第9話 君は桜の下で(1)


 買い物は終わった。


 電車に乗って家へ帰る。都内の夕方だけあって車内はそれなりに混んでいたが、運良く二人分の座る席を確保することができた。


 ガタンゴトン、と電車が進む。

 窓から見える建物が、都心から遠ざかるにつれて少しづつ変わっていく。


「……………」

「…………」


 中吊り広告の揺れる列車。俺の隣に座る美少女は、真剣な顔で手元の単語帳を見ていた。

 どうやら英語の勉強をしているらしい。無言のまま、鮮やかな唇を小さくパクパクと動かして英単語の発音を確認している。


 こういう姿を見ると、瀬奈って本当に浪人生なんだなって思う。

 頑張ってて偉いなぁ……。


「旭台〜、旭台駅に到着しました」


 お、着いたな。


「瀬奈、降りるよ」

「…………」

「瀬奈?」

「あっ、はい!」


 単語帳を慌ててしまい、とたとたと電車の外に出る瀬奈。よっぽど集中してたみたいだ。



 改札を抜けて、そのままアパートに向かう……

 と見せかけて。


「ちょっと寄り道しない? そんな遠くないから」

「寄り道ですか?」

「うん」


 まあ、ほんとにちょっとした目的地だけど。散歩にはちょうどいいだろう。


 散歩は好きだ。瀬奈と出会ったのも散歩の最中だった。

 あの時は夜だったけど、今はまだ夕方。冬が終わってすっかり日が伸びた。まだ昼間のように明るい住宅街を歩いていく。



「長塚さん、荷物重くないですか? 一つぐらい持ちますよ」

「え? いいよぉ別に、こんぐらい」

「でも……」

「てか思ったけどさ、瀬奈勉強めっちゃ頑張ってるよね。偉いわマジで」

「そんな、単語帳を読んでるだけですよ」


 照れくさそうに謙遜する瀬奈。


「それがスゴいんだよ! 俺、単語とか文法とかの勉強って全ッ然できなくてさあ。面白くないから途中で飽きてやめちゃうんだよねー。面白くないことをちゃんと続けるって凄いよ」


 面白いことなら誰でも続けられる。

 面白くないことを続けられるのは、一つの能力だと俺は思う。


 俺にはそれができなかった。根気が無かった。

 だから朝起きられなくて、大学も留年してしまったのだ。


「だから尊敬するよ。マジで頑張ってると思うわ」

「…………」


 返事はない。レジ袋の擦れる音が響くだけだ。


「……長塚さんは」


 瀬奈が口を開いて、


「私――合格できると思いますか?」

「へ?」

「今年こそ、私、合格できると思いますか?」


 横を向く。

 瀬奈は顔を下げていて表情が見えない。手を身体の前でギュッと握りしめて、静かに俯いている。


「できるよ」

「――っ!」

「できるできる、多分ね。リラックスしてこ」


 合格してほしいなあ、マジで。だって二浪だぜ?

 これでまたダメでしたなんてなったら辛すぎるよ。


 そう思って何の気なしに、本当に気楽に発した言葉だったが、


「そう、ですか」


 瀬奈は静かに言った。その表情は見えない。


「……? 瀬奈?」

「長塚さん、ところで私達は今どこに向かっているんですか?」

「あ、やっぱり気になる?」


 どうかしたのかと思ったら、逆に目的地を聞き返された。

 まあ隠すようなもんでもないし、教えちゃうか。


「実はさ……家からちょっといったところに神社があるんだよ。あまり大きい神社でもないんだけど、そこの桜がそれなりに綺麗だから、瀬奈にも見せてあげたくて」


 散歩の最中に見つけたスポットだ。他の参拝客もほとんどおらず、物静かな場所なので気に入っている。

 周囲の道幅がだんだんと狭くなってきた。駅前の整理された区画から離れ、古い住宅街に入ったのだ。


「桜、ですか?」

「そ! 多分ちょうど見頃だろ? せっかくだから寄ってこうよ」

「でも……こないだ大雨がありましたよね。散ってしまってないでしょうか……」

「あ……」


 マズい。完全に忘れてた。

 先日――瀬奈と出会う前日、とんでもなく激しい雨が降ったのだ。

 ちょっとした台風ぐらいはあったと思う。その時は「これが春の嵐ってやつか……」などと感慨深かったのだが、確かにアレで桜が散ってしまっていてもおかしくない。それぐらいの激しさはあった。


