9 お助けしたら、


 突然の木蘭ムーランの名前に戸惑う。

 急いで声が聞こえた方向を探すと、ここから少し離れた場所に、大袖の襦裙で必死に走る木蘭と、それを追う牙を剥いた獅子ほどの大きさの三毛猫――否、あやかし『猫魈ねこしょう』がいた。


「なぜこんなところにあやかしさんが!?」


 猫魈は元は飼い猫であった猫が猫又となり、さらに年月を経て力を得た姿だ。巨体に三つの尾を持っている。

 恐怖で引きつった顔で息を切らしながら逃げる木蘭を、猫魈は今にも咬み殺しそうな様子で執拗に追いかけていた。


(木蘭様から気を逸らさなくてはッ)


 苺苺は駆け出しながら、大きく広がった袂から簡易裁縫箱を急いで取り出す。

 そうして先端が鋭くなっている糸切り鋏を手に持つと、『裁縫の名手』にとって命よりも大事な手のひらを、戸惑うことなく傷つけた。


「いっ」


 肉が裂け、焼けるような痛みの後に鮮血が滲む。

 苺苺はきゅっと眉根を寄せて痛みを我慢して、流れ出る血をぬい様の朱色の衣服に含ませた。


 木蘭の形代、異能の鮮血。


 これであやかしの眼は誤魔化せるはずだ。


「木蘭様ッ!」

「……う、っ」


 足がもつれてしまった木蘭が、べしゃりと地面に転倒する。

 その隙を猫魈は見逃さなかった。


「シャァァアア」

「危ないっ!!!!」


 猫魈が木蘭に襲いかかる。

 苺苺は腕を大きく振りかぶって、猫魈目掛けてぬい様を投げつけた。


 ぬい様が猫魈の前にぽてりと転がる。

 すると作戦通り、猫魈は木蘭から狙いを変えて、勢いよくぬい様に飛びついた。

 木蘭の身代わりになったぬい様を、大きな牙が貫く。


 苺苺は木蘭に走り寄って、「大丈夫ですか!?」と背中に手を当てた。


「ぬい様、あなたの勇姿は忘れませんっ。さあ木蘭様、ぬい様が食い止めているうちに、お逃げくださいませ」

「……あなたは、白家の」


 紫水晶の大きな瞳に、苺苺の姿が映る。


「木蘭様、宦官を連れて参りました!」

「貴姫様、あやかしが出たと……!」


 いつの間にか、先ほどの木蘭付きの女官が、槍を持った宦官たちを連れて駆けてきていた。だが。


「このっ、白蛇めかッ。どけ!」

「きゃあっ!」


 いかめしい宦官は到着するやいなや、槍の柄で苺苺を背を打ちつけ、乱暴に転がした。


「なにをする、あやかしはあちらだ! 妾の――皇太子殿下の命なく、妃を罰するなど、許されぬぞ! 彼女は妾の恩人だ!」


 木蘭はふるふると震えながら、苺苺を守ろうと声を張り上げる。


「そ、そうです。わたくし、木蘭様のお力になりたくてここへ」

「この女、手から血が出ているぞ! 妖術を使った証拠だ!」


 しかし六歳の幼妃の言葉を軽んじているのか、後宮にほとんど姿を現さない皇太子殿下を見下しているのか。

 はたまた、後宮の嫌われ者である白蛇妃をいたぶる機会を逃したくないからか……。

 いや、そのすべてが理由なのであろう。


 宦官は誰も、妃たちの訴えに対して聞く耳をもとうとしない。


選妃姫シェンフェイジェンの場以外で他の妃を蹴落そうなど、卑怯な『白蛇の娘』め!」

「お待ちくださいませ、本当にわたくしは不埒な思惑など抱いておりませんっ」


 苺苺も負けじと自分の正当性を主張する。

 だがその甲斐も虚しく、宦官らに両肩を押さえつけられ跪かされてしまった。


「待てっ、彼女を一体どうするつもりだ……っ!」

「木蘭様、危のうございます。近づいてはなりません」


 苺苺に駆けよろうとする木蘭を、女官が慌てて引き止める。


「異能の妃など我らが罰してやる! この悪女め!」

「…………そんな、お待ちください、わたくしは――っ!」


 宦官らは苺苺を罵りながら、きつく縄に掛ける。

 そして今まで無視していた木蘭に恭しく礼を取ると、極悪人を引っ立てるようにして、その場から苺苺を連行したのだった。


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