けなくなる気がする」

「でも……」

「大丈夫。居場所があるって分かったからな。瀬奈が教えてくれたから、大丈夫だ」


 瀬奈が、家で俺を待ってくれている。

 それが分かったから、もう大丈夫だ。

 どんな辛いことでも頑張れる。


「……分かりました。応援してます!」


 まだ少し不安そうに、それでもニッコリと笑って瀬奈は言った。

 ああ、良い子だなあ……。


 ……頑張ろう。

 他の誰に笑われてもいい。後ろ指を指されたって構わない。そんなこと今更気にしない。

 それでも。それでも、この子にだけは。

 この子にだけは、恥ずかしくないような生き方をしたい。


 俺は、強くそう思った。

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