 マズいな……ドヤ顔で「桜を瀬奈にも見せてあげたくて(ドヤァ」とか言ったのに、肝心の桜が跡形もなく散ってたら悲しすぎる。気まずすぎるだろ。

 そうこうしてるうちにも、どんどん神社は近づいてくる。

 どうすれば――



 ――全く其方は、考えが甘いですね。


 すると、目の奥がチカッと白く点滅した。


 ――仕方ない。この「浪人と留年を司る神」である私が助けてあげましょう。


 どこかで、前にも、夢の中で聞いたような声がして――


「長塚さん、あれ……」

「へ?」


 瀬奈の声に、ハッと気を取り直して前を向く。


 立ち並んだ家屋の向こう。

 そこには、桜があった。


 神社の敷地から、柵を越えて道路にはみ出しそうなぐらいの勢いで。

 桜が咲き誇っていた。

 散った様子など全くない、見事なまでの満開だ。



 俺と瀬奈は、吸い込まれるように神社の鳥居をくぐる。


「凄い、ですね……」


 ボーッとした様子で、周囲を見上げて呟く瀬奈。

 思わず言葉を失ってしまうのも仕方ないぐらいの、それぐらいの絶景だった。


 石畳の参道を歩く。枝は四方八方に手を伸ばし、プラネタリウムのように空間を丸ごと覆っている。右を見ても左を見ても桜、桜、桜だらけだ。

 そっと吹く春の風に揺れる花びら。その花びらの一つ一つが、陽光を浴びて優雅に輝く。空の蒼とピンク色のコントラストが美しい、なんとも絵になる光景だった。


 眩しいぐらいの光に、思わず目を細める俺。

 ものすごい景色だが、これはいったい……?


「長塚さん、ここの神社って、いつもこんな感じなんですか……?」

「いやいや! 俺この街に住んで三年、もうすぐ四年だけど……こんなの初めて見るよ……」


 マジで初めてだ。

 毎年こんな風に咲くなら、とっくにこの神社は桜の名所としてネットで拡散され、今頃インスタグラマーだらけの場所になっているだろう。それぐらいされても不思議じゃないぐらいの咲きっぷりだ。


 まるで夢なんじゃないかと思ってしまいそうになるが、目の前にあるんだから認めるしかない。

 いやはや、不思議なこともあるもんだなあ……。



 ひらひらと、バレリーナのように繊細に、一枚の花弁が空から降ってきた。

 それは重力に引かれて落下し、瀬奈の広げた手のひらにゆっくりと着地する。


 彼女はそれをしばし眺めて、


「……長塚さん、私、実は桜が嫌いなんです」

「え!?」


 衝撃の一言を発した。

 桜が嫌い!?


「嫌いって……桜が?」

「はい」

「え……な、なんで? なんで嫌いなの?」

「私にとってこの時期は、『大学受験に落ちる季節』ですから。一人ぼっちで桜を見ていると、また今年も受からなかった、また一年を無駄にしてしまったって……そう思い知らされるような気がして。みじめな気分になります」


 げえっ! マジかよっ……!?

 思わず固まる俺をよそに、瀬奈は淡々と語り続ける。


「みんなはちゃんと試験に受かって大学生になってるのに、私だけ置いていかれるんです。また、受験勉強漬けの日々が始まるんです。私にとって桜は、新しい一年の祝福じゃなくて、もう一度同じ地獄が始まる合図なんです。……だから嫌いなんです」


 ……………………。

 ヤバい。地雷踏んじゃった。まさか桜を見にきただけで瀬奈のトラウマを刺激してしまうとは……。


 ちょ、マジでどうしよう。なんて言おう。


「あ、あの、その……」

「でも――長塚さん」


 パッと振り向いた瀬奈。それはまるで満開の桜のような笑顔で、


「一人じゃなくて、誰かと……長塚さんと一緒に見られるなら。それならこの桜もなんだか悪くないって、そんな気がします」

「瀬奈……」


 実に美しい、笑顔だった。


「いいですね、桜。綺麗じゃないですか。受験勉強なんてへっちゃらです。地獄だろうがなんだろうが、どんとこいですよ!」


 瀬奈は力強く言い放つ。

 それは自らへの宣誓のようにも、残酷な世界への宣戦布告のようにも聞こえた。


 手のひらに乗っかっていた桜の花びら。彼女はそれを、ふぅ~っと吹いて飛ばす。

 舞い上がったそれは、たちまち差し込む陽光の中に紛れて見えなくなる。


「私をここに連れてきてくださってありがとうございます。長塚さんと一緒に桜が見られて、私は幸せものですね」


 これからも、勉強頑張ります――

 ニコリと微笑んで、瀬奈はそう言った。

 咲き誇る桜の中心に佇むその姿は、まるで妖精か何かのように、人間離れして美しかった。


「…………」


 俺は返事もできず、まるで一枚の絵のようなその光景に圧倒されている。


 桜だ。

 桜が咲いている。



 ――来年、瀬奈が大学に合格したら。

 そしたら、もう一度彼女と一緒に桜が見たい。


 なぜだか無性に、本当に素直に、そう思った。

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