3 本日も健やかな日常を守ります
苺苺は長い上衣の
特殊な針で異能を操り、その刺繍の中に呪靄となった悪意を封じ込めるという破魔の術だ。
紫色の光沢感のある上質な糸を絹地に刺すたびに、針から糸へ、きらきらとした白い燐光が脈打つように伝わっていく様子は、特別な眼を持つ者が視れば息を呑むほど美しい。
すでに木蓮の花が幾重にも咲き誇る円扇に、新たな木蓮の蕾を刺し終えた瞬間――絹地の上に白い光の花が咲く。
木蘭の周囲にあった青黒い靄は、ふっと霧散した。
彼女に害をなそうとしていた悪意が無事、異能の檻に囚われたのだ。
「よかった……。本日も推しの健やかな日常を守ることが叶いましたわ!」
苺苺は緊張と早業刺繍でかいた汗を「ふう」と拭う。
まさか悪意に害されそうになっていたとはつゆ知らず、幼妃はとうとう睡魔に耐えきれなくなったのか、ゆらゆらしたのち、ぱたりと上座で倒れる。
この円扇に刺繍された木蓮の花の数だけ、木蘭は強い悪意に晒され、呪われ続けている。
とても異常で危険な状態だ。
(う〜〜〜っ。それでも、わたくしはこうして影からこっそり推し活をすることでしか、木蘭様をお守りできませんッ)
簡易裁縫道具箱を袂に仕舞い、苺苺は涙をのむ。
禁忌の異類婚姻で生まれた白蛇の娘と忌避される後宮の嫌われ〝白蛇妃〟が進言したところで、犯人扱いされて終わりなのは目に見えている。投獄されたり、後宮から追放されたりしたら祓うことすらできない。
「それならこうして静かに推し活を嗜んでいた方が、ずっと推しのためになるというものです……!」
ふんすと鼻息荒く胸を張った苺苺は、今日も満足げな微笑みを浮かべる。
視線の先では、木蘭付きの上級女官が慌てて幼妃を揺り起こしていた。
◇◇◇
数千人が働くとされる
皇帝の妃嬪が住まう皇帝宮、そして皇太子の正妃候補が住まう皇太子宮だ。
皇帝宮は後宮の西側に位置しており、皇后と上級妃が住まう絢爛豪華な〝西八宮〟を中心に、中級妃用の宮や下級妃が共同生活を営む長屋があり、後宮のほとんどを占めている。
対して、皇太子宮とは後宮の東側に位置する区域のことを指す。
敷地面積は皇帝宮の半分ほどで、九星術や風水学に基づいて皇太子宮内を八つに割った上で建築された〝東八宮〟のみで形成されていた。
後宮でも『特別な場所』である東西の宮のことを、人々は敬意を込めて〝東西十六宮〟と呼ぶが、水星宮だけはその枠組みから外されているのは誰の目から見ても明らかだった。
なぜなら水辺が近いため朝晩は冷えてよく霧が立ち込めるし、晴れている日でも湿気で少しじめじめとしていて、なにより『宮』と呼ぶのを
だが、しかし。
ふた月前の入宮当時――最初の
「まあ、なんて趣のある歴史的建造物でしょう! こちらが、白蛇妃が代々住んできたという水星宮……っ!」
燐華城の多くの宮殿は黄瑠璃瓦で葺かれ、朱塗りの柱や欄干が並ぶ絢爛豪華なものだが、水星宮は青銅瓦の灰色屋根に黒塗りの柱があるだけで、欄干なんてものはない。
妃の目を楽しませる飾りもなく、ただただ簡素な建造物である。
それもそのはず。他妃の宮で物置蔵や馬小屋として使われている建物こそが、水星宮に存在する唯一の本殿だった。つまりここは本来、寝殿と呼べる場所ではないのだ。
そのうえ長らく冷宮だったため、他宮と違い老朽化に伴う修繕も行われていない。
広い後宮内でも数少ない建国当時からの面影を濃く残した〝灰かぶり離宮〟。
それが、これから先――苺苺が後宮を出るまで住み続ける水星宮であった。
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