第5話 夢があるんですよ
よく考えたら――というかよく考えなくても、この子メチャクチャかわいい。
さらっさらの枝毛一つない黒髪に、人形みたいに整った顔。でもそこには嫌味な感じがなくて、見ているだけで笑顔になるような人間らしい美しさだ。
所作は丁寧で、常に上品。しかも料理がうまい。
健気で、家庭的で、一途で、奥ゆかしくて、結婚したら俺だけに尽くしてくれそう……。いやこれは結構俺の勝手な妄想が入ってるけど。
いくら向こうにもメリットがあるとはいえ、だらしない俺を軽蔑せず(内心してるかもしれないけど)家事の世話を買って出てくれたのがそもそも凄い。
嬉しいというか、凄い。マジで凄い。尊敬しちゃう。
ちょっと古い言葉だけど、「良妻賢母」的な雰囲気がある。
男の理想を全部詰め込んだ欲張りパックみたいな美少女だ。
はぁ……。この子と結婚できたら幸せだろうなあ。
仕事で疲れて返ってきた俺を、エプロン姿で出迎えてくれるんだ。
「お帰りなさい大和さん。お仕事どうでした?」
「大変だったよ。部長がまたアレコレうるさくてさあ」
愚痴を言いながら、俺は革靴を脱ぐ。スーツのジャケットも脱いで瀬奈に渡す。
「お疲れさまです。よく頑張りましたね」
「家に愛しい妻が待ってるからね。気合い入れて仕事したよ」
「まあ、あなたったら……」
照れて顔を赤くする瀬奈。俺の妻はかわいいな~。
「今日の夕飯は?」
「あなたの好きな肉じゃがです。腕によりをかけて作りました」
「やった! ありがとう!」
瀬奈に礼を言うと、彼女は笑顔でこちらの耳元に口を近づけてくる。
「喜んでもらえて嬉しいです。まずはご飯にしますか? お風呂が先? それとも――」
――って、なんだこのイメージは!?
一瞬のうちに、瀬奈との新婚生活の妄想に没頭してしまった……。俺の脳内でだけ籍入れてから三年は経ってたな。
しかも俺ろくに働いたことないから妄想のディテールが粗いし。部長と課長ってどっちが偉いんだ? なんも分からん。
「……? 長塚さん、どうかしましたか?」
「へっ!?」
ヤバい。脳内新婚生活に浸りすぎて怪しまれてしまった。
「ああうん、ダイジョウブだよ。ダイジョブダイジョブ」
「そっ、そうですか……それなら良いんですけど……」
慌てて誤魔化す。
クソッ、恐ろしい女だ。俺をここまで深い妄想の海に引きずり込むとは……。
閑話休題。
「……なあ、仮の話だけど」
「はい」
「もし俺が、その提案は――一緒に暮らすってのは受けられないって答えたら、これからどうするつもりなんだ?」
試しに、聞いてみる。
すると瀬奈はキッパリとした顔で、
「仕方ありません。一人でどうにかします」
「でも、バイトと勉強と家事を全部やるのはキツいって、さっき……」
「それも含めて、仕方ありません。難しいというだけでは夢を諦める理由にはなりませんから」
……力強い言葉だ。
嘘偽りなく、真に魂から出た、本当の力がこもっている言葉だった。
俺は現役で
多分無理だろう。ていうか無理だ。
俺にはこんな根性はない。他人の家に泊まり込んでまで受験勉強という地獄を生き抜こうという根性が。
世界と自分に絶望してニートになるのが何年か早まっただけだろう。
「じゃあ、やっぱり、俺の家にいられた方が……楽ではあるよね」
「はい。もちろんその方がありがたいです」
「…………」
分かってる。言い訳だ。俺は言い訳を探している。
「それなら仕方ないよなあ」って、自分を納得させるためのエクスキューズを。
きっと、俺は怖いんだ。
世間体とか社会常識とか、そんな事はどうでもいい。
怖いのは――
このアパートに、生ぬるく湿った曖昧な地獄に、他者という異物が入ってくるのが怖い。
孤独で、自堕落で、クソみたいなこの生活を、破壊されてしまうのが怖い。
分かってる。こんな良い条件は他にない。
こんな可愛い子が、俺の家に住み込みで家事をやってくれるってんだ。普通なら一も二も無く飛びつく話だ。金はかかるけど、どうせ親の金だし。
それでも怖い。ずっと直したいと思っていたはずなのに、こんな一人ぼっちの生活なんて飽き飽きだと思っていたはずなのに、変わってしまうのが怖い。
俺は怖がりなんだ。
瀬奈との生活に心惹かれる自分と、変化を怖がる自分が、両方俺の中にいる。
どっちの「自分」を、選ぶべきなんだろうか。
どっちの自分を……。
「二浪してまで受験勉強を続けようとしてるのはマジで凄いと思う。思うけど……どうしてそこまでして大学に行きたいの?」
そんなに良い場所じゃないよ、大学なんて――
口にしかけて、慌ててやめた。
危ない危ない。いくらなんでも酷すぎる。俺は確かに人間のクズだが、この子の頑張りに水を差すような最低なやつにはなりたくない。
でも純粋に不思議だった。二浪ってのは尋常じゃない。一ならともかく二だ。
どうして、そんなに頑張れるんだろう。
その疑問に、瀬奈は小首をかしげた。
「うーん、とですね。……夢があるんですよ」
「夢? それは大学じゃないとできないこと?」
「ええ」
「どんな夢なの?」
「ふふっ。恥ずかしいので、それは秘密です」
照れくさそうに笑う瀬奈。
なんだこいつ。可愛いな。
「夢かあ……」
随分懐かしい言葉だ。
「凄えなあ。俺、夢とか目標とか無えからさぁ……。何かに向かって努力できるって凄いことだよ」
一心不乱に頑張ってる人って、それだけでキラキラ輝いて見える。
眩しくなってしまう。
網膜が痛いぐらいに。直視できないぐらいに。
「え? あるじゃないですか」
「へ?」
俺の、夢?
そんなものどこに――
「進級ですよ。今年こそは頑張って大学行って、留年せずに進級しましょう! 私も応援してますから」
「瀬奈……」
輝くような瀬奈の笑顔。
強く眩しく、それでいてこちらを暖かく包み込む太陽のような光。
「――それは、確かに。確かに俺の夢だな」
「そうでしょう? 私と一緒に頑張りましょう、長塚さん」
「いやぁ~キツいぞ? 俺は筋金入りの社会不適合者だからな。簡単に夢が叶うと思わない方がいい」
「なんでちょっとドヤ顔なんですか?」
視線を合わせて、俺と瀬奈はクスクスと笑う。
……分かってる。言い訳だ。
怖がる自分を説き伏せるための言い訳を、俺は探している。
「――ねえ、肉じゃがって作れる?」
「肉じゃがですか? ええ、作れますよ」
「親子丼は? 豚汁は?」
「どちらも得意料理です」
「そっか。なら――」
それでも。
(言い訳でもよくない?)(なんかこの道イイ感じじゃね?)って。
心のどこかで思ってしまったから。だから――
「これからよろしく。瀬奈」
「……っ、はい! よろしくお願いします、長塚さん!」
三月末。
冬が終わり、瑞々しい春が始まろうとするこの季節。
東京の端っこのアパート、2DKのダイニングで。
ダメダメ大学生(二留)と清楚な新妻系美少女(二浪)、落ちこぼれ同士の奇妙な同棲生活が始まった。
